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第十八話 イマジナリー・キャット
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猫砂を抱えて帰宅したところを、待ち構えていた大家に捕まった。マンションのエントランスに足を踏み入れた途端、物陰から飛び出してきたのだ。
「は!」
と勝ち誇った顔で彼は言った。
「こんにちは」
と私は無理に笑顔を浮かべて言うと、彼の横をすり抜けて、早足に階段を上り始めた。部屋は四階だ。
「その砂は何に使うんですか」と私の後に追いすがりながら大家が問う。
「これは、ええと、水分をよく吸い取るので――」
「猫を飼ってるんですよね」
大家は私の背中に向かって、言う。小太りの彼は、まだ二階を過ぎたところなのにもう息切れをしている。
「ここはペットは禁止だって言いましたよね」
「知ってます」
「苦情が来てるんですよ、お隣さんから。猫の鳴き声がうるさいって。夜中に走り回るから眠れないって、下の階からも」
四階まで一気に登りきると、私も少し呼吸が乱れたが、四〇四号室のドアに突進した。片手で猫砂の大袋を抱え、もう片方の手に鍵を握りしめて。
「何かの間違いですよ」
私は大家の方を見ないで叫び返した。息が苦しかった。年配の大家が遅れて階段を上りきったところが視界の端に映っていた。
「何も飼ってませんから」
ドアを開けて中に滑り込み、急いでドアを閉めた――つもりだったが、大家の靴が間に挟まっていた。
「中を確認させていただきます」
「困りますよ、急に。散らかってるので、後日改めて」
「そうはいきません。言ったでしょう。苦情が来てるんです。調べさせてもらいますよ」
とうとう強引に押し切られてしまった。
調べるといっても、ワンルームだ。狭い三和土からキッチンと浴室、トイレのドアの向うに見えている部屋、それだけ。大家に促されて浴室とトイレのドアを開け、備え付けのクロゼットの戸を開け、ベッドの下やベランダを確認しても何もいないので、冷蔵庫の扉まで開けさせられた。
「おかしいなあ。隠すところなんてないはずなのに」
大家は首を捻った。
「だから、言ったじゃないですか」
「でもそこの、部屋の隅っこに置いてあるのは猫のトイレですよね。そっちのキッチンに置いてあるお皿二つは、キャットフードと水だ。そして、新しい猫砂を買って帰って来た。一体、なんのために?」
「それは……」私は口ごもった。
「私は猫が大好きなんです。でも猫アレルギーで飼えない。ここがペット禁止なのも知っています。せめて、猫を飼ってる気分だけでも味わいたいと、色々『猫グッズ』を買い漁ってるんです。特注の首輪も買ったりしてますが、それが何か罪でしょうか」
「しかし、隣と階下の住民から苦情が」
「何かの間違いじゃないですか。猫好きが高じて、猫の動画を見るときに気付かず大きな音にしすぎたかもしれません。それは、すみませんでした。これから気を付けます。猫が走り回ってるっていうのは、ちょっと理由がわからないです。マンションの隙間からネズミかイタチでも入り込んだんじゃないですか」
我ながら苦しい言い訳だと思ったが、床に這いつくばって見ても猫の毛一本見つからなかったのだ。納得がいかない様子で、大家は帰って行った。
にゃー
鳴き声がして振り向くと、小型の冷蔵庫の上にちょこんと座っている黒猫の姿があった。頭を撫でてやると、猫は身軽に床に飛び降り、私の足に体をすり寄せてきた。
「やっぱり、お前の姿は他の人には見えないんだなあ」
私はしゃがんで黒猫の頭や体、尻尾を撫でてやりながら言った。
黒猫は目を細めて喉を鳴らす。
この黒猫は、実家で飼っていたクロである。
