バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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昔々の話をしよう

白いこども(2)

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 鍵穴から覗いた先にあったもの。

 

 未だ一言も発したことのないその子の喉から、くぐもった声が絞り出された。森の中に佇んでいたローブ姿のヒトが、はっと振り向いて大股に扉に駆け寄ってきた。
 その子は鍵穴から目を離し、かがめていた腰を延ばした。
 慌てて開いた扉の向こうに立っていたのは、男ではなく、もじゃもじゃの髪をした十五、六の少年だった。それでも小柄なその子の倍ほどの身長がある。その子を見下ろした少年は、驚いた顔で言った。

「お前は、一体なんだ? こんなところで何をしている?」

 その子は少年の問いかけには答えず、ドアの隙間から部屋の中へ滑り込んだ。もっと近くで見なければならないと思ったから。
「おい、こら、子供!」
 部屋の中に足を踏み入れたその子は、再び低い呻き声を発した。何もない部屋だったが、壁一面に森が広がっていた。塔の中で暮らすその子は本物の森など見たことがなかったが、世話役が語って聞かせてくれたお伽噺に度々登場するので、森がどんなものかは知っていた。

 いや、ほんとうに知っていたと言えるのだろうか。

 彼は、森がよく見えるようにと目深に被っていたフードを脱いだ。

 てっきり一人きりだと思っていたのに突然子供に乱入された少年は、驚き、戸惑っていた。フードを脱いだ子供の顔は、頭髪も皮膚も薄い眉も長い睫毛も唇も全てまっ白で、瞳は蝋燭の光を反射し赤々と輝いていた。
「あ、あ、あ……」
 子供は喉の奥から絞り出すように声を発した。
「なんだ、お前、喋れないのか」
 もしかして耳も聞こえないのかもしれないと彼は危惧したが、子供は彼の声に振り向き、眉間に皺を寄せて睨んだ。そしてふいと横を向くと、興奮気味に両手を広げて、壁や天井に向けてひらひらさせた。まるで、空間を隔ててその絵を撫でているかのように。体が小刻みに震えており、また喉の奥から苦しそうに声を出した。

「ふん、ちょっとしたもんだろう? もう少しで仕上がるから、ちょっと待っててくれるか。そうしたらお前の居るべき場所に連れて帰ってやる」

 少年――といっても声変わりはもう済んでいる――は子供の頭に手を置いて言った。まっ白い子は、少年の方を振り向きもせずその手を振り払うと、うんうんと頷いて、相変わらず壁を見つめている。
 少年は床に置いてあったインク壺を取り上げると、筆の先につけたインクの量を調整しながら、壁に向かった。
 
 それは、まぎれもなく森だった。

 緑一色のインクで描かれていたが、木々の葉の一枚一枚、幹を覆う皮の一枚一枚、鳥、虫、狼、熊、小川や更に風の運ぶ匂いさえもが、精密だが写実的とは言いかねる、どこか滑稽さを感じさせる筆遣いで生き生きと息づいているのが、蝋燭一本の侘しい光の中に浮かび上がっていた。
 幼いその子には、それら一つ一つの生き物がなんなのかはわからなかったが、それでも六角形の部屋の壁と天井まで覆い尽くすその緑のインクが織りなす世界に圧倒され魅了されていた。床の一部にまで絵は侵食していたから、その子は周囲を見回し、何も描かれていないスポットを慎重に選んで腰を下ろすと、生まれて初めて込み上げてきた喜びの感情を抑制する術もなく、少年の仕事を見守っていた。

「あー……、お前、大丈夫か?」

 少年が不安そうに尋ねたのは、満面の笑みを浮かべているのだが、使い慣れていないその子の顔面の筋肉がうまく作用せず、引きつったような歪んだ顔になってしまっていたからだ。
 その子は無言で頷いた。興奮のため大きく見開かれた瞳がきらきらと輝いている。
 少年は肩をすくめると、やりかけの仕事に戻った。朝が来る前に終えてしまわなければならなかった。迷いのない筆遣いで彼が緑のインクを壁に塗り付けると、そこから花が、小川の中に遊ぶ魚が、まるで魔法のように現れる。緑一色のはずが、線の太さ、濃淡によって、その子が死ぬまで目にすることのないであろう色まで見えるようだった。
 少年は右手と左手、時々筆を持ち替えて、器用に描いた。どちらの手でも、直線も曲線も、初めからそこに、そのように引かれる運命だったとでもいうように刻まれていく。少年が持参したのは、たった一本の筆だというのに。その筆は森を創造していた。
 その子は瞬きも呼吸する間も惜しんで少年の筆の先から生まれてくるものを見つめていた。

「さて、いこうか」
 まったく動こうとしない子供を半ば抱き抱えるようにして、少年は部屋を出て、扉を閉めた。
「ここで見たことは、秘密だぞ」
「うぅ」子供はかくかくと首を縦に振って頷いた。
「そうはいっても、もう潮時だろうけどなあ。お前に見つかったぐらいだ。あの得体の知れぬ図書館長に知れないわけがない」
 少年は寂しそうな声で言った。
 まっ白い子供は、燭台を持っていない方の少年のほっそりした指先をそっと握った。
「たった一人でも、あの絵を気に入ってくれる者がいてよかった」
 少年は子供の手をそっと握り返し、笑顔を見せた。
「俺は、写字工見習いだ。まあ、首にならなければの話だが」
「ぼ、ぼく、は、世話係、だ」
 子供の言葉に、写字工見習いは微笑んだ。まだ幾分発音が不明瞭だったが、十分に聞き取ることができた。さきほど部屋の中で、その子がしきりに「きれい」と呟いていたのを思い出して自然と笑みが浮かんだ。
「ほう、おちびさんは、一体何の世話をしているんだい?」
 おちびさんと呼ばれて眉間に深い皺を寄せたその子は、しばらく考えた末に、言った。
「すべて」

 そのまっ白い子はそれから、凄まじい速さで言葉を習得していった。特に不自由なく言葉を発することができるようにもなった。と言っても、口数はあまり多くなかったが。読み書きもいつの間にやら覚えており、世話役の司書を驚かせた。そして、以前にも増して熱心に、異形の子供達の世話を手伝うようになった。

「ブロンシュは、司書に向いておりましょう」と世話役が言うのを聞いて、図書館長は答えた。
「そうだねえ。しかし、あの苦虫を噛み潰したような顔はなんとかならないもんかな。まだ八歳だろう」
「あなたに対してあの子がああいう顔をする時は、原因は八割方あなたにあります」
「酷いこと言うなあ」

 自らを「世話係」と呼ぶようになったその子は、しばらく経ってからあの森の広がる部屋へ戻ってみたが、その扉には鍵がかけられ、鍵穴の向こうは、ただ真っ暗な闇が広がっているばかり。
 彼はあの少年のことを思った。写字工見習いだと名乗った、あの少年のことを。
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