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星の海

第三百二十二話 始まりの合図

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 後に“メグゼス会戦”と呼ばれるアークレス王国・ロマル帝国・モレス山脈の竜種らによる連合と、暗黒の荒野より来る魔王軍との戦いは二日目を迎えていた。
 両陣営にとって予想外となるアークウィッチ・メルルの正気を疑う大暴れにより、事前の想定をいくつも覆されたのはどちらの陣営も同じ。
 だからこそ覆された想定をどのように、どれだけ迅速に修正し、実行へ移すのか。そして相手の動きにどう対応するのかが、重要性を増す事に繋がっている。
 我がベルン男爵領の所属するアークレスト王国においては、メルル、私、クリス、ドラミナら四名による敵本陣への奇襲案が採択され、ロマル帝国もそれに同調した動きを取る手筈となっている。

 激戦から一夜明けて、敵も味方もいつ動き出してもおかしくない状況の中、ドランこと私はモレス山脈の同胞達の陣へと足を運んでいた。
 老地竜ジオルダとヴァジェの活躍によって、魔王軍の魔六将の一角にして敵竜種の女王マスフェロウにはそれなりの痛打を浴びせているが、一晩もあればほぼ万全の状態に回復して再び前線に顔を出すだろうと予測されている。
 マスフェロウを抜きにしても魔王軍側の偽竜には侮れない実力者が多く、わずかな油断と隙が致命的な事態を引き起こす可能性が高い。
 であるからして、私は同胞であり弟子でもあるヴェジェに激励の一つでもしようと、彼女の姿を探し求めているのだった。

 ヴァジェの姿はすぐに見つけられた。モレス山脈の同胞達の巨体はよく目立つが、その中にあって深い紅色の鱗を纏う深紅竜はヴァジェしかいない。
 今は朝を迎えたばかり。冬の吐息がもう肌にかかるくらいの季節で、冷え込みもうんと増してきているが、ヴァジェをはじめ竜の同胞達に堪えた様子はない。
 極端に火に偏った生態の竜でもこの程度ならば苦にはすまいし、どうしても肌に合わないのなら自分の周囲だけ気温なり環境なりを変えるくらいの芸当は、知恵持つ竜種なら可能だ。

 ヴァジェの周囲にはこれまでの戦いで彼女に助けられたか、その高い戦闘能力に感銘を受けたかしたらしい、特に若い竜達がちらほらと姿を見せている。
 彼らはヴァジェの戦いぶりを褒め称え、魔王軍との戦いにかける意気込みを語らいあっていて士気は高い様子だ。そんな若者達の輪の中心で、ヴァジェは生真面目な顔と態度で返事をしながらも、意識の大部分は朝食へと注いでいる。

 今回の戦争にて、モレス山脈の竜種達の兵糧は彼ら自身が持参したものに加えて、アークレスト王国側でも用意している。王国各地の牧場から取り寄せた家畜の肉や養殖場の魚が主で、他にも野菜から穀物まで加工前のものが取り寄せられていた。
 どうも竜種の食事といったら、肉だろうが野菜だろうがそのまま丸かじり、と思われているようだが、調理を好む者も多いし、一応、竜種にも料理という文化はある。
 幸いにして我が同胞達はアークレスト王国から届けられた食材の山を前に、どう料理するか、と話し合うところが始めたので、機嫌を損ねた者達はいない。

 ヴァジェは両手に抱えた巨大な寸胴鍋を傾けて、鍋の中身をごくごくと勢いよく飲んでいた。
茶色い汁物らしい寸胴鍋の中身の具材は、皮もそのままの人参や馬鈴薯、玉ねぎ、それに塊の牛肉だ。ビーフシチューか。すでにヴァジェの周りには空になった寸胴鍋がいくつも転がっている。
 竜種は巨大の割に必要な食事量は少なく、特に能力が高い程、どんどんと食事量は少なくなり、食事は娯楽か趣味に近いものになる。
 今のヴァジェは竜公の域に達するまで間もなく、という段階に達しているから、食事は娯楽に等しい。ただ、今のヴァジェは娯楽としてではなく、次の戦いに備えて少しでも栄養を蓄え、心を奮起させる燃料として美味なる食事を摂取しているのだ。