私が職場のトラブルにより精神的に追い詰められ、いよいよだめだ、と思った時期に現れた。もう三年も帰っていない実家の老猫にそっくりの、真っ黒な毛皮に金の目をした可愛い子であった。
最初は、開け放ってあったベランダの戸から侵入したのだろうと考え、じきに出ていくと思っていたが、居ついてしまった。ちょっと目を離した隙に姿を消してはまた現れ、それは家中の戸締りをしてあるときにも起こるのだが、私はただ、少しずつキャットフードや猫用トイレ、猫砂などを買いそろえていった。特注の首輪をネットで注文したのも本当の話で、それは黒猫の首に巻き付いている。
しかし、トイレの砂は、ひっかきまわしたような跡はつくものの決して汚れることはなく、餌と水は気が付くと量が減っているのだが、猫が飲んだり食べているところは見たことがなかった。
そして、久しぶりに実家の母親からスマホにメッセージが届いたと思ったら、老猫が虹の橋を渡ったという知らせだった。十八歳、猫としては大往生だ。
それまでは時々姿を現す程度だった黒猫が、ずっと私の部屋にいるようになったのはそれからだ。
「なんだ、お前、やっぱりクロだったのか」
私は猫に話しかけた。クロはにゃーと鳴いた。見た目は、そっくりだと初めから思っていた。しかし全身が真っ黒い猫というのは、どれも似て見えるものである。私のところに押しかけるようにして現れた黒猫の正体がなんであれ、くたびれ切った体で帰宅した時に出迎えてくれる猫のお陰で、私は前よりいくらか元気になった。
私は汚れていなくても猫砂を定期的に取り替え、餌や水も新鮮な者に保つようにしている。そうしないと、クロが怒るからだ。
「でも……足音や鳴き声が他所の人に聞こえちゃうのは困るねえ」と私は言ったが、実はそれほどでもなかった。私以外の者にこの子の姿が見えないのであれば、追い出される心配もないのだから。
「ちょっとだけ夜静かにしてくれると嬉しいんだけどな」
そう言いながら頭を撫でると、気持ちよさそうに目を閉じながら、クロはみゅうと返事をしたが、もちろん、猫が人の言うことなど、きくはずがなかった。
「は!」
と勝ち誇った顔で彼は言った。
「こんにちは」
と私は無理に笑顔を浮かべて言うと、彼の横をすり抜けて、早足に階段を上り始めた。部屋は四階だ。
「その砂は何に使うんですか」と私の後に追いすがりながら大家が問う。
「これは、ええと、水分をよく吸い取るので――」
「猫を飼ってるんですよね」
大家は私の背中に向かって、言う。小太りの彼は、まだ二階を過ぎたところなのにもう息切れをしている。
「ここはペットは禁止だって言いましたよね」
「知ってます」
「苦情が来てるんですよ、お隣さんから。猫の鳴き声がうるさいって。夜中に走り回るから眠れないって、下の階からも」
四階まで一気に登りきると、私も少し呼吸が乱れたが、四〇四号室のドアに突進した。片手で猫砂の大袋を抱え、もう片方の手に鍵を握りしめて。
「何かの間違いですよ」
私は大家の方を見ないで叫び返した。息が苦しかった。年配の大家が遅れて階段を上りきったところが視界の端に映っていた。
「何も飼ってませんから」
ドアを開けて中に滑り込み、急いでドアを閉めた――つもりだったが、大家の靴が間に挟まっていた。
「中を確認させていただきます」
「困りますよ、急に。散らかってるので、後日改めて」
「そうはいきません。言ったでしょう。苦情が来てるんです。調べさせてもらいますよ」
とうとう強引に押し切られてしまった。
調べるといっても、ワンルームだ。狭い三和土からキッチンと浴室、トイレのドアの向うに見えている部屋、それだけ。大家に促されて浴室とトイレのドアを開け、備え付けのクロゼットの戸を開け、ベッドの下やベランダを確認しても何もいないので、冷蔵庫の扉まで開けさせられた。
「おかしいなあ。隠すところなんてないはずなのに」
