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第三章
08 猫……?
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「気を失うほど怖かったのか」とワタルが訊くと
「恐怖もすごかったけど、息をするのを忘れていた」とエル。
「意識が戻ってから、這う這うの体で上に戻ったんだけど、それ以降僕は、こっそり猫の世話係の後をつけるようになった」
まったく、呆れ果てた執念であった。リーヤが心配して猫の世話係から引き離そうとするはずだ。
「命知らずだなあ。そうまでして猫に会いたいのか? というか、その『猫』だが、明らかに僕たちが猫と認識している小さく可愛らしい生き物とは異なっていないか?」
「でも、猫の世話係は猫って呼んでるし。いや、ネコチャンにも勿論、もっとちゃんとした会い方をしたかったんだけど、あの世話係には、どうも色々と秘密があるのではないかと思うんだ」
「だってここは、秘密だらけだよ」とワタルが呆れて言うと
「それにしても、だよ。猫の世話係が居るのに、猫の姿は一向に見えないなんて、最高のミステリーじゃないか」とエルは熱っぽく言い返した。
「気を失う前に見たんじゃないのかい。猫を」
「それが、よく覚えていないんだ。酸欠で意識が朦朧としていたし。覚えているのは、何かとても大きな黒い影だ。それが、僕の背後で今まで聞いたこともないような不気味な音を立てていた。猫の世話係から動くなと言われてなくても、きっと恐ろしくて動けなかっただろう。それは、人間にはとてもできないような驚異の跳躍力を発揮して、鼠が潜んでいると思われる吹き抜けの向こう側に跳び移った。そいつは、黒くて大きいのに、とても身軽で素早いんだ」
エルは興奮気味に早口でまくし立てた後、目を見開いた。
「そしてそいつは、緑色に光っていた」
「それは、絶対に猫ではない」ワタルは呆れて言った。
「怪物《モンスター》だ」
「失礼なことを言うな! あれがネコチャンだ。間違いない。サイズは、ちょっと想定より大きい。膝の上に載せるのは無理だ」
「猫の体が緑色に光るなんて、誰も教えてくれなかった」
「だって、この塔内に暮らしている一般の民は、誰も猫なんて見たことないだろう。長く人伝に語られるうちに、実態からいささか逸れてしまったのさ」
「そうかなあ」
ワタルにはいささかどころではない逸脱のように思えたが、エルは興奮に目を輝かせている。
「で、さっきも言ったように、僕はあの一件以降、猫の世話係の後を尾行するようになった」
見つかったら図書館への出入りを禁止されかねないどころか本当に怪物みたいな猫の餌にされるかもしれないというのに、と苦い顔をするワタルに、エルは続けた。
「ネコチャンに会いたい一心だった。もう一度会えたら、頭からバリバリ齧られて死んでもいい、僕はそう思っている。あの恐ろしい水没層に再び足を向けることも厭わない覚悟だった。だけど」
猫の世話係は、予想に反して二度と再びあの恐ろしい黒い水をたたえた水没層に足を運ぶことはなかった。それどころか、彼は新米使徒達には未だ足を踏み入れる機会のない上の層で見かけることが多かった。彼は図書館の迷宮を迷いなく上へ上へと上っていく。(「よく気付かれなかったな」「うっかりぶつかったふりをして、ミルクを頭からぶっかけた」「はあ?」「洗っても微かにローブに臭いが残る。その匂いを辿れば、少し距離を置いてもついていける」「……」)
吹き抜けでは階段から下を覗けば後を追っているのを気づかれてしまうと、用心のあまり少し距離を取りすぎたようだった。薄暗い階段を静かに駆け上がったエルの鼻腔には、ほんの微かなミルクの臭いしかかぎ取れず、このまま見失ってしまうかもしれないと不安を覚えた。
階段を上がり切ったところで、回廊から小さいホールを抜けて駆け込んだ部屋は、空っぽだった。図書館内の他の部屋と同じように書架が各壁に設置されているが、全て空だった。心なしか、照明を抑えた薄闇の中にある図書館の各部屋よりも、闇の色が薄まっている気がした。
それでは、ここが図書館の最上階なのだろうか。
頭をかきながら隣の部屋、その隣の部屋へと足を踏み入れ最初の部屋と同様に空であることを確認しながらエルはそう思った。そして
しまった
と真っ青になった。ミルクの匂いが完全に途切れてしまっていた。エルにはワタルほどの記憶力がない。迷路のような図書館内においては、単純に下に降りる経路を探すだけでも苦労しそうだった。溜息をついて、上ってきた吹き抜けの階段まで戻ろうとしたが、その位置すら見失っていた。