 最後の寸胴鍋の中身を空にしたヴァジェは、最後に巨大な籠に山一杯に盛られた白い魔晶石をざらざらと小さな飴玉を食べるように胃の腑に流し込む。
 あれはベルン男爵領の輸出品として生産体制を整えた魔晶石だ。今回は、食料以外にもこの魔晶石をモレス山脈の同胞達に提供している。
 ガリガリ、ゴリゴリとなんともまあ激しい咀嚼音の後に、ごっくん、と口いっぱいに頬張った魔晶石を飲み込む音が一つ。私はそれを待ってから、止めていた足を動かしてヴァジェに話しかけた。

「おはよう、ヴァジェ。昨日は魔六将を相手に勇猛果敢に戦ったと聞き、案じてはいたが、その様子ならば怪我の心配は無用なようだ」

 私に話しかけられたヴァジェははしたない場面を見られたとでも思ったのか、慌てた様子で居住まいを正した。空になっていた食器の類を大急ぎで脇にのけて、腹ばいの姿勢で頭を可能な限り下げて私と視線を合わせようとする。
 周囲の竜達は、とりわけ気位の高いヴァジェが協力関係を結んだとはいえ、人間である私に居住まいを正す姿に驚きを隠さないが、私がさる高位の竜の生まれ変わりという事実は、彼らの間でのみ周知されている為、さもありなんと納得の顔になり、黙ってこちらの様子を伺い始めた。

「はい。昨日は偽竜共の女王を相手に、ジオルダ老のお手を煩わせる形となってしまいましたが、なんとか命を拾うことが叶いました」

「いささか謙遜が過ぎるな。君だからこそあのマスフェロウを相手に、ああまで戦えたのだから。今日の戦いは昨日といささか趣の変わる戦いになる可能性が高い。君達に掛かる負担は、変わらず大きいがどうか自分の命を大切に扱ってくれ」

「私如きには過分なお言葉です。再び戦場で顔を合わせたならば、この身と引き換えに、とまでは申せませんが、あのマスフェロウの腕の一つも灰にしてみせます」

「ふむ、あくまで命を大事に、だよ?」

「はい。ドラ――ン補佐官殿との約束を違える度胸は、私にはありませんから」

 まるでレニーアのように私の名前をドラゴンと言い間違えそうになり、慌てて訂正するヴァジェに、私は分かっているのならいい、と返してからこう口にした。

「昨晩、ジオルダ殿経由で伝えられているとは思うが、今日の夜には私をはじめとした面子で魔王軍の本陣に仕掛ける。
 その為に私とドラミナは太陽が空にある間は後方からの支援に留めるが、魔王軍もこちらの動きに気付いて警戒を深めるか、あるいは積極的に攻勢に転ずる可能性もある。
 重ねて言うが、何が起きるか分からないのが世の常だ。そして戦場はとりわけ、そういった『何か』の起こる確率の多い場所だ。おいそれと気を緩めてはいけない」

「ドラン補佐官殿の経験上の教訓でございますか?」

 古神竜ドラゴンとしての経験も交えてのものか、と言外に問うてきたヴァジェに、私は重々しく頷き返した。まさか人間に転生するとは、心臓を貫かれた瞬間でさえ思ってもいなかったからな。
 私はまさに何が起きるか分からない、というのを今も継続して実感し続けているのだ。

「そうだとも」

「確かに、ドラン補佐官殿ならば説得力のあるお話です。私自身、こうしてこの場で貴方と言葉を交わしている事そのものが、夢にも思わなかったことなのですから」

「そうなのか? いや、そうだな」

 私の復活を確信していた竜界の同胞はともかく、地上の同胞達にとっては古神竜ドラゴンと言葉を交わすなど、まずありえないとしてあらゆる可能性から排除するだろうからなあ。

「では、勝手に来ておいてなんだが、そろそろ時間なので私はこれにて失礼する。食事の時間に手間を取らせて申し訳なかった」

「いえ、私の方こそお越しいただいているのにすぐに気付けばよいものを、無作法をしている姿を晒してしまい、恥じ入るばかりです。それと、私などからは不要と分かってはおりますが、どうぞ、ご武運を」

「ふむ、不要などであるものか。ヴァジェ、君の武運長久を祈っている」

 本来ならば私がその祈りを聞き入れる側である、というのはここはひとつ、気にしないでおこう。そうして私はヴァジェに背を向けて、ベルン男爵領の陣地へと戻った。
 私とヴァジェの会話を聞き、様子を見ていた若き同胞達が、あのヴァジェ殿がそこまで畏まる相手とは、と私に対する疑問と畏敬の念を深めたのは、意図せぬものだったが、損にはなるまいて。



