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恋愛中毒症(1)
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彼がまた塞ぎの虫にとり憑かれてしまった。
元々気分屋ではあったが、最近の彼のムードは沈む一方で、まるで底なしの沼にはまりこんだかのようであった。
「死にたい」
暗い顔をして事あるごとにそう呟くのである。
タマ子は、男の端正な顔立ちは、苦悩を内に秘めている時こそ最も魅力的であると思っていたが、次第に頬の肉が削ぎ落とされ、目の下の隈が色濃くなるにつれ、流石に心配になってきた。
「ねえあんた、私が忘れさせてあげるわよ」
とタマ子がしどけなくもたれかかれば、彼は荒々しく彼女を押し倒すのだが、ふとした拍子に我にかえって、虚ろな目で空を見つめ始める。これでは、一人で燃え盛っている自分が馬鹿みたいで、まったく興醒めである。
そして彼は、遂にあの言葉を口にした。
ええ、勿論よ、と彼女は答えた。
惚れた男に一緒に死んでくれるかと尋ねられ、嫌だと突っぱねられる女がいるだろうか。
「馬鹿ねえ、あんたは。また自分だけ生き残って、それを小説のネタにして儲けようって腹なんだわ。見え透いてるじゃないのさ」
タマ子と同じカフェーで働く同僚のアキ子が言った。二人ともシックな紺のドレスに白いエプロンをつけている。
「前の時だって、彼は本気で死ぬ気だったのよ。たまたま相手の女だけが死んじゃったけど」いい気味だ、とタマ子は内心で付け加えた。
彼が心中事件を起こしたのは、タマ子と知り合う前のことだったが、自分より先に一緒に死んでくれと懇願された女がいるという事実がタマ子には許し難かった。女だけが死んで彼は生き残り、いい笑い者だと相手の女を嘲笑うことでなんとか留飲を下げている。むざむざ死に損ねた男がどれだけ世間から嘲笑されているかは無視して。
「だいたい、今度で何回目? よくまあ、そんな風に次から次へと心中相手が見つかるものねえ。その点だけは尊敬できるわね。ねえあんた、冗談じゃなく、やめておきなさいよ。男は彼一人じゃないんだから」
とアキ子は心底呆れたという顔で言った。
髪を顎のラインよりも上で短くそろえたきつい顔立ちの彼女は、背がすらりと高く、ある種の男性に特に人気が高かった。現在は、その種の「世間に顔向けできない性癖を持つ大学教授を愛人に持ちながら、若い学生や真面目そうな銀行員まで手玉に取ってよろしくやっている。
一方、小柄で華奢な体つきだが、痩せすぎずふっくらとした頬のために、いくつになっても少女めいた可憐さを維持しているタマ子にとって、心中事件の生き残りとして世間を騒がせた悪名高き彼が初めての男であった。十四で田舎から出てきてカフェーの女給になり、様々な男に言い寄られたのだが頑なに拒み続けて数年、身持ちの堅い女だとかえって評判になったところで
「よりによってあんな男に安売りするなんて」
アキ子を筆頭に、同僚の女給達は口を揃えて「勿体ない」と言った。タマ子ほどの器量なら、自殺願望を抱えた陰気な作家なんかより、もっとましなパトロンを得られたはずだ、と。
そんなことは、百も承知だ、とタマ子は思う。わかっていてどうにもならないのが恋というものではないのか。
若い頃からの数々の不品行に加え、極めつけの心中事件によって、裕福な実家から勘当された彼が初めてタマ子の働くカフェーにやって来た時、彼女は、みすぼらしい着物を着ていても隠し切れない育ちの良さと教養を身に纏い、物憂げにテーブル・クロスの上に肘をついて頬を支えた男の横顔に、はっと息を呑んだ。
混雑する店内を飛び回りながら、どうしてもその客のことが気にかかって仕方のないタマ子に「あの男だけはやめておきな」と親切な先輩女給が忠告をくれた時には既に手遅れだった。男には、心中事件を起こした相手を別にしても、妻と子があった。
タマ子の住む木造のボロアパートに彼が転がり込むまで、たった二週間しかかからなかった。
彼は女の扱いに慣れていた。将来を嘱望される作家という話だが、原稿など殆ど書かずに日中はただゴロゴロしている。
タマ子がカフェーから戻ると、彼女が狭い台所でささやかな夕餉の支度をするのを、二つに折り畳んだ座布団を枕にして擦り切れた畳に寝転がり、ぼんやり眺めている。仕事をしないのだから収入がなく、裕福な実家も先の心中事件の後完全に彼を見限ったとのことで、実質的にはタマ子のヒモとして生活しているのに、恥じ入る気配もない。残された妻子がどのように糊口をしのいでいるのかは、自分の問題ではないからと考えなかった。
