バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第五章

05 ゲンヤ VS ユスタフ

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 ゲンヤが駆けつけた時、子供達の部屋はもぬけの空だった。彼は肩を上下させながら、安堵の息を吐き出した。
 猫の世話係は用心深い男だった。常日頃から子供達に避難訓練をさせることを怠らなかった。とにかく、人に姿を見られないように身を隠すこと。万一に備えて動けない者を運ぶ方法を用意しておくこと。
 時に厳しすぎるのではないかとゲンヤが危惧するほど、彼は徹底していた。子供達の中には意思の疎通が難しい者もいる。何故そんなことをさせられるのか理解できず癇癪を起こしたり泣き出したりする者もいたが、そこへエルが加勢に現れた。新米使徒の中では最も頼りにならない存在であったが、慈愛の精神にかけてはワタルをも凌駕する彼を評して、先の長老が「必ず民の役に立つ」と断言したのも、今は頷けた。選ばれし子の一員として共に学んでいた時には、何度も首をかしげたものだが。
 ふいに騒々しい物音と共に、聞き覚えのある声がした。

「痛い痛い痛い、もっと優しく扱ってくれよ。右足が吹き飛んでいるんだぞ」

 ゆっくりと振り向いたゲンヤは既に呼吸の乱れを抑え、普段の彼に戻っていた。

「ほう、これはこれは」
 入口から覗き込んだケラの息子は、がらんとした部屋に佇むゲンヤを見つけると、不敵な笑みを浮かべた。その後ろから、おどおどした様子のケラと、両脇から抱えられ引きずられた贋作師が現れた。
「丁度いい。上に行く鍵が必要なんだが、この男は知らないという」
 とケラの息子は贋作師の負傷した右足を蹴った。贋作師が悲鳴を上げたが、ゲンヤは眉一つ動かさずケラの息子を見据えている。
「彼は知らない」
 ケラの手下達に背後に回られても、ゲンヤは動じた様子を一切見せない。
「知らないはずはない。こいつはパウの右腕……いや、左腕か? いずれにせよ、もう片方の腕は火薬で吹き飛んで死んだ。残念だったな」
「猫の世話係が?」ゲンヤは片方の眉を少し上げた。
「それは確かか?」
「はらわたが吹き飛んでいた。この髭をかばったせいでな。そのあと鼠の大群に襲われていた。今頃は骨までしゃぶられていることだろう」
 ケラの息子はゲラゲラ笑ったが、父親のケラは体をかがめて嘔吐した。
「嘆かわしい。あなたがかつてどんな使徒だったか、先の長老から聞いている。我が子を溺愛するあまり目が霞んだか。息子を愛するのであれば、尚更厳しく対処するべきだった。尻拭いや隠蔽に走るのではなく」

 ゲンヤはケラを見下ろして言った。ケラははっとしてゲンヤを見返した。

「親父! 引っ込んでろよ、もう」
 ケラの息子は苛々と手下に命じて父親を立ち上がらせた。
「老いぼれめ、もう用済みだ」
「親は大事にするものだが……ただのバカ息子だと思っていたが、どうやら読み違えていたようだ」
「あんな老いぼれ、俺を使徒にすることさえできなかった役立たずだ。馬鹿にしやがって。お前みたいな小僧に威張り散らされるなんざ、御免だね」
「では、謀反の首謀者であると認めるわけだな、ケラの息子よ」
「俺の名前はユスタフだ。よく覚えておけ、小僧。今後お前が跪いて許しを請う相手の名前をな」
「必要ない。間もなく海の藻屑と消えるのだから。お前は、堕落した使徒ケラの愚かな息子、それだけだ」

 ユスタフは怒りで朱に染まった顔で拳を握りしめると、贋作師の顔面に叩きつけた。苦痛の叫びをあげるも両腕をそれぞれ捉えられている為抵抗できない彼の右手をユスタフはねじり上げた。

「上に行く鍵をよこせ小僧。でないと、この写字工は二度と仕事ができなくなるぞ」
「鍵は持っていない。どこにあるのかも知らぬ」

 ごきりという不吉な音がして贋作師が悲鳴をあげたが、ゲンヤはやはり表情を変えず立っていた。ユスタフは腹立ちに一層顔を歪めると、ゲンヤの背後に立っている手下達に「そいつを痛めつけて、鍵を探せ」と命じた。
 ゲンヤのローブの裾が翻り、光るものが半円を描いた。それとほぼ同時に、ゲンヤの背後から手を伸ばしかけた三人の男たちの喉首から鮮血が吹き出した。ゲンヤは体を低くして素早く避けたが、ユスタフはまともにそれを浴び、思わず顔を覆った。

「うわっ。なんだ。おい、こいつを始末しろ」

 ユスタフの叫びに応じて、手に警棒を持った五、六人がゲンヤを取り囲んだが、明らかに腰が引けていた。ゲンヤが手にしているのは接近戦に適した刀身が短めの剣鉈であったが、ゲンヤの長い腕を恐れて誰も近づこうとしない。

「今すぐ降伏するなら、恩赦をやろう。何ヶ月かは重労働に励んで愚行を悔いてもらうが、水没刑は免除すると約束しよう」
 とゲンヤは刃についた血を振り払いながら言う。
「本当ですか?」と問い返した男に、ユスタフが体形に似合わぬ速さで一撃を食らわせ、昏倒させた。力なく横たわる体に更に何度も棍棒を打ち下ろす姿にゲンヤは眉根を寄せた。
「何も、殺すことはあるまい」
「うるさい、お前が言えた義理か」
 肩で息をつきながら、血まみれのユスタフはゲンヤを睨みつけた。
 ゲンヤは相変わらず、感情を表さずに言う。

「多勢に無勢であるから、こちらは先手を打つしかない。気の毒だが。お前は一体何がしたい。脅しで民を操るのには限界があろう。お前の手下には、忠誠心がない。あるのはただ――お前の脅しから家族を守りたい気持ちだけだ。そしてお前は、それを与えない。約束したにもかかわらず」

 ざわめきが起こった。ユスタフの手下達に明らかな動揺が見えた。
 その時、部屋の隅からけたたましい悲鳴があがった。床の一部が開き、フードを頭から被った幼児ほどの背丈の者が飛び出してきた。

「シュウレン」

 ゲンヤの顔に影が差した。
 相変わらず両手に小さな鉢を抱えたシュウレンは、ゲンヤのローブの裾に縋った。
「ちゃんと隠れていないとだめじゃないか」
 と眉間に僅かに皺を寄せて言うゲンヤに答えようとするが、言葉にならないようだった。
「ネ、ネ、ネ」
「なんだその――化物は?」
 息を呑んで思わず後ずさったユスタフに、ゲンヤは怒りの目を向けた。
「この子はただの――子供だ」
「こんなところで、そんな化物を飼っていやがったのか。お前ら、そのガキ諸共、やれ」
 とユスタフが手下をけしかけたが、彼らは
「子供を殺すのか?」
「そんなことができるわけがない」
 と怯んだ。
「ええい、お前らの親や息子がどうなってもいいのか? よく見ろ。そいつは、化物だ」
「姿形がどうであれ、子供に手はかけない。もう、うんざりだ」
 その時、シュウレンが這い出してきた床穴から、悲鳴を上げながらエルが飛び出してきた。
「お願いだ、やめてくれ、ネコチャン!」
 エルのあとから、のっそりと現れたのは、全身の毛をべっとり血に染めた、よちよち歩きを始めた幼児程もある大きさの、獣だった。
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