 そうして私がベルン男爵領の陣地に戻ってから暫く、再び戦場は動き出した。まず、私達奇襲部隊の温存の為、昨日、いろいろな意味で大変活躍したメルルは温存となり、空の戦いで大きな役割を果たしていたドラミナも、二日目は後方から遠距離狙撃を主に行っている。
 私はメルルの魔法を相殺しただけだったが、それだけでも十分魔王軍側には警戒される働きであったのは確かだ。ならばいっそ、私くらいは前線で戦い、適当に消耗したふりをして夜の奇襲には加われないと印象付けるのもありでは、と昨日の会議で話題になったのだが、これは棄却されている。

 まず王国側の私の実力に対する認識がメルルに準ずるものである事。そのメルルが魔六将二名とおおよそ対等である事。そうすると私とメルルで魔六将四名分になるわけだ。
 すでにヴェンギッタと互角以上に戦ったクリスを入れて魔六将五名分。メルルからの熱い推挙を受けたドラミナを加えて、おそらく魔六将六名分。
 これで魔六将全員に相当する戦力になるわけだが、魔王軍には魔六将を上回るだろう魔王ヤーハームがおり、奇襲部隊の誰一人とて消耗はさせられない、という意見が通ったわけだ。

 このような戦力換算をすると、魔王の分だけ私達奇襲部隊が不利になるわけだが、そこはモレス山脈の竜王級のジオルダやヴァジェ達の存在により、否応なくマスフェロウが前線に出ざるを得ず、またロマル帝国が複数で当たれば魔六将と互角以上に戦える十二翼将と契約者達を有することから、昼間の内に魔王軍側に確実に消耗を強いられる為、それで補えると判断された。
 いざとなったら効果範囲を絞ったメルルの大魔法をひたすら連射し、私やクリス達がその護衛に集中すれば敵軍に大打撃を与えられると考えられたのも、理由の一つだ。
 実際、今のメルルが全魔力を使い切るまで魔法を行使すれば、この惑星を砕くくらいは出来る。そこまでやればいかに魔王軍とて被害は甚大という形容では収まるまいよ。

 そうして二日目の戦端が開かれた直後、アークレスト王国と魔王軍が慎重に戦場の様子を見ていたのに対し、ロマル帝国は果敢に打って出た。
 自国の超常戦力である十二翼将と特務機関名義の契約者達を前面に押し出し、十万超の兵力を彼らの援護に回して魔王軍の展開した戦線を食い破ろうと襲い掛かったのである。
 軍勢を剣に例えるなら、カイルスやダンテモン、アスラムらが切っ先を担い、それを一息に魔王軍へと突き立てて、じりじりと押し込んでゆく形だ。

 前日のメルルの存在もあり薄氷を踏むかのような慎重さで動いていた魔王軍にとって、ロマル帝国の大攻勢はいささか意外だった。
 彼らの中でメルルへの警戒が極めて大きくなったのは確かだが、魔六将と戦える人材を複数有するロマル帝国を侮っていたわけではない。
 それを加味しても動くとなればメルルと歩調を合わせて攻めてくる可能性が高いと判断していたのだが、それを裏切られた形だ。だが、戦場で何もかもが思い通りになるなどと思い込むほど、魔王軍の上層部は脇の甘い人材ではなかった。

 ロマル帝国側の戦線を担っていた兵団はすぐさま体勢を立て直し、一振りの剣の如く攻め込んでくるロマル帝国の先陣を包囲し、殲滅しようと迅速に動き出している。
 これに対してロマル帝国側はここが最後の戦場だと言わんばかりに猛烈な攻撃を加えて、後先を考えない膨大な物資の消費量を記録する事となる。
 当然、魔王軍側はこのロマル帝国の動きをいぶかしむが、十二翼将らが暴れまわっている以上、魔王軍側も魔六将級の戦力を投入しなければ兵をむざむざと死なせる羽目になる。

