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第四章 正直者の帰還

第十二話 昔々、ひどくお腹を空かせた女がいました

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 昔々、好色王と国民から陰口を叩かれる悪名高き王が居た。大っぴらにそんな批判がましいことを口にするのはもちろん許されない。なにしろ、ギロチンで首を刎ねるのが大好きで、自らの妃にも既に二度、あることないこと罪状を連ねて公開処刑を実施している絶対君主制の無慈悲な王だ。
 しかし、このような暴君であっても政治的手腕はなかなかのもので、王都は、先の都キンシャチから現在のタカツチに都が遷ってからの数百年を顧みても最高といってよいほど栄え、長らく戦も謀反もなく平和であった。それ故、家臣たちも王の女道楽にはそれほど苦言を呈しなかった。やるべきことをやっているのなら、たまにハメを外すぐらいまあいいや、と。
 しかし、首を刎ねられた先の王妃二人や、たまたま王の目に止まってしまい関係を強要された娘たちにとってはたまったものではなかった。王が都内を馬車で通過する際には、都の人々はみな年頃の娘や年頃ではない幼女ですら家の奥に隠し、安全が確認されるまで決して表に出さなかったという。

 長旅を経て王都に到着したばかりのその女は、そんな事情は知らなかった。豊かな金の髪を腰まで垂らし、女にしては背が高く、地味な旅装でも人目を引かずにはいられない美貌の持ち主だった。女は空腹であったが、路銀は底を尽いていた。最後に食べたのは広場で捕まえた鳩で、まだ口の中が羽でもさもさしているように感じられたし、かえって空腹感が増すぐらい、ちょっぴりしか食べるところはなかった(余すところなく食べても元が小さいのだ)。人や馬車の通りの激しい大通りの石畳の上に、いつも通り背筋をのばしてしゃんと立っていたが、注意力は散漫、思考の速度も遅くなっていた。

 てっとりばやく、その辺を歩いているヒトでも食ってやろうか

 その思いを押しとどめるのは倫理観ではなく、こんな昼日中に王都のど真ん中でそんなことをすれば大騒動になり、捕えられ魔女であることが露見すれば火あぶりにされてしまう可能性が否定できないからであった。
 しかし、耐え難い空腹で誰もかれもがうまそうに見える。痩せっぽちの子供や老人でさえ。
 石畳の上を疾走する馬車の音が近づいてくることには気付いていた。それに伴い、周囲の都人が騒々しくなったことも。
「王様の馬車だ!」
「女を隠せ」
「好色王が来たぞ、ぐずぐずするな」
 新顔の彼女にとっては、意味をなさない言葉だった。
 そこは大きな教会前の広場へと続く大通りだったが、通りを歩いていた女たちは近くの店に慌てて駆け込み、先程までテラス席の客の給仕をしていた食堂の女給までもが姿を消した。王は基本若好みだが、むら気を出して中高年に手を出すこともあるという噂なので、性別女性、さらには外見がなよなよした男性も大事を取って隠れるのが基本であった。
「あんた、なにしてんだ。王様がお通りだ。こっちへ来い。匿ってやる」
 切羽詰まった声が自分にかけられたものだと女は認識していたが、彼女は通りの端に寄って馬車を避ける行動をとっただけだった。
 ほどなくして、蹄が石畳を蹴る規則的なリズムと共に、立派な馬に引かれた豪奢な馬車が表れた。その前後左右を騎馬隊が護衛する仰々しい一行だ。
 筋骨たくましい若い騎馬兵は皆おいしそうに見えた(馬鹿々々しいほどきらびやかな兵隊服はともかく)。女の口の両端からたらたらと透明な液体が流れ出た。
 一旦女を通り過ぎて行った馬車が停止した。女が眺めていると、騎馬兵の間に物々しい雰囲気が漂っている。これみよがしに絢爛豪華に飾り立てられた金ぴかの馬車から、それに見合った大袈裟な衣装と装飾品で着飾った見苦しい男が下りてきた(女はお金は好きだが金持ち、特に自ら汗を流して稼いだものではない財をひけらかす者は嫌いという矛盾した感情を抱いていた)。
 まだ表通りに出ていた男たちの間から息をのむ音があがった。彼らはその場に跪いて頭《こうべ》を垂れたが、女は突っ立ったままだった。空腹で動く気になれなかったから。
「女」とひとにかしずかれるのが当たり前だと思っている傲慢な男が彼女に話しかけてきた。
「何を泣いている。美しい顔が台無しじゃないか」

 バカなのかしら、この男

 女は空腹が耐え難く、もうどうなっても構わないから目の前にいる男を喰らってやろうかと真剣に考え始めていた。しかし、この男が身分ある者であるのは確かで、そんなことをすれば騎馬兵相手に大立ち回りだ。そのような面倒は避けたかった。特に空腹で力が出ない今は。
「お腹が、とても空いていて」
 女はか細い声で言った。普段の声はハスキーだが、腹に力が入らなかった。
 男が僅かに手を動かすと、従者が白く折り畳まれた布を広げて渡した。男はそれで女の顔をそっと拭いた。
「それは可哀想に。王宮に来れば、二度と飢えなど知らずに済む。もう泣くのはおよし」
 男が差し出した手を、女はじっと見つめた。剣や槍の稽古ぐらいでしか酷使したことがない手だ。そして、女の体を撫でまわすための。
「今すぐ何か食べさせてくださる?」
 女は男の手に自分の華奢な手を預けた。
「いいとも。馬車の中に運ばせよう」
 王に目配せされた従者が近くの食堂へ走って行った。女は男に手をとられて馬車の中へと導かれた。

 女の食べっぷりに半ば呆れて眺めていた男だが、馬車に運び込まれる食べ物に猛然とかぶりつき、咀嚼し、飲み込んだ後にはパン屑ひとつ残さない不思議と洗練された所作に感心もしていた。いくら美しい女でも自慢の馬車の内装をソースやケチャップで汚されたら興醒めしたかもしれない。なにより、口に入れたものを味わっている様子にえも言われぬ色気があった。中背の自分よりも背が高いぐらいであったが、体つきはほっそりしていても胸や腰のラインは豊かなカーブを描いており、とにかく見栄えのいい女だった。
「余所者だな。どこから来た」
「……」
「今まで何をしていた」
「……」
「行くところはあるのか」
「……」
 とにかく口を動かすのが忙しく、彼の質問にも答えない(一国の王に対する対応としては甚だ不適切だが、食べながら喋らないところは好ましく思えた)。旅の途中とみえて薄汚れているが、湯に入れて磨きをかければ絶世の美女になるだろう。彼の好みの少女たちよりは少し薹《とう》が立っていたが、まだ三十にはなるまい。たまには大人の女もいいだろう。
 そんな下心を国王が抱いていることは、子供ではないのだから女も十二分に心得ていた。女は権力には興味がなかった。しかし、満たされない空腹を満たすためには、男の財力は魅力的に思えた。糊口をしのぐために、金持ちの妾になるのはこれが初めてではなかったし。

 でも、なんだか気に入らないわねえ

 一目見た時から、男に対しいけ好かないものを感じていた。彼女は森で生まれ育った。自由を束縛されるのは何よりも耐え難い――いや、永久に満たされない空腹に苛まれることの次ぐらいに耐え難いことであった。
 それでも馬車は、女を乗せたまま王宮へと運んで行った。
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