やがてタマ子は、カフェーで嫌な客にも愛想を振りまいて稼いだ金、いずれは自分の店を、小さい飲み屋でも開こうと思って貯めていた金を、せっせと男に貢ぐようになった。
別に彼からせがまれたわけではない。
上背のある立派な体格をしているのに、擦り切れて垢じみた着物を着たきりではみっともないと、タマ子が思ったのだ。どんどん書いても疲れないようにと、百貨店でぴかぴか光る万年筆を買ったのも、タマ子自身による決断だ。一緒に住むようになってからというもの、座卓の上の原稿用紙はいつまで経っても白紙のまま埃を被っているような有様だったのだが。
「これで傑作を書いてちょうだい」
と無邪気に言った彼女に、彼は苦笑いを浮かべたが、それでも「ありがとう」と言ってもらえただけで、タマ子は満足だった。例え舶来品の高価な万年筆が相変わらずまっさらな原稿用紙の上に文鎮代わりに置かれることになっても。
子供のような男の世話を焼くのは、タマ子には楽しい日々だった。
だが、二人の同棲生活が半年過ぎた辺りから彼が塞ぎの虫にとりつかれるようになった。そして更に半年ほど過ぎた頃
「俺が死ぬことにしたら、お前も一緒に死んでくれるか」と彼は言った。
自分が断れば、彼はきっと他の女と心中するのだろう。自分以外にも女がいるらしいことを、タマ子は薄々感じていた。
他の女になど渡すものか。
たまの浮気ならともかかく、他の女と死なれたりしたら、それこそ自分はいい笑い者だ。それが我慢できず、タマ子は彼の申し出を承諾した。その決意は、仲の良いアキ子にすら話さなかった。こんな思いは、当事者でなければ理解できないに決まっていた。
最近では、タマ子の貯金も底をつき、店に給金の前借りまでするようになっていた。
タマ子も彼も特に贅沢三昧をしているわけではなかったが、彼の方は酒代とクスリ代が嵩む一方だった。クスリは主に睡眠薬で、それがないと一睡もできない、と彼は言った。ただでさえ強い薬なのに、彼の服用量は増える一方で、それでも眠れないと目の下の隈を濃くしている。加えて、彼は若い頃に肺を患っており、一旦は治癒したものが、酒とクスリに溺れる自堕落な日々のせいで再発し、大量に喀血することもあった。
だからもう、すっかり終わらせてしまおう。
二人で話し合って、方法は前回と同じ、アパートの近くを流れる川に身投げすることにした。
「今度こそは、きっと、必ず成功させましょうね」
タマ子は晴れがましい笑みを浮かべて、そう言った。
元々気分屋ではあったが、最近の彼のムードは沈む一方で、まるで底なしの沼にはまりこんだかのようであった。
「死にたい」
暗い顔をして事あるごとにそう呟くのである。
タマ子は、男の端正な顔立ちは、苦悩を内に秘めている時こそ最も魅力的であると思っていたが、次第に頬の肉が削ぎ落とされ、目の下の隈が色濃くなるにつれ、流石に心配になってきた。
「ねえあんた、私が忘れさせてあげるわよ」
とタマ子がしどけなくもたれかかれば、彼は荒々しく彼女を押し倒すのだが、ふとした拍子に我にかえって、虚ろな目で空を見つめ始める。これでは、一人で燃え盛っている自分が馬鹿みたいで、まったく興醒めである。
そして彼は、遂にあの言葉を口にした。
ええ、勿論よ、と彼女は答えた。
惚れた男に一緒に死んでくれるかと尋ねられ、嫌だと突っぱねられる女がいるだろうか。
「馬鹿ねえ、あんたは。また自分だけ生き残って、それを小説のネタにして儲けようって腹なんだわ。見え透いてるじゃないのさ」
タマ子と同じカフェーで働く同僚のアキ子が言った。二人ともシックな紺のドレスに白いエプロンをつけている。
「前の時だって、彼は本気で死ぬ気だったのよ。たまたま相手の女だけが死んじゃったけど」いい気味だ、とタマ子は内心で付け加えた。
彼が心中事件を起こしたのは、タマ子と知り合う前のことだったが、自分より先に一緒に死んでくれと懇願された女がいるという事実がタマ子には許し難かった。女だけが死んで彼は生き残り、いい笑い者だと相手の女を嘲笑うことでなんとか留飲を下げている。むざむざ死に損ねた男がどれだけ世間から嘲笑されているかは無視して。
「だいたい、今度で何回目? よくまあ、そんな風に次から次へと心中相手が見つかるものねえ。その点だけは尊敬できるわね。ねえあんた、冗談じゃなく、やめておきなさいよ。男は彼一人じゃないんだから」
とアキ子は心底呆れたという顔で言った。
髪を顎のラインよりも上で短くそろえたきつい顔立ちの彼女は、背がすらりと高く、ある種の男性に特に人気が高かった。現在は、その種の「世間に顔向けできない性癖を持つ大学教授を愛人に持ちながら、若い学生や真面目そうな銀行員まで手玉に取ってよろしくやっている。