 この時、ロマル帝国側の戦線に投入されたのは、ザンダルザ子飼いの高位魔族らに加えて、ヴェンギッタの作成した戦闘特化人形とクインセの眷属の中でも特に大型で殲滅力の高い大型の魔蜘蛛だ。
 魔六将自身は戦線には出なかったが、数を揃えば魔六将並みの脅威になり得る戦力を多数投入した形であり、これにはさしものロマル帝国側も進撃の速度が鈍るも、わずかに遅れてモレス山脈の竜種達がジオルダとヴァジェを筆頭に攻撃を仕掛け、魔王軍側はこれにマスフェロウらを当てる他なかった。

 複数の魔六将を当てて突出したジオルダらをこの機に倒すのも手ではあったが、厄介なのはメルルが広域殲滅と破壊力に特化した実力者である点にあった。
 メルルの所在と手札を確認せぬままに動かしては、さしもの魔六将ですら何もできぬままに倒される危険性が高かったのである恐るべきはメルル。所在地だけで敵対者の動きを著しく制限するのは、ロマル帝国ばかりでなく魔王軍でさえ同じだった。

 アークレスト王国が消極的な動きを見せる一方で、ロマル帝国と魔王軍の戦線が活発な動きを見せ、昨日のメルルには及ばずとも激しい爆発と爆風、振動や閃光が大地の一角を染め上げ続けた。
 そうして朝方から始まった戦いは夕暮れ間近まで続き、ロマル帝国と魔王軍は双方共に多大な出血と引き換えに二日目の戦闘を切り上げた。夜襲に備えた警戒部隊を残しつつ、三日目に向けて心身を休ませている最中に、私達奇襲部隊はようやく出番を迎えた。

 アークレスト王国軍は私達の奇襲の成果を待って、全軍を動かすかそのまま待機させるかを決める。
 ヤーハームをはじめ魔六将を多く討ち取れれば、その隙と混乱をついて仕掛ければよし。
私達が仕損じたなら脱出する私達を援護するために魔王軍に仕掛ければよし。
 たとえ私達が仕損じても無事に脱出できたなら、大急ぎで私達を保護する為だけに動けばよし。
 どうなるにせよ、どう動くか決めたなら、あとはもう本当に動き出すのみだ。

 陽が落ち、夜のとばりが地平線の先にまで落ちたころ、ベルン男爵領の陣地を抜けた私達四人は、魔王軍の警戒網に引っかからないよう、彼らの陣地のはるか上空を飛んでいた。
 今も私達のはるか眼下では夜目が利くか、魔法によって夜でも昼と変わらぬ視界を持つ偽竜や飛行型魔獣に乗った空中騎士達が飛び回っている。ほかにも侵入者の存在を知らせる魔法による警戒網もいくつも張り巡らされている。
 なるほど、なるほど、流石の技術力と人的資材と言いたくなる見事な警戒網だが、私達にはそれほど意味のないものだな。

 私達はメルルを中心に三方を私、クリス、ドラミナで囲う位置関係にあった。メルルは完全魔装形態のディストールを纏い、ニヒトヘイトを手に詠唱を始めている。
 詠唱中の彼女を守る私達は、手に手にそれぞれの獲物を持って、万が一の敵襲に備えている。魔王軍の面子ならメルルからの攻撃を凌いだ後に、この高度まで反撃を加えてくる、と私達は確信していた。
 私とドラミナが同時に叩き込んでもいいが、メルルの魔法との相乗効果でどこまで『も』被害が広がってしまいそうなので、安全を選ぶこととなった。
 なぜ頭上に陣取った私達の存在を魔王軍が気付けないのか。それは高度にあった。私達がいるのは成層圏の中ほど。地上とはあまりにも距離があり過ぎて、魔王軍も気づきようがない。

 この高度まで飛行魔法で上昇するのに、クリスが少々手間取ったが私とドラミナで左右から支え、ドラッドノートが支援を始めれば慣れるのはあっという間だった。今のところ、問題らしい問題はそれくらいだろうか。
 半眼になって詠唱に集中するメルルの周囲には帯状の魔法陣が幾重にも描かれ、足元には大小無数の魔法文字によって描かれた円形の魔法陣が広がっている。魔法陣は詠唱に合わせて心臓のように脈動し、色合いもまた変化している。
 魔王ヤーハームと思しき強大な力の持ち主がいる地点を中心に、魔王軍の陣地のみに神経質なまでに効果範囲を絞り込んだ魔法の詠唱は四種類同時に並行して進められている。
 メルルの手持ちの魔法の中で効果範囲と破壊力、さらに魔六将を基準とした魔王軍の対魔法防御能力などの条件から選択した魔法を、『四連発』ではなく『四発同時発射』を行うのである。

