バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第一章

03 いざ図書館へ

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 朝のレクチャーが終わると、ワタルは一旦父の元へ戻り、昼からもレクチャーを受けることになったので、仕事を手伝えなくなったと詫びた。
 父は、昼からのレクチャーが何のためか訊かなかったが、息子が何か重要な任務を与えられたことを察した。

「お前がコミューンの役に立てるなんて、私は鼻が高い」

 そう目尻の皺を深くしてワタルの頭を撫でた。父が彼にそんなことをするのは久しぶりだった。

 そして今、ワタルは少し前を行くパウの後頭部を見つめている。短く刈り上げられているが見事な銀髪であることがわかる。
 ふと、彼はいくつなのだろうかという疑問が頭をよぎった。初めて彼がワタルの前に現れた三年前は、自分の父親と同じか少し年上ぐらいかと思った。現在も、彼の容姿に特段の変化はない。しかし――

「入口を上の方に設置するのは」と呼吸一つ乱れていないパウが陽気に言う。

「まあ用心のためだね。一般の民は入れない上層部にあれば、ひとまず安心できるから。それに、そもそも人の出入りを想定していないっていうのもある。司書は普通、図書館内で暮らしているから、外に出る必要がない。
 勿論、水位が突然上昇した場合も考慮している。図書館では、貴重な書物ほど高い位置に保管してあるんだよ。この塔を建設した連中は、いつかこんな日が来ることを予見していたと見える。まあ、はるか大昔に一度あったことだしね。
 信じられるかね。
 この塔内で、あの大洪水――二度目のだが――によって水没した本は、なんと、一冊もなかったんだよ。全て水が到達したよりも上の階に保管されていたんだ。なんて用意周到なんだろうね。だから、現在水に浸かっている部分は、最初から空っぽだったのさ。
 そうはいっても、あまりに用心が過ぎると、ほれ、このように入口に到達するだけで一苦労さね。今にも死にそうな顔をしているが、大丈夫かね?」

 ワタルは声に出して返答することができなかったが、頷いた。心臓が破裂しそうで、膝は今にも支えを失って崩れ落ちそうだった。そうすると、今まで苦労して上って来た石の階段を転げ落ちていくことになる。
 パウは足を止めて、ようやく追いついたワタルの呼吸が元に戻るのを待つ間も、平然としゃべり続ける。

「健脚、というのも司書に要求される大事な資質でね。長老が本当は司書を希望していたということを知っているかい? 資格は十二分にあった。彼は権力を嫌っていたしね。ただ、体があまり丈夫じゃなかった。それもあって、泣く泣く長老になったんだよ。未だにそのことで嫌味を言われるよ。『わしだって、いい司書になれたのに』ってね。でも私はこう言い返してやるんだ。『そうかもしれないけど、残念ながら私は長老には向いてないからさ』ってね」

「パウ、さんは、長老と、ずいぶん長く、お知り合い、なん、ですか?」

 息も切れ切れなワタルに問われて、深い皺が頬や目尻に刻まれているものの、やはり彼の父より年上には見えない男は、愉快そうに言う。

「私は、もう二百歳を超えている。長老のおしめを取り替えたことだってあるんだよ」

 パウはローブの中から鍵束を取り出した。

「さて、ここが入口なんだが」

 と指さした先は、ただの壁である。巨大な塔の内側でとぐろを巻く螺旋階段――大きくゆるやかな円を描きながら上昇してきた石造りの階段には手すりなどはなく、右手を内側の壁に沿わせて上るパウを真似てワタルもそうしてきた。
 階段も壁も全て石造りであることに、煉瓦職人の子ワタルは目ざとく気付いていた。建築資材として石を使うことができたのは、二度目の大洪水が発生するより前の大昔の話だ。

 恐らく塔の中心にある筒状の空間の外側に階段が巻き付いているのだ。ということはつまり、現在地点は塔の外壁からはかなり遠く、太陽光は届かないはずなのに、階段は不思議な明かりで薄まった闇の中に姿を浮かび上がらせている。

「さて君は、今後一人でここまでたどり着くことができるかな?」
 パウはワタルを見下ろしながら訊く。

 これまでワタルが出入りを許可されていた領域よりはるか上のレベルで、この螺旋階段に到達するまでにも初めての通路をいくつも通過し、角を曲がり、見たこともない部屋を横切った。そして今二人が居るのは、目印も何もなく、両側を壁に囲まれた螺旋階段の途中だ。その階段には踊り場すらなかった。しかし――

