バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第一章

04 エルと怪人物

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 にわかに信じ難いかもしれないが、エルは図書館の幽霊にも塔の怪人にもさほど興味を持っていなかった。最近の彼は、使徒職をこなしながら医師見習いとしてベテランの医師に師事して研修を積んでいる最中で、猫と子供達に対する尽きることない愛情を除けば、他事に割く時間も余裕もあまりなかった。

 その晩は、高熱が何日も下がらない織物職人の子供に昼からずっと付き添っていた。夜も随分更けてから交代要員として別の医者が来たため、エルはくたびれた体を引きずるようにして自室へと戻る途中であった。
 使徒になってから与えられた小さな個室は、ただ睡眠をとるための場所と化していた。といってもこれは他の使徒達もだいたい似たようなもので、娯楽が極端に少ない塔内では一人で室内に閉じこもっていても何もすることがない。普段は空き時間があれば図書館に行って医書を読み漁っていエルだが、この日は(既に日付は変わっていよう)そのような気力もなかった。

 だが、途中で月明かりの差し込む窓辺を通りかかった彼は、気が変わって、バルコニーに出て少し風に当たることにした。
 見渡す限りの水が広がる風景を眺めるのは、これで何度目だろうか。何もない、ただ水と空があるだけの空間。日中、水は穏やかな青みがかった緑色をしているが、今はインクを流したような黒だ。

 二度目の大洪水に見舞われる前は、塔は砂漠地帯に立っていたという。そのため天候は晴天が多く、日中はかなり気温が上がるが、塔の中はひんやりしているので、屋外で長時間過ごさない限り問題はない。そのかわり夜はかなり冷え込む。フード付きの足首丈のローブがコミューンの人々の一年を通しての服装だが、これは恐らく砂漠に暮らしていた頃の祖先の衣装がほぼそのまま受け継がれており、日中外に出るとすればかなり暑苦しいが、強い日差しから皮膚を守るのに非常に効果的だ。
 一方、夜になって冷え込むようになると、ローブだけでは肌寒く感じる。つまり丁度いいと感じることが極めて少ない衣装なのだが、皆子供の頃から慣れ親しんでいるので、苦情を訴えるものはいない。資源の乏しい塔内では、これが全ての民に配給可能な衣類の限界だ。

 バルコニーの手すりにもたれて冷たい外気にあたりながら、月や穏やかな水面を眺めていたエルは、ふと眉をしかめた。

 なにか、変だ。

 だが目の前に広がるのは、これまで幾度となく目にした夜となんらかわりがない、はずだった。黒い水面と空の境目は溶けてなくなり、例え昼間であったとしても、遠くに浮かぶ舟の姿も、陸地も、何一つ見えない。ただただ、水、また水が広がるいつもの風景。星座は季節――雨が比較的多く降る雨季と、そうでない時期に分けられる――によって変化するが、今日は月が明るすぎて星があまり見えない。コミューンの人々は星にはあまり興味がない。少なくとも、一般の民は。みな日没と同時に床に就く習慣であるから、天体観測をするような習慣がないから。
 子供は稀に夜間に居住区を抜け出して探検に出かけたりするが、見つかれば大目玉をくうし、そのようなはコミューンでは珍しい。
 だから、夜間の塔は、眠っている。図書館内の活動はこの限りではないかもしれないが、司書もあの日光の届かない図書館内で、昼と夜は分けて生活しているという話だ。

 火照った頬が風で冷やされたお陰で、疲労のせいで霧がかかったようになっていた頭がすこししゃきっとしたエルは、この風景があまり好きになれない理由に思い当たった。
 このバルコニーは、水没刑が執行される際に、民が連なって舟出を見送る場所だからだ。罪人が泣きわめく声が遠ざかるのを待って、もう職人居住区に戻ってよいという許可が下りると、みなホッとした顔でいそいそとここから立ち去る。誰も塔から出発した舟の上で何が行われるか、見届けたいとは思わない。

 水の中に沈んで永久に浮かび上がることができないという想像は、生まれた時から水に囲まれて生きる民に、多大な恐怖をもたらす。漁師にでもならない限り、彼等は一生塔から離れる必要がないから、水面に直接触れることなく、死んでいく。運が悪ければくじ引きで水没刑の執行人に任命されることがあるが、幸いコミューン内で極刑に処せられる者は稀である。最も直近の例では、三年前の謀反に伴い、使徒が水に沈められたのが最後だ。

 エルは身震いをして、フードを被った。震えが走ったのは、体が冷えたためばかりではなかった。

 たった十八年しか生きていなくても、あのクーデターのせいでエルは生涯忘れられないであろう恐ろしい体験をし、偉大――と呼ぶには少々問題があるかもしれないが、優秀な指導者を失った。どうにか助けられないものかと皆で知恵を絞ったが、結局頑固者の使徒自身と長老の決断を覆すことができなかった。それは、努力すれば必ず報われるほど世の中は甘くないとエルに知らしめるに十分だった。
 使徒であるエルは、このバルコニーの高みからではなく、水没刑用の設置される浮桟橋から舟を見送った。舟に乗り込んだのは、長老ゲンヤと使徒ワタル、それから――

 エルはもう一度身震いをした。夜の黒い水は、その中に沈んでいる諸々が蠢いているように感じられ不気味である。今度こそ自室へ戻ろうと、くるりと振り返ると、バルコニーの入口に佇んでいる人の姿が目に止まった。
 心臓を鷲掴みにされたような衝撃と恐怖を味わったが、悲鳴はどうにか飲み下した。このような夜更けに大声など出そうものなら、大騒ぎになる。ただ自分と同じように、眠れぬ夜に風に当たりに来ただけなのだろうにとエルは胸をなでおろしながら思う。
 だがその人物は、エルが振り返るとほぼ同時に、素早く姿を消した。まるで、まずいところを見られたと大慌てで逃亡したみたいに。逃げられれば追いかけたくなるのが人情。

 エルは逃げ出した者の後を追いかけた。
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