大家は首を捻った。
「だから、言ったじゃないですか」
「でもそこの、部屋の隅っこに置いてあるのは猫のトイレですよね。そっちのキッチンに置いてあるお皿二つは、キャットフードと水だ。そして、新しい猫砂を買って帰って来た。一体、なんのために?」
「それは……」私は口ごもった。
「私は猫が大好きなんです。でも猫アレルギーで飼えない。ここがペット禁止なのも知っています。せめて、猫を飼ってる気分だけでも味わいたいと、色々『猫グッズ』を買い漁ってるんです。特注の首輪も買ったりしてますが、それが何か罪でしょうか」
「しかし、隣と階下の住民から苦情が」
「何かの間違いじゃないですか。猫好きが高じて、猫の動画を見るときに気付かず大きな音にしすぎたかもしれません。それは、すみませんでした。これから気を付けます。猫が走り回ってるっていうのは、ちょっと理由がわからないです。マンションの隙間からネズミかイタチでも入り込んだんじゃないですか」
我ながら苦しい言い訳だと思ったが、床に這いつくばって見ても猫の毛一本見つからなかったのだ。納得がいかない様子で、大家は帰って行った。
にゃー
鳴き声がして振り向くと、小型の冷蔵庫の上にちょこんと座っている黒猫の姿があった。頭を撫でてやると、猫は身軽に床に飛び降り、私の足に体をすり寄せてきた。
「やっぱり、お前の姿は他の人には見えないんだなあ」
私はしゃがんで黒猫の頭や体、尻尾を撫でてやりながら言った。
黒猫は目を細めて喉を鳴らす。
この黒猫は、実家で飼っていたクロである。
私が職場のトラブルにより精神的に追い詰められ、いよいよだめだ、と思った時期に現れた。もう三年も帰っていない実家の老猫にそっくりの、真っ黒な毛皮に金の目をした可愛い子であった。
最初は、開け放ってあったベランダの戸から侵入したのだろうと考え、じきに出ていくと思っていたが、居ついてしまった。ちょっと目を離した隙に姿を消してはまた現れ、それは家中の戸締りをしてあるときにも起こるのだが、私はただ、少しずつキャットフードや猫用トイレ、猫砂などを買いそろえていった。特注の首輪をネットで注文したのも本当の話で、それは黒猫の首に巻き付いている。
しかし、トイレの砂は、ひっかきまわしたような跡はつくものの決して汚れることはなく、餌と水は気が付くと量が減っているのだが、猫が飲んだり食べているところは見たことがなかった。
そして、久しぶりに実家の母親からスマホにメッセージが届いたと思ったら、老猫が虹の橋を渡ったという知らせだった。十八歳、猫としては大往生だ。
それまでは時々姿を現す程度だった黒猫が、ずっと私の部屋にいるようになったのはそれからだ。
「なんだ、お前、やっぱりクロだったのか」
私は猫に話しかけた。クロはにゃーと鳴いた。見た目は、そっくりだと初めから思っていた。しかし全身が真っ黒い猫というのは、どれも似て見えるものである。私のところに押しかけるようにして現れた黒猫の正体がなんであれ、くたびれ切った体で帰宅した時に出迎えてくれる猫のお陰で、私は前よりいくらか元気になった。
私は汚れていなくても猫砂を定期的に取り替え、餌や水も新鮮な者に保つようにしている。そうしないと、クロが怒るからだ。
「でも……足音や鳴き声が他所の人に聞こえちゃうのは困るねえ」と私は言ったが、実はそれほどでもなかった。私以外の者にこの子の姿が見えないのであれば、追い出される心配もないのだから。
「ちょっとだけ夜静かにしてくれると嬉しいんだけどな」
そう言いながら頭を撫でると、気持ちよさそうに目を閉じながら、クロはみゅうと返事をしたが、もちろん、猫が人の言うことなど、きくはずがなかった。
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