クガイの剣 とある剣豪の異境活劇

永島ひろあき

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冥界の剣

第一話 男、来りて

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 人影はおろか生命の気配もない廃墟が延々と続く街中を、一人の女性が歩いていた。
 通りに面した家々や商店は崩れ落ちて瓦礫と変わり、道も盛大に罅が走って、あちこちが隆起している。
 太陽の光は分厚い雲に遮られて周囲は薄暗く、昼の時刻から幽霊の類が姿を見せてもおかしくない雰囲気がある。
 事実、この楽都らくとと呼ばれる都市は、五十年前に見舞われた霊的大災害により悪霊や人を食らう妖怪の類が頻繁に姿を見せて、人間に害を成している。

 女性が歩いているのはいまだ悪霊や大災害の影響で誕生した凶悪な生物が跋扈し、復興が遅々として進まない危険地帯の一角であった。
 そんな危険地帯なのに、女性が悪霊を払う霊力を帯びた刀剣や異常発生した生物を撃退する為の道具を身に帯びている様子はない。

 女性は蔓草模様の刺繍が見事な深緑色の一枚布をゆったりと体に巻き付け、左手にはいくつもの花や草を入れた籐の籠が抱えている。
 深緑色の布を頭から被り、顔の下半分も同じ色の口布で隠している。それでも口布に隠された顔が途方もない美女であるのは、わずかに覗く目元だけで一目で知れる。そしてこめかみから羊のように捻じれた角が伸びていた。

 羊の如き角を持つこの美女は、名前をアカシャという。アカシャは人とあやかしの入り混じるこの楽都ならではの住人なのだった。
 アカシャは時折、崩壊した家々の間や道の途中で足を止めて、野に咲く草花を摘んで籠に収めてゆく。この危険地帯に充満する妖気を吸って育った草花は、特別な儀式や薬を調合するのに大変重宝する。もちろん、薬だけではなく毒としても。

 籠の中が半分ほど満たされたころ、アカシャは辺りに立ち込める妖気の変化を感じ取り、足を向ける先を変えた。
 占いの師匠である蛇女の指示でこの危険地帯にのみ自生する魔性の草や妖気塗れの花を摘みに来たのだが、余計なことをしては叱責を受けるだろう。
 それでもこの変化の原因を確かめなければならないと、アカシャの直感が告げている。

「新しい妖怪でも生まれたのかしら?」

 この危険地帯に足を踏み入れるのは一度や二度ではない。危険な悪霊や怪物の出現する場所や行動範囲は理解している。アカシャはかつて主要な通りだったが今は瓦礫だらけになった道を進み、視界の端から端まで届く巨大な亀裂の前で足を止めた。
 大災害でこの楽都に刻まれた傷の最たるものが、この亀裂だった。亀裂の底に辿り着いた者はおらず、そこから噴きあがってくる風には尋常ならざる妖気が混じり、常人がまともに浴びればそれだけで魂から狂って死んでしまう。

 かつて存在した建物は亀裂が発生した際に飲み込まれて消え去り、今や亀裂の周囲には亀裂に渡された三つの大橋の他にはほとんどない。
 アカシャは、その亀裂の縁にうつぶせになって倒れる男を見つけた。近づいて屈みこみ、男を観察してみれば、惚れ惚れするほど鍛え抜かれた肉体を持った黒髪の青年であった。
 なにがあったのか上半身を剥き出しにし、ボロボロの筒袴を穿いているきり。アカシャの直感は彼こそが妖気の変化の原因だと確信している。

「息はしている。ひょっとして、貴方は亀裂から出てこられたのでしょうか?」

 横を向いている男の口元に手をやれば確かに呼吸はしており、体にも傷を負った様子はない。ただ、根本的な生命力が損なわれているのを、魔術を修めるアカシャは見逃さなかった。
 繊細な硝子細工を扱うように右手で男の背中に触れて、腰の方へと向けて動かしてゆくと腰の裏――丹田のあたりに違和感を覚えた。

「あら、これは……」

 アカシャはそれ以上口にはせず、ゆっくりと背後を振り返る。そこにはアカシャの匂いを辿ってか、楽都の瘴気を浴びて変容した怪物達が姿を見せていた。
 毛皮はなく赤い地肌がむき出しとなった四つ足の獣だ。足先は鎌のように鋭い爪を四本、十字の形に伸ばし、口は首の付け根まで亀裂のように裂けている。赤一色の瞳には満たされることのない飢えが凶悪な光となって爛々と輝いている。

 彼らの獲物は奇妙な匂いのするアカシャと意識のない青年だ。口裂けの魔獣が六頭、じりじりと包囲を狭めてくる。群れだってはいるが、どいつもこいつも誰よりも先に自分が獲物を食らう事だけを考えている。
 武器らしい武器など持っていないアカシャが、地面に置いておいた籠に手を伸ばし、摘んだ草花を使った魔術を行使すべく準備を進める。