一方、小柄で華奢な体つきだが、痩せすぎずふっくらとした頬のために、いくつになっても少女めいた可憐さを維持しているタマ子にとって、心中事件の生き残りとして世間を騒がせた悪名高き彼が初めての男であった。十四で田舎から出てきてカフェーの女給になり、様々な男に言い寄られたのだが頑なに拒み続けて数年、身持ちの堅い女だとかえって評判になったところで
「よりによってあんな男に安売りするなんて」
アキ子を筆頭に、同僚の女給達は口を揃えて「勿体ない」と言った。タマ子ほどの器量なら、自殺願望を抱えた陰気な作家なんかより、もっとましなパトロンを得られたはずだ、と。
そんなことは、百も承知だ、とタマ子は思う。わかっていてどうにもならないのが恋というものではないのか。
若い頃からの数々の不品行に加え、極めつけの心中事件によって、裕福な実家から勘当された彼が初めてタマ子の働くカフェーにやって来た時、彼女は、みすぼらしい着物を着ていても隠し切れない育ちの良さと教養を身に纏い、物憂げにテーブル・クロスの上に肘をついて頬を支えた男の横顔に、はっと息を呑んだ。
混雑する店内を飛び回りながら、どうしてもその客のことが気にかかって仕方のないタマ子に「あの男だけはやめておきな」と親切な先輩女給が忠告をくれた時には既に手遅れだった。男には、心中事件を起こした相手を別にしても、妻と子があった。
タマ子の住む木造のボロアパートに彼が転がり込むまで、たった二週間しかかからなかった。
彼は女の扱いに慣れていた。将来を嘱望される作家という話だが、原稿など殆ど書かずに日中はただゴロゴロしている。
タマ子がカフェーから戻ると、彼女が狭い台所でささやかな夕餉の支度をするのを、二つに折り畳んだ座布団を枕にして擦り切れた畳に寝転がり、ぼんやり眺めている。仕事をしないのだから収入がなく、裕福な実家も先の心中事件の後完全に彼を見限ったとのことで、実質的にはタマ子のヒモとして生活しているのに、恥じ入る気配もない。残された妻子がどのように糊口をしのいでいるのかは、自分の問題ではないからと考えなかった。
やがてタマ子は、カフェーで嫌な客にも愛想を振りまいて稼いだ金、いずれは自分の店を、小さい飲み屋でも開こうと思って貯めていた金を、せっせと男に貢ぐようになった。
別に彼からせがまれたわけではない。
上背のある立派な体格をしているのに、擦り切れて垢じみた着物を着たきりではみっともないと、タマ子が思ったのだ。どんどん書いても疲れないようにと、百貨店でぴかぴか光る万年筆を買ったのも、タマ子自身による決断だ。一緒に住むようになってからというもの、座卓の上の原稿用紙はいつまで経っても白紙のまま埃を被っているような有様だったのだが。
「これで傑作を書いてちょうだい」
と無邪気に言った彼女に、彼は苦笑いを浮かべたが、それでも「ありがとう」と言ってもらえただけで、タマ子は満足だった。例え舶来品の高価な万年筆が相変わらずまっさらな原稿用紙の上に文鎮代わりに置かれることになっても。
子供のような男の世話を焼くのは、タマ子には楽しい日々だった。
だが、二人の同棲生活が半年過ぎた辺りから彼が塞ぎの虫にとりつかれるようになった。そして更に半年ほど過ぎた頃
「俺が死ぬことにしたら、お前も一緒に死んでくれるか」と彼は言った。
自分が断れば、彼はきっと他の女と心中するのだろう。自分以外にも女がいるらしいことを、タマ子は薄々感じていた。
他の女になど渡すものか。
たまの浮気ならともかかく、他の女と死なれたりしたら、それこそ自分はいい笑い者だ。それが我慢できず、タマ子は彼の申し出を承諾した。その決意は、仲の良いアキ子にすら話さなかった。こんな思いは、当事者でなければ理解できないに決まっていた。
最近では、タマ子の貯金も底をつき、店に給金の前借りまでするようになっていた。
タマ子も彼も特に贅沢三昧をしているわけではなかったが、彼の方は酒代とクスリ代が嵩む一方だった。クスリは主に睡眠薬で、それがないと一睡もできない、と彼は言った。ただでさえ強い薬なのに、彼の服用量は増える一方で、それでも眠れないと目の下の隈を濃くしている。加えて、彼は若い頃に肺を患っており、一旦は治癒したものが、酒とクスリに溺れる自堕落な日々のせいで再発し、大量に喀血することもあった。
だからもう、すっかり終わらせてしまおう。
二人で話し合って、方法は前回と同じ、アパートの近くを流れる川に身投げすることにした。
「今度こそは、きっと、必ず成功させましょうね」
タマ子は晴れがましい笑みを浮かべて、そう言った。
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