バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第一章

14 水没刑の執行(2)

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 きいこぎいこという単調な櫓のリズムが心地よい。
 
 桟橋から見上げたのでは、ひたすら続く頑丈な壁にしか見えなかった塔が、その雄大な姿を徐々に露わにするのを、ワタルは夢中で見つめていた。塔をこのように外側から眺めるのは初めての経験だった。
 頭を雲の中に突っ込んだ巨大な塔はしかし、どれだけ離れても追い縋り覆い被さって来るような気がした。そして水は、どこまで行っても水だ。周囲を見渡しても、水平線の彼方に他の塔や陸地が現れる気配はない。本当にこの世界には、たった一つの塔しか存在していないのだろうか。

 塔のかなり高い位置で何か光った気がして、ワタルは目を凝らして眺めた。

 ああ、また。
 ちろりちろりと、何かが光を反射している。

「やあ。本当にお前が子供の頃に描いた絵にそっくりじゃないか、ワタル。お前も塔の外に出るのは初めてだろう。塔の外観がどのような姿をしているか、なぜわかった?」

 強い日差しに照らされて、片手を庇にして目の上に翳しながら、パウが言った。

「あれは、昔ゲンヤと塔の中を探検して――」
 櫓を漕いでいたゲンヤが、食いしばった歯の隙間から警告音を発したが、遅かった。パウはそれを無視して
「内部の構造から、外観を想像したわけか。余程あちこち歩き回ったんだろうね。それで」
 と振り返ったパウの目はいつものように笑いを含んでいなかった。
「二人で探検して、何か見つけたのかな」

「誘ったのは私だ」
 と櫓を漕ぐ手を休めてゲンヤが言った。全身汗まみれになっていた。
 ユッコが交代して櫓を漕ぎ始めた。
「私は、塔の中心部に何があるのか知りたかった。当時は図書館の存在など知らなかったから、まるで、中心に空洞があるようにしか思えなかった。ワタルが居れば迷子になる心配がないので、無理矢理つきあわせた」 
 ゲンヤは額の汗を拭いながら言った。

「なるほどね。まあいい。――もう、この辺でいいだろう」
 パウの言葉にユッコはぎくりと身を震わせ、櫓が手から滑り落ちた。
「罪人を水の中に蹴落とせば任務完了、なんだが、わざわざ次期長老自らお出ましになったからには、何かそれ以外の目的があったのかな?」
 パウはゲンヤを見据えて問うた。ゲンヤは同年代のワタル達の中では抜きん出て背が高いが、長身のパウと並ぶと、まだ幾分低かった。しかしそれでも、パウの視線を正面から受け止めて、一向に怯まない。少し間を置いて

「まず」

 と口を開いた時には、ゲンヤの瞳はまっすぐユッコの父に向けられていた。

「ユッコが使徒には向かないと判断したのは私なのだから、襲うのであればワタルではなく私を襲うべきだった。私の身代わりになってワタルが瀕死の重傷を負った。ワタルはここにいる使徒パウの跡を継ぐべき者だ。現状で、他に変わりはいないということを認識してほしい」

 今更何を言っているのだと口を開きかけたワタルを、パウが手で制した。

「ユッコの好奇心の強さ,我の強さ、名誉への執着というようなものが、ずっと私には気がかりだった。だから、選ばれし子から除名できる機会を直ちに利用した。だが、それは間違いだった。ワタルを更に深く恨むことはせずに、己の行いと父親の行動との因果関係を認め、心より後悔している姿を見てそう思った。優秀な使徒になれた人材を、私の個人的な好き嫌いで排除してしまった。ワタルの怪我も、思慮に欠けた私の行動が原因であったと言える。残念ながら水没刑を覆すことはできない。あと十年経ったら、あるいはそのような強い決断を下せる長になれるかも知れぬが、愚かで未熟な今の私には無理だ。だから、あなたにはここで死んでもらわなければならないが、ユッコを使徒見習いに戻すことを約束しよう。他の選ばれし子達は明日正式に使徒に任命されるから、少し遅れをとることになるが、あなたの息子は、以前にもまして精進し、あなたのような罪人が二度と現れないように、きっと尽力してくれるものと信じている」

 ああ、とユッコの父が安堵の息を漏らしたのとほぼ同時に、パウが素早く動いて、ユッコの父の背後から首に腕を回した。
 ごき、という鈍い音がして、父親の体は派手な水しぶきを上げて水の中に転げ落ちた。透明な青い水の中を、ゆっくりと沈んでいく父親に手を伸ばし、身を乗り出したユッコを、ゲンヤが後ろから抱き止めた。

