上 下
18 / 42

第十八話 イマジナリー・キャット

しおりを挟む
 猫砂を抱えて帰宅したところを、待ち構えていた大家に捕まった。マンションのエントランスに足を踏み入れた途端、物陰から飛び出してきたのだ。
「は!」
 と勝ち誇った顔で彼は言った。
「こんにちは」
 と私は無理に笑顔を浮かべて言うと、彼の横をすり抜けて、早足に階段を上り始めた。部屋は四階だ。
「その砂は何に使うんですか」と私の後に追いすがりながら大家が問う。
「これは、ええと、水分をよく吸い取るので――」
「猫を飼ってるんですよね」
 大家は私の背中に向かって、言う。小太りの彼は、まだ二階を過ぎたところなのにもう息切れをしている。
「ここはペットは禁止だって言いましたよね」
「知ってます」
「苦情が来てるんですよ、お隣さんから。猫の鳴き声がうるさいって。夜中に走り回るから眠れないって、下の階からも」
 四階まで一気に登りきると、私も少し呼吸が乱れたが、四〇四号室のドアに突進した。片手で猫砂の大袋を抱え、もう片方の手に鍵を握りしめて。
「何かの間違いですよ」
 私は大家の方を見ないで叫び返した。息が苦しかった。年配の大家が遅れて階段を上りきったところが視界の端に映っていた。
「何も飼ってませんから」
 ドアを開けて中に滑り込み、急いでドアを閉めた――つもりだったが、大家の靴が間に挟まっていた。
「中を確認させていただきます」
「困りますよ、急に。散らかってるので、後日改めて」
「そうはいきません。言ったでしょう。苦情が来てるんです。調べさせてもらいますよ」
 とうとう強引に押し切られてしまった。

 調べるといっても、ワンルームだ。狭い三和土からキッチンと浴室、トイレのドアの向うに見えている部屋、それだけ。大家に促されて浴室とトイレのドアを開け、備え付けのクロゼットの戸を開け、ベッドの下やベランダを確認しても何もいないので、冷蔵庫の扉まで開けさせられた。
「おかしいなあ。隠すところなんてないはずなのに」
 大家は首を捻った。
「だから、言ったじゃないですか」
「でもそこの、部屋の隅っこに置いてあるのは猫のトイレですよね。そっちのキッチンに置いてあるお皿二つは、キャットフードと水だ。そして、新しい猫砂を買って帰って来た。一体、なんのために?」
「それは……」私は口ごもった。
「私は猫が大好きなんです。でも猫アレルギーで飼えない。ここがペット禁止なのも知っています。せめて、猫を飼ってる気分だけでも味わいたいと、色々『猫グッズ』を買い漁ってるんです。特注の首輪も買ったりしてますが、それが何か罪でしょうか」
「しかし、隣と階下の住民から苦情が」
「何かの間違いじゃないですか。猫好きが高じて、猫の動画を見るときに気付かず大きな音にしすぎたかもしれません。それは、すみませんでした。これから気を付けます。猫が走り回ってるっていうのは、ちょっと理由がわからないです。マンションの隙間からネズミかイタチでも入り込んだんじゃないですか」
 我ながら苦しい言い訳だと思ったが、床に這いつくばって見ても猫の毛一本見つからなかったのだ。納得がいかない様子で、大家は帰って行った。

 にゃー

 鳴き声がして振り向くと、小型の冷蔵庫の上にちょこんと座っている黒猫の姿があった。頭を撫でてやると、猫は身軽に床に飛び降り、私の足に体をすり寄せてきた。
「やっぱり、お前の姿は他の人には見えないんだなあ」
 私はしゃがんで黒猫の頭や体、尻尾を撫でてやりながら言った。
 黒猫は目を細めて喉を鳴らす。
 この黒猫は、実家で飼っていたクロである。
 私が職場のトラブルにより精神的に追い詰められ、いよいよだめだ、と思った時期に現れた。もう三年も帰っていない実家の老猫にそっくりの、真っ黒な毛皮に金の目をした可愛い子であった。
 最初は、開け放ってあったベランダの戸から侵入したのだろうと考え、じきに出ていくと思っていたが、居ついてしまった。ちょっと目を離した隙に姿を消してはまた現れ、それは家中の戸締りをしてあるときにも起こるのだが、私はただ、少しずつキャットフードや猫用トイレ、猫砂などを買いそろえていった。特注の首輪をネットで注文したのも本当の話で、それは黒猫の首に巻き付いている。
 しかし、トイレの砂は、ひっかきまわしたような跡はつくものの決して汚れることはなく、餌と水は気が付くと量が減っているのだが、猫が飲んだり食べているところは見たことがなかった。
 そして、久しぶりに実家の母親からスマホにメッセージが届いたと思ったら、老猫が虹の橋を渡ったという知らせだった。十八歳、猫としては大往生だ。
 それまでは時々姿を現す程度だった黒猫が、ずっと私の部屋にいるようになったのはそれからだ。
「なんだ、お前、やっぱりクロだったのか」
 私は猫に話しかけた。クロはにゃーと鳴いた。見た目は、そっくりだと初めから思っていた。しかし全身が真っ黒い猫というのは、どれも似て見えるものである。私のところに押しかけるようにして現れた黒猫の正体がなんであれ、くたびれ切った体で帰宅した時に出迎えてくれる猫のお陰で、私は前よりいくらか元気になった。
 私は汚れていなくても猫砂を定期的に取り替え、餌や水も新鮮な者に保つようにしている。そうしないと、クロが怒るからだ。
「でも……足音や鳴き声が他所の人に聞こえちゃうのは困るねえ」と私は言ったが、実はそれほどでもなかった。私以外の者にこの子の姿が見えないのであれば、追い出される心配もないのだから。
「ちょっとだけ夜静かにしてくれると嬉しいんだけどな」
 そう言いながら頭を撫でると、気持ちよさそうに目を閉じながら、クロはみゅうと返事をしたが、もちろん、猫が人の言うことなど、きくはずがなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜下着編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショートつめ合わせ♡

隣の人妻としているいけないこと

ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。 そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。 しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。 彼女の夫がしかけたものと思われ…

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜おしっこ編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショートの詰め合わせ♡

校長先生の話が長い、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。 学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。 とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。 寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ? なぜ女子だけが前列に集められるのか? そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。 新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。 あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

処理中です...