完全に迷子になった。
がらんとした部屋の中央であたりを見回してみた。この部屋は出入り口が二つ。
しばし立ち尽くすエルの耳が、かすかな物音を捕えた。誰かが、何かが身じろぎをしたような、ほんのかすかな。
気のせいだったかもしれない。いや、気のせいだったらいいな、と願うエルの耳に、また物音が。
左手にぽっかり口を開けた、アーチ状の出入口の向こうは闇に沈んでいたが、音はそこから聞こえたようであった。誰かが、あるいは何かが居る、とエルは感じた。
「誰かいるのかい」
と呼びかけてみたが、声がかすれた。喉がからからだった。
ダレ、とか細い声が闇の奥から聞こえた。
――ダレ。ネコチャンノ、オトモダチカ。
空気が漏れているような音が混じるため非常に聴き辛かったが、相手はそのように言っているように思えた。
「僕は、ネコチャンの友達だよ!」と勢いよく言ってから、エルは、
「いや、まだ友達とは言えないかもしれないけど、僕は友達になりたいと思っている」と訂正した。
――トモダチ、ジャナイト、タベラレチャウ
「それは、困ったなあ。どうすれば友達になれるだろうか。君はネコチャンとは仲良しなのかい? だったら、僕をネコチャンに紹介してくれないかなあ」
相手は、暗闇の中で黙り込んだ。じっと考えているようであった。
――ダッタラ、ボクト、トモダチニナッテクレル?
闇の中から、躊躇いがちにそう言った。
「勿論だよ! 僕はエルっていうんだ。最近使徒になったばかりだよ。君の名前を教えてくれるかい?」
――エルハ、パウト、トモダチ?
「パウさんのことは知ってる。でも、残念ながら友達ではないなあ。あの人は、僕よりうんと年上で、頭がいい。僕みたいな落ちこぼれの友達にはなってくれないだろうなあ。君はパウさんとも友達なのかい?」
――パウ、オトウサン
彼に子供がいたとは知らなかった、とエルは驚いたが、考えてみれば、彼はパウのことを殆ど何も知らなかった。
ずるりと何かを引きずる音がした。
――オトウサンハ、シラナイヒトト、ハナシテハダメ、ト
声が少し近づいたことを感じながら、エルは言った。
「でもそれでは、君は誰とも友達になれないんじゃないか? 最初は誰だって知らない者同士だよ」
ずるり、と更に音が近づいてきた――
「恐怖もすごかったけど、息をするのを忘れていた」とエル。
「意識が戻ってから、這う這うの体で上に戻ったんだけど、それ以降僕は、こっそり猫の世話係の後をつけるようになった」
まったく、呆れ果てた執念であった。リーヤが心配して猫の世話係から引き離そうとするはずだ。
「命知らずだなあ。そうまでして猫に会いたいのか? というか、その『猫』だが、明らかに僕たちが猫と認識している小さく可愛らしい生き物とは異なっていないか?」
「でも、猫の世話係は猫って呼んでるし。いや、ネコチャンにも勿論、もっとちゃんとした会い方をしたかったんだけど、あの世話係には、どうも色々と秘密があるのではないかと思うんだ」
「だってここは、秘密だらけだよ」とワタルが呆れて言うと
「それにしても、だよ。猫の世話係が居るのに、猫の姿は一向に見えないなんて、最高のミステリーじゃないか」とエルは熱っぽく言い返した。
「気を失う前に見たんじゃないのかい。猫を」
「それが、よく覚えていないんだ。酸欠で意識が朦朧としていたし。覚えているのは、何かとても大きな黒い影だ。それが、僕の背後で今まで聞いたこともないような不気味な音を立てていた。猫の世話係から動くなと言われてなくても、きっと恐ろしくて動けなかっただろう。それは、人間にはとてもできないような驚異の跳躍力を発揮して、鼠が潜んでいると思われる吹き抜けの向こう側に跳び移った。そいつは、黒くて大きいのに、とても身軽で素早いんだ」
エルは興奮気味に早口でまくし立てた後、目を見開いた。
「そしてそいつは、緑色に光っていた」
「それは、絶対に猫ではない」ワタルは呆れて言った。
「怪物《モンスター》だ」
「失礼なことを言うな! あれがネコチャンだ。間違いない。サイズは、ちょっと想定より大きい。膝の上に載せるのは無理だ」
「猫の体が緑色に光るなんて、誰も教えてくれなかった」
「だって、この塔内に暮らしている一般の民は、誰も猫なんて見たことないだろう。長く人伝に語られるうちに、実態からいささか逸れてしまったのさ」
「そうかなあ」
ワタルにはいささかどころではない逸脱のように思えたが、エルは興奮に目を輝かせている。