「いまさらだが、メルル殿はなんというか、ああいう性格でよかったな」

 自分では絶対できない離れ業を実行中のメルルを見て、クリスが小さく頬を引きつらせながら素直な感想を口にした。クリス単独では今のメルルと同じ芸当はできないわな。
 クリスの呟きに、メルルに比べると神器に頼らぬ自前の攻撃手段では、射程範囲でやや劣るドラミナがしみじみと呟く。今のドラミナはバンパイア六神器すべてを纏い、完全武装状態にある。

「彼女が力を誇示し、自己顕示欲に塗れた性格であったなら、魔王軍の到来よりも早くに人間同士で戦争が勃発していたことでしょうね。力に見合わぬ平凡な……ええ、一部を除いて平凡な人格であったから、これまで大きな戦いにはならなかったのは想像に難くありません」

 アークレスト王国にて、メルルの戦闘能力が本来のものよりも低く見積もられていたから、戦争を仕掛ける不利益と平穏を維持する利益の方を重視されたからこそ、これまでアークレスト王国は東西南の三方に侵略戦争を仕掛けることはなかった。
 どちらかというアークレスト王家の気質とお国柄自体が覇権主義向きではないが、利益があればそれを見逃すような甘い方達でもないからね。

「魔王軍が来なければ今頃はもっとベルンの発展に力を注いでいられたのにな。まったく、南以外に目を向けてくれればよかったのに」

 クリスはついという感じで本音を零した。詠唱に集中しているメルルに私達の会話は届いておらず、私とドラミナが相手だから気が緩んでしまったらしい。

「クリスには私も全面的に同意するよ。ただでさえアステリア皇女とライノスアート大公の問題でロマルが騒がしかったところに、魔王軍の襲来だ。暗黒の荒野の地理把握とモレス山脈の竜種との交流が一気に進んだのは収穫だが、開拓の停滞は痛い」

「まったくだ。かといって魔王軍から何を得られるものか。ん、そろそろメルル殿の詠唱も終わるか?」

 クリスが両手の愛剣達を握り直し、メルルに一度目を向けてから足元に視線を転ずる。高所に恐怖を覚える者だったら即座に卒倒するか、現実感の無さに困惑しそうな高度にも、すでにクリスは慣れた様子だ。
 たまに行う本気のレニーアとの手合わせでは、専用の空間を作っているそうだが、その空間の環境は毎度デタラメなものを採用していると聞く。『勝手の分からない初めての場所で戦う』経験は、初めてではないわけだ。
 そしてクリスの指摘の通り、メルルの口と彼女の精神に同期した周囲の大気が、四つの詠唱をついに終わらせる。

「かつて天上より降臨せし者達よ 時が来た 吹き荒ぶは五月蠅さばえなす忘れられし者の叫び 天は濁り 大地は腐る 海は枯れて 世は荒れ滅びるだろう! 穢世呪叫えんせじゅきゅう

 それは天より降臨した新しきモノ達に忌み嫌われ、封じられ、記憶に残すことも憚られた古き荒ぶるモノの呪いの籠った叫び。

「彼は惨劇を見た 彼女は終末を見た 見よ 見よ お前は燃える空を見る お前は灰となる大地を見る お前は消え去る海を見る! 火灰壊世かかいかいせい

 それは終焉の時を迎えた太陽が最後に放つ煌めき。宇宙の闇にひときわ輝く炎は星をも焼き尽くす劫火。

「世界は始まり 続き 終わる 再び始めよう 汚濁は清め 血の河と屍の山は忘れ去られる 古きものは何も要らない 清き純粋なる流れにて全ての不浄を消し去らん! 忘酷ぼうこく紺碧こんぺき

 多くの神々は創造した世界を失敗と断じた時、わずかな生命に救いの手を伸ばし、それ以外をすべて水底に沈めて終わらせたという。これは世界の終焉と再生の一部の再演により発生する大洪水。

「遍く砕け 深く裂け 暗闇を覗け 亀裂の深奥にて眠るモノ ああ! 知るべし 覚悟せよ かの者もお前を覗くのだ 門を閉ざせ 橋を落とせ 道を砕け 奈落にて眠り続けよ! 外神睡地がいしんすいち奈落底ならくぞこ