「はい」
 ワタルは注意深く周囲を見回した後に答えた。
「大丈夫だと思います。経路は覚えていますから」
「頼もしいね」
 パウは束の中から選び出した鍵を壁の僅かな裂け目としか思えない隙間に差し込んだ。
 かちり。と金属性の音を立て、壁の一部が開いた。

「ここが図書館だ。『宇宙』などと大仰に呼ぶ者もいるが、私は図書館と呼ぶ方を好む」

 パウはそう言って、ワタルを招き入れた。

「ここには、これから書かれるものと既に書かれたもの、書かれるはずだったものまで、ありとあらゆる書物が保管されている」

 パウの言葉が、まるで異国の言葉のようにワタルの耳を通り過ぎていった。呼吸するのすら忘れて、目を見開いているワタル。

 窓のない空間は、今上って来た階段と同じく光源が不明の頼りない灯りで薄く照らされていたが、一段と暗くなっており、ワタルの目が慣れるまでしばし時間が必要だった。それでも、闇の中から迫ってくるような途方もない圧迫感があった。

 そこは、天井まで達する本棚で壁を埋められた六角形の部屋であった。燭台がそこかしこに設置されているから、必要に応じて火を灯すのであろう。扉のない出入り口が二ヶ所、一つは隣の部屋へ、もう一つは小さなホールに通じていた。ホールを更に進むと、中央にぽっかり空いた空間――大穴――の周りをぐるりと囲んだ回廊に出るようになっていた。穴は吹き抜けになっているようだった。
 
 ワタルは、吹き抜けを囲む低い手すりから身を乗り出して上下を覗いてみた。
 光の届く範囲で、回廊の端から対岸へ、または上あるいは下の階に無数の階段が伸びているのが確認できるものの、その配列はまるでに見え、いかなる法則も無視しているとしか思えなかった。闇に溶け込んで見えない部分も同様なのだろう。底も天井も闇が深くて見えない。
 ワタルは思わず身震いをした。

「落ちても救出しに行けないから、注意したまえ」

 そう悪戯っ子のような笑みを浮かべたパウに言われ、ワタルは慌てて手すりから身を引いた。

「図書館の領域としては、便宜上ここをレベル1として考えると、地下に数十階、上には数え切れないほどの階層がある」とパウ。

 回廊から伸びる階段でひとつ上のレベル2に到達したワタルは、周囲をぐるりと見まわし、その階の部屋から部屋へとでたらめに移動して見て回り、きっちり同じルートを通って駆け足でパウの待つ部屋へ戻ってきた。ワタルの目は、興奮と驚きで輝いていた。

「各階や部屋を、どのようにして見分けるのですか。部屋は六角形のものもあれば、四角、五角のものもあり、中央の吹き抜けに通じるホールへの出入り口があったりなかったり、隣の部屋へ抜ける出入り口があったりなかったり、まるででたらめに配置されているようです。隣り合っていながら、天井の高さが異なる部屋まであった。吹き抜けを囲む小さなホールも、回廊へは抜けられず、行き止まりになっている箇所もあり、その回廊にも途中壁があって吹き抜けの周りをぐるりと一周はできなかったり、随分複雑な構造になっていますね。これではまるで」

「迷路みたい、だろ。ここを設計した男がなかなか狂っていてね。わざとひとを惑わすような造りにしてしまったのさ。うっかり事情を知らぬ者が紛れ込むと、遭難しかねない。そうして図書館の貴重な本を守っているという建前だが、正直、設計者の趣味とでもいおうか、まあ、はた迷惑な男だった。見分け方か。そうさな、他の司書の方法は知らないが、私はこれ、ここにある」

 パウは書棚から一冊の薄っぺらい書物を取り出した。

「『世界が滅びた時のための書』の写本があるのでレベル2の東側だと判断している」と言った。
「それでは、文字の読み方を覚えないと、自分がどこにいるのかわからなくなってしまう」
 絶望的な顔をするワタルに、パウは笑って、
「でも君は既にこの背表紙の記号の形と並びを覚えてしまっただろう」と複数の短い線の組み合わせで尖った印象を与える形の連なりを指で撫でてみせた。
 確かに。一度見たものは忘れないワタルは少し安心した。

「しかし」とパウは独り言のように呟いた。
「本は時々勝手に移動するから、油断はできないけどね」
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