「で、さっきも言ったように、僕はあの一件以降、猫の世話係の後を尾行するようになった」
見つかったら図書館への出入りを禁止されかねないどころか本当に怪物みたいな猫の餌にされるかもしれないというのに、と苦い顔をするワタルに、エルは続けた。
「ネコチャンに会いたい一心だった。もう一度会えたら、頭からバリバリ齧られて死んでもいい、僕はそう思っている。あの恐ろしい水没層に再び足を向けることも厭わない覚悟だった。だけど」
猫の世話係は、予想に反して二度と再びあの恐ろしい黒い水をたたえた水没層に足を運ぶことはなかった。それどころか、彼は新米使徒達には未だ足を踏み入れる機会のない上の層で見かけることが多かった。彼は図書館の迷宮を迷いなく上へ上へと上っていく。(「よく気付かれなかったな」「うっかりぶつかったふりをして、ミルクを頭からぶっかけた」「はあ?」「洗っても微かにローブに臭いが残る。その匂いを辿れば、少し距離を置いてもついていける」「……」)
吹き抜けでは階段から下を覗けば後を追っているのを気づかれてしまうと、用心のあまり少し距離を取りすぎたようだった。薄暗い階段を静かに駆け上がったエルの鼻腔には、ほんの微かなミルクの臭いしかかぎ取れず、このまま見失ってしまうかもしれないと不安を覚えた。
階段を上がり切ったところで、回廊から小さいホールを抜けて駆け込んだ部屋は、空っぽだった。図書館内の他の部屋と同じように書架が各壁に設置されているが、全て空だった。心なしか、照明を抑えた薄闇の中にある図書館の各部屋よりも、闇の色が薄まっている気がした。
それでは、ここが図書館の最上階なのだろうか。
頭をかきながら隣の部屋、その隣の部屋へと足を踏み入れ最初の部屋と同様に空であることを確認しながらエルはそう思った。そして
しまった
と真っ青になった。ミルクの匂いが完全に途切れてしまっていた。エルにはワタルほどの記憶力がない。迷路のような図書館内においては、単純に下に降りる経路を探すだけでも苦労しそうだった。溜息をついて、上ってきた吹き抜けの階段まで戻ろうとしたが、その位置すら見失っていた。
完全に迷子になった。
がらんとした部屋の中央であたりを見回してみた。この部屋は出入り口が二つ。
しばし立ち尽くすエルの耳が、かすかな物音を捕えた。誰かが、何かが身じろぎをしたような、ほんのかすかな。
気のせいだったかもしれない。いや、気のせいだったらいいな、と願うエルの耳に、また物音が。
左手にぽっかり口を開けた、アーチ状の出入口の向こうは闇に沈んでいたが、音はそこから聞こえたようであった。誰かが、あるいは何かが居る、とエルは感じた。
「誰かいるのかい」
と呼びかけてみたが、声がかすれた。喉がからからだった。
ダレ、とか細い声が闇の奥から聞こえた。
――ダレ。ネコチャンノ、オトモダチカ。
空気が漏れているような音が混じるため非常に聴き辛かったが、相手はそのように言っているように思えた。
「僕は、ネコチャンの友達だよ!」と勢いよく言ってから、エルは、
「いや、まだ友達とは言えないかもしれないけど、僕は友達になりたいと思っている」と訂正した。
――トモダチ、ジャナイト、タベラレチャウ
「それは、困ったなあ。どうすれば友達になれるだろうか。君はネコチャンとは仲良しなのかい? だったら、僕をネコチャンに紹介してくれないかなあ」
相手は、暗闇の中で黙り込んだ。じっと考えているようであった。
――ダッタラ、ボクト、トモダチニナッテクレル?
闇の中から、躊躇いがちにそう言った。
「勿論だよ! 僕はエルっていうんだ。最近使徒になったばかりだよ。君の名前を教えてくれるかい?」
――エルハ、パウト、トモダチ?
「パウさんのことは知ってる。でも、残念ながら友達ではないなあ。あの人は、僕よりうんと年上で、頭がいい。僕みたいな落ちこぼれの友達にはなってくれないだろうなあ。君はパウさんとも友達なのかい?」
――パウ、オトウサン
彼に子供がいたとは知らなかった、とエルは驚いたが、考えてみれば、彼はパウのことを殆ど何も知らなかった。
ずるりと何かを引きずる音がした。
――オトウサンハ、シラナイヒトト、ハナシテハダメ、ト
声が少し近づいたことを感じながら、エルは言った。
「でもそれでは、君は誰とも友達になれないんじゃないか? 最初は誰だって知らない者同士だよ」
ずるり、と更に音が近づいてきた――
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