「父上が一番幸福を感じた時点を選んだんだ。涙を流しながら抱き合って感動の別れを長々したかったのなら申しわけないが、死の恐怖や苦しみは一切味わうことはなかったと請け負うよ。溺れ苦しむ様を見守るなんてまっぴらだろう? だから」
 とパウはユッコに顔を近づけてじっと覗き込んで、言った。
「もう、その隠し持っているナイフは必要ないね?」
「これは」
 ユッコは唇を震わせて言う。
「自分を」
「わかっている。君が次期長老と図書館長、次期図書館長候補をその小さいナイフで皆殺しにできると思うほど、おばかさんだとは思わないからね。私は心がないとひとからよく非難されるんだが、自己憐憫や後悔とかいった何の役にも立たないものに長々時間を割くのは苦手なんだよ。父上が水に沈んでいく際の安堵の表情を見ただろう。うっすらと笑みさえ浮かべていた。君は泣き言を言わずに使徒見習いに戻って、ゆくゆくはこの石頭と頭でっかちを支えてやらなければならん。楽な仕事ではないぞ」

 ユッコは膝から崩れ落ちると、静かに涙を流しながら、固く握りしめていた小さなナイフをパウに差し出した。パウはユッコのその手を下から払いのけた。掌に乗っていた小ぶりなナイフは宙を舞い、小さな水飛沫をあげて、沈んだ。

「馬鹿者。あんなな刃で、喉でも突くつもりだったのか。なかなか死ねないだろうから、とんでもない苦しみにのたうち回るところだったんだぞ」

 パウに一喝されてうなだれるユッコの掌は、少し切れて血が滲んでいた。ゲンヤがポケットから取り出した布を巻き付けて手当てをした。
 パウはもうすっかり興味を失った、という様子で、舟の上に長々と横たわった。

「さて、残念だけど、そろそろ塔に戻ろうか。舟の耐久試験はいい案だと思うんだがなあ、なあワタル」
「あなたには……ひとの心がない」ワタルは静かに言った。
「ない、のかもなあ。悪かった、と唱えながら涙を流し続けたら世界が変わるとでもいうのなら試してみてもいいけどね。今の暴言は聞かなかったことにしてあげるよ。まったく、私は君に甘いからなあ」

 ああそうだ、と狭い舟の上に斜めに体を横たえて空を見上げながらパウが言った。

「明日のゲンヤの長老就任式の時に、ワタルも使徒に任命されるってことはもう話したっけ? 対外的には使徒だけど、司書と兼任だからね。よろしく頼むよ」

 ユッコは櫓を手に取ると、無言のまま漕ぎ始めた。もう泣いてはいないようだった。ゲンヤは汗が冷えて寒くなったのか、脱いでいたローブを纏い、フードを頭から被った。

「死ぬ前に一度、塔の外に出ることができてよかった」

 と寝転がったままのパウが独り言のように呟いた。
 ワタルがはっとして見ると、パウは胸の上で手を組んで目を閉じていた。穏やかな顔の口元はわずかにほころび、笑っているようだった。
 顔色を失ったワタルが瞬きもせずに凝視すると、胸の上に組んだ手が静かに上下しているのがわかった。

 眠っているだけだ。

 ワタルは安堵と怒り両方の感情で渋い顔をしながら、上気した頬に冷たい風が当たるのを感じた。
 水面は穏やかで、降り注ぐ太陽の光が暖かかった。ゲンヤはパウの長い体で丁度二等分された反対側でワタルに背を向けて何かを見つめている様だった。ユッコの漕ぐ櫓が静かに軋みながら立てる波の音が耳に心地よかった。

 塔は遠くに、その壮大な姿で聳えていた。舟でかなり遠ざかったのに、塔の上の部分は相変わらず雲に隠れ、その全貌はわからない。水中深くにどれだけ沈んでいるのかも。
 段々に上に伸びる構造は、天に昇る階段のようだ。
 それはかつてワタル達の祖先が建設を始めたもので、未だに増築を続け、上へ上へと伸び続けているという噂だ。子供のワタルには噂の真相を確かめる術はなかったが、明日以降は正式な使徒兼司書となる。そうすれば、子供の頃から抱いてきたいくつかの疑問には答えを見つけられるはずだ。

「一体、どっちが石頭で、どっちが頭でっかちなんだ」
 ゲンヤが静かに呟いた。
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