バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第五章

01 闖入者

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 猫の世話係は、常に何かに腹を立てているせいで眉間に刻まれたままになっている皺を一層深くして周囲を見回した。
 いつもと変わりない、図書館の一室。だが何かがおかしい。照明を最小限に抑えたために半分闇に沈んだ書架やテーブルに一見ランダムに、そして実際無秩序に並べられたり積まれたりした書物は、普段通りいつか読まれる日を辛抱強くじっと待っている。
 だが
 虫の知らせなるものを彼は信じない。虫は嫌いだからだ。
 書物にダメージを与えるものは、いかなるものも人も許さない。それは司書である以上、あたりまえのことである。彼が猫の世話係になったのも、図書館に巣食う害虫、あの汚らしく忌々しい鼠を撲滅させるためだった。第二の洪水を難なく生き抜いた本を容赦なく食い荒らす虫については、贋作師が調合する防虫効果のある香によって制御されている。

 粘土、石、動物の皮、植物、布、様々な材質によって書物は作られている。虫よけの香を炊く、虫干しをする、書物の材質に適した保存のために必要とされる策を立て計画的に実行するのも彼の役目だ。季節、天候その他も考慮したうえで、広大な図書館内のどの区画において何を実施するか決定し、司書達に指示を出す。それ自体は単調で、どうということにない仕事であるが、猫の世話係という役名にそぐわないありとあらゆる世話事を押し付けられている気がして、それが彼を苛立たせている。このような雑事は本来図書館長パウの仕事であろうと思うが、パウは使徒の仕事を言いわけに、己の仕事をどんどん猫の世話係におしつけてきた。

 だか、それももうじき終わる。

 パウの後継者としてワタルが選ばれたことに対しても彼は腹を立てていたが、それは新顔に一から教える煩わしい役目が自分に回って来ることを予測し恐れたからで、人選には特に異論はない。図書館の意義を否定せず、その存続のために尽力を惜しまない館長ならば、誰がなってもよいと彼は思っている。
 だが、彼が今やっている仕事のいくつかは、若い次期館長に押し付けてやろうと彼は目論んでいる。例えば、新米司書に読み書きを教えるだとか、小麦生産所の管理だとか。

「お前は、人間が好きじゃないからねえ」

 ふと、長老の言葉が蘇ってきた。現長老のゲンヤではなく、先の長老だ。

「民というのは、無知で弱いものだ。異形の者達にかける愛情を、他の民にも持てないものだろうか」

 長老はそう言ったが、猫の世話係は首を横に振った。

「コミューンの一員としての務めは果たします。しかし、できもしないことは、お引き受けできません」

 長老の皺に埋もれた顔に浮かんだ表情を彼は今でも覚えている。当たり前だ。彼は決して忘れない。ゲンヤやワタルと同じ能力が彼にはあった。だがしかし

「おい」
 猫の世話係が苛立ちを隠そうともせずに振り向くと、むさ苦しい髭面が苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。
「なんだニセモノ」
 眉間の皺を一層深くした猫の世話係につられたように一層顔をしかめた贋作師は、鼻をふんふんさせて、言う。
「いやな空気だ。誰かがかき回していやがる。これは――煙か?」

 バタバタと騒々しい足音がして、若い司書が顔を覗かせた。猫の世話係と贋作師の姿を認めると「ああ……」と絶望的な声を漏らした。贋作師は彼が写字工の一人であることを思い出しながら
「なんだ。どうした」
 と声をかけた。写字生は青ざめた顔で「お許しください」と殆ど聴き取れないかすれ声で言うと、二人に向けて一冊の本を放り投げると、素早く姿を消した。放り投げられた本からは、バチバチと火花が散っていた。

「危ない!」

 猫の世話係が叫んで贋作師を突き飛ばしたのと、床に落ちた本が大きな音を立てて破裂したのとほぼ同時だった。爆発物が落下した床の石はえぐられ、破片が四方に飛び散っていた。咄嗟に本を抱え込んだ猫の世話係の体も。

「なんだ、大したことないな」

 書架に後頭部を強打し耳から血を流した贋作師は、焦点の定まらない目で書物の残骸を乗り越えて部屋に入ってきた太った男の姿を捕えた。
 太った男だと?
 まさかと思って固く目を閉じて、開いてみたが、そこに立っているのはやはり、背の低い、太った男だった。その背後にはケラを含め数名の使徒の姿が見て取れたが、彼らはおどおどした様子でまだ若い太った男の肩越しに恐々と覗き込んでいる。
「それは、爆薬の上にこの男が覆い被さったからで」
 と泣きそうな顔で弁明しているのは、先程の写字工――確か小麦の生産所の司書だ。
「ふん。まあいい。本にこんな使い方があるとは、パウの輩が必死に図書館の開放を拒否するはずだ」
 太った男は血の海の中に突っ伏している男の肩を蹴って仰向けにした。元々白い顔が青ざめて漆喰のように生気を欠く猫の世話係の口から漏れ出た血の泡が弾けて消えた。
「やめろ!」
 贋作師は立ち上がろうともがいたが、倒れてしまった。思うように動かない足から血が流れているのが見えた。
「そ、そいつは、ここの蔵書に関して特に詳しい写本の専門家だ。必ず役に立ちますよ」
 若い司書が震える指を彼に向けるのをひとまず無視して、贋作師は床を這いつくばった無様な姿で猫の世話係ににじり寄った。
 見開かれた目はガラス玉のようで既に生命の兆候を失っているように見えた。爆弾の衝撃で腹の辺りは吹き飛ばされ、体が千切れかかっていた。
「こいつは、なんだったんだ?」
 太った男――ケラの息子は横たわる骸の肩のあたりを踏みつけながら言う。
「それは、猫の世話係です」
 と若い司書は言う。泣き出していた。
「なんだあ? 猫お? 図書館では猫なんか飼っているのか? 民が食料不足にあえいでいるというのに、許せんな。猫を見つけたら捕まえて外に放り出せ。いや、溺れ死なせるよりは丸焼きにして食ってやるかな。動物の肉なんて久しく食ってないからな。毎日魚じゃ、飽き飽きだぜ」

 ローブを弱々しい力で引っ張られてケラの息子が下を見ると、猫の世話係の血に塗れた左手がローブの端を掴んでいた。言葉を発しようと懸命にもがいているが、口の中に湧き出る血のために声にならない様を見て鼻で笑うと、血に染まった白い顔面を蹴りつけた。
 ごぼ、と大量の血を吐いて、猫の世話係は動かなくなった。

「そいつを連れていけ」とケラの息子は贋作師を顎で指した。
 警備兵に両脇の下に腕を回され、引きずり立たされた苦痛に贋作師は悲鳴をあげた。
「この強情な小僧は使い物にならん。ここに捨てていくか」

 ケラの息子の合図で乱暴に床に投げ出されたのは、ボロ雑巾のように変わり果てた姿の――
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