 妖気を浴びて変容した魔獣の筋力は尋常な生物をはるかに上回り、目にも止まらぬ速度と鉄を斬り裂き穿つ爪と牙、そして何より飢えれば共食いも平然と行う凶暴性を有する。
 獲物を逃がさない為の包囲網を狭めていた口裂け魔獣達だが、ついに食欲と殺戮衝動を抑えきれなかった一頭が駆け出し、抜け駆けをした一頭に遅れまいと残る五頭も足場の悪さをものともせずに駆け出す。

 風と化して走る魔獣共と魔術の準備を進めるアカシャと、どちらが早いか。答えは出なかった。
 なぜならばアカシャの足元で倒れていた青年がおもむろに立ち上り、近くに転がっていた腕くらいの長さの木の棒を拾い上げ、それでもって先頭を走る魔獣の鼻先を真っ向から叩き潰したからだ。

 それまで死体のように動かなかった姿からは想像もつかない速さ、そして力強さにアカシャの金色の瞳が驚きに開かれる。
 木刀ですらない木の棒であるにもかかわらず、鼻先を叩かれた魔獣は糸の切れた人形のように崩れ落ちてからピクリとも動かない。ただの打撃ではこうならない。青年の一撃には見た目からは分からない“力”があるようだ。

「ギャウッ!!」

「ギギギイイ!」

 残る五頭の魔獣達は金属の擦れるような叫びをあげて、青年の前後左右へと一糸乱れぬ動きで移動して囲い込む。先程まで我先にと襲い掛かっていた様子からは信じられない連携で、これもまた口裂けの魔獣達が危険視される理由だ。
 この時、魔獣達の脳裏にあったのは青年に対する食欲ではなく、殺すという一念のみ。彼らの本能が青年の殺害に全力を注げと拒否を許さぬ強さで命令している。

 死を運ぶ赤い風となって襲い掛かる魔獣達の間で、青年は流れる水の如く動き、一頭につき一撃、都合五度の攻撃を見舞った。
 鼻先や額、喉、あるいは腹へと何の変哲もない木の棒が打ち込まれると、首だけになってもしばらくは動き回る魔獣達が嘘のように昏倒し、身じろぎ一つせずに倒れ伏す。加えてアカシャが瞠目したのは

「聞こえた音は一度だけ。なんて速さと巧さ」

 五度の打撃は、あまりの速さから一度に重なった打撃音のみをアカシャの耳に届けたのである。六頭の魔獣達を瞬く間に無力化させた実力は、一騎当千の武人や魔術、仙術の入り混じる楽都にあっても際立ったものだ。
 青年は打ち倒した魔獣達には視線もくれず、アカシャを振り返るとしっかりとした足取りで近寄ってくる。たった今、鬼神の如き戦いぶりを見せたというのに、青年から大きく活力が失われているようにアカシャには見えた。
 青年が二間(約三・六メートル)の距離まで近づいてきたところで、アカシャは柔らかな声で話しかけた。

「美しさすら感じる技でした。わたくしではどう表現すればいいかも分かりませんが、敬意を抱かずにはいられません」

 アカシャの嘘偽りのない称賛は、どんなに気難しい武芸者でも思わず口を綻ばせるものだったが、青年は困った顔で腕を組んだ。凄まじい技量の持ち主だが、そうしていると人懐っこい愛嬌が浮かんでくる。

『!“%##!$&$#(?』

 青年の口から出てきた言葉は、アカシャが普段聞き慣れていないものだった。楽都では異国の人間も多く出入りしており、何種類もの言語を耳にする機会が多いのだが、青年の操る言葉は初めて耳にする。

「あら、異国の方でしたか。ではわたくしの言葉は通じていらっしゃらない?」

 アカシャの問いを肯定するように、青年は何度も首を縦に振る。首を縦に振るのが、肯定の意志を示す動作であれば、だが。

「一体どこからいらしたのか。やはり、亀裂から?」

 これまで亀裂から姿を見せた存在の例はいくつか存在しているが、そのどれもが楽都に災禍としか言いようのない被害を齎している。
 先例に倣うならば目の前の青年も楽都に大きな災いを齎す存在という事になるが……そのようにアカシャが考えていると、不意に青年のお腹からグウゥ~と可愛らしい音が聞こえてくる。
 青年が恥ずかし気に頭を掻くのを見て、アカシャは口布の奥で小さく笑みを浮かべる。

「可愛らしい音ですね。お腹が減るのはどこでも同じ。助けていただいたお礼に御馳走いたします。わたくしはアカシャと申します。アカシャ、アカシャです」

 アカシャは籠を持って立ち上がり、右手で自らを示しながら、何度かアカシャ、と繰り返す。そうすれば青年の顔に理解の色が浮かび上がり、

『アカシャ、アカシャ』

「ええ。わたくしの名前はアカシャです」

 青年はほっと安堵した顔になり、それから人懐っこい笑みを浮かべると、左手を自分の胸においてこう口にした。

『クガイ! |=(‘%#“クガイ$』

「クガイ? 貴方様はクガイ様とおっしゃるのですね。どこからいらしたのかは分かりませんが、ようこそ、かつて魔界に浸食され、歪められたこの楽都へ。この街はどんな方でも受け入れます。ええ、いっそ残酷なほどに」

 こうして、楽都にクガイという名前の異邦人が訪れたのだった。果たして彼がこの街に齎すのは災いか否か。
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