 それは地の底に微睡む名付けてはならぬもの。見てはならぬものの居所へと通じる亀裂を大地に刻み、この世と交わってはならぬどこかへと放逐する大地の追放刑。

 国一つ滅ぼすのに有り余る威力を持った魔法が四つ、メルルによって行使され、山々を削り取り大地を均すほどの強風がはるか眼下へと吹き荒び、それに続いて山海を焼き尽くし世界を灰で埋め尽くす膨大な炎が放たれる。
 続いて魔王軍に襲い掛かったのは国一つ鎮めるのに留まらず、触れたものすべてを強制的に浄化してこの世から“流し消す”激流が降り注ぎ、そしてこの世ではないどこか異郷の地の底へと続く亀裂を作り出した後に閉ざす地殻変動を促す振動波。

 どれ一つをとっても禁呪扱い間違いなしの凄まじい威力と効果を持つ魔法ばかり。たとえ三つ防がれようと、どれか一つでも魔王軍に効果を及ぼせば、ヤーハームや魔六将とて無傷では済まず、三十万超の軍勢はことごとく死に絶えるだろう。
 メルルはたとえ魔王軍が相手でも、大量虐殺など出来る性格をしていない。たとえ力の開放による恍惚や快楽に溺れても、彼女の中で超えてはならぬ一戦として実行はされない。
 では、なぜ、メルルは大量虐殺を引き起こす威力の魔法を行使したのか? 答えは至って簡単で、四つすべてが通じるとは思っていなかったからだ。ザンダルザとトラウルーの実力から推測できるヤーハームの実力と、事前に備えられただろう時間を考えれば、これでは防がれるとメルルが判断を下すのは簡単だった。

 火灰壊世によって朱に染まる空を見ながら、クリスは感嘆の声を零した。

「アークウィッチという称号ではもう足りないくらいだな。それにしても派手な“狼煙”だ」

 そう、これは狼煙だ。魔王軍とアークレスト王国へこれから私達が戦いを挑む狼煙代わりに過ぎない。四つの魔法は瞬きする間もなく魔王軍へと襲い掛かり、それが突如として真っ二つに斬り裂かれるや、輪郭をぼやかせ、明確な形を失って溶け消えてしまう。
 あれだけの規模の魔法を斬り、術を崩壊させ、実態を得ていた魔法の効果そのものも斬り捨てたか。私達の瞳は地上でこちらに向けて大剣を振り上げた体勢を取る、魔族の青年を補足していた。魔王ヤーハーム。
 彼を見下ろしながら、クリスとドラミナの美貌がわずかに歪む。たった今、彼の成した行いを、自分なら出来るかと考えているのだろう。そしてそれは極めて困難か、あるいは不可能という答えが出たに違いない。

「来るぞ!」

 私の声をきっかけにクリスとドラミナが私に続いて、メルルの前へと飛び出す。ヤーハームはメルルの魔法を迎撃するだけでは終わらず、メルルへの反撃も放っていたのである。
 地上から凄まじい速度で飛来してきたのは、私達を丸々と飲み込むほど巨大な黒い斬撃だった。壁かはたまた津波を思わせる範囲で襲い来たそれは、ヤーハームからすれば挨拶を返した程度のものだったろう。

「ふむ!」

 私が竜爪剣で受け止め、

「せぇい!」

 クリスがエルスパーダとドラッドノートを全力で振るい、交差した斬撃が黒い斬撃を大きく四つに斬り分け、

「結構な挨拶をいただいたものですね」

 ドラミナが右手の長剣型のヴァルキュリオスと左手の長槍グロースグリアを振るい、斬り分けられた黒い斬撃を跡形もなく粉砕する。
 黒い斬撃によってかき乱された気流が私達の周囲で暴れる中、メルルが頬を紅潮させて嬉しそうに笑う。

「あははは、やっぱり、これくらいはやってもらわなくっちゃ、魔王なんて呼ばれないよね! あは、あははは、ドラン君、ベルン男爵、ドラミナさん、さあ、行こう! もう行こう、すぐ行こう!」

 はいはい。新しい遊び場に行きたくて仕方ない子供のようなメルルに呆れながら、私達はこちらを視認しているヤーハームとその周囲の魔六将達をめがけて、転移魔法を行使した。
 さあ、ムンドゥス・カーヌス擁する魔王軍との戦争を終わらせる時が来た!
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