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魔血女王
吸血
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城塞都市ゲルドーラは西方に住まうバンパイアへの恐怖や、近隣に出没する魔獣などの脅威への備えとかつての動乱期の名残から城壁が市街をぐるりと囲い、城壁には投石機やバリスタ、最新式の魔法砲台が設置されている。
ニグレル男爵領の首都として最大の人口を誇り、領内の経済、交通、流通、軍事とあらゆる面において中心地といえる。
またその中心部に位置する小高い丘には、男爵とその家族が住まうウォールエルン城が聳えている。
ゲルドーラには南北に領土を接する他国からの侵攻に備えて一千からの兵士達が常駐し、いずれも厳しい訓練を日々重ね、錬度の高さでは西方諸貴族の兵達の中でも一、二を争うともっぱらの噂だ。
赤い石材を積み上げた城壁が夕陽を浴びて燃えるような赤に染まるその姿から、赤の街とも呼ばれるこのゲルドーラには、突如として出現した動く死人達の脅威から逃れて来た男爵領の住人達が押し寄せている。
交通の要衝でもあり、膨大な物資の集積地でもあるゲルドーラは近隣の住人達を抱え込んでもなおまだ物資に余裕があり、商人達が食料品の買い占めなどを自粛している事もあって窮乏にまでは陥っていない。
だが一向に解決のめどが立たない死人達に対する恐怖と不安から、市街には暗澹たる空気が漂って薄まる事を知らない。
そんなゲルドーラに、黒衣のバンパイア、タンブル・ウィードが護りの剣として同道している避難民達は、道中で死者達からの襲撃を受けつつも死傷者なしでこの地に辿り着く事に成功した。
彼らを襲撃した死者達の物量と質を考えれば、百度同じ道程を踏もうとも百度とも避難民全員が動く死者の仲間入りを避けられぬものであったが、タンブル・ウィードの存在が彼らの命運をゲルドーラまで繋ぐ事を可能とした。
ゲルドーラへと続く主要街道の一つを進んでいる際に、ゲルドーラの巡回警備隊の一つと接触する事に成功したガランド達は、彼らと共にゲルドーラへと赴く事とし、ようやく見えた光明に避難民達の間にも久方ぶりの笑顔が浮かんでいる。
警備隊の騎士や兵士達はガランド達のような避難民を受け入れる事に慣れた様子で、現在のゲルドーラや近隣の他領の情報と確認されている死者達の情報を交換している。
もしゲルドーラで籠城戦を演じる事となった時、実際に戦場に立つ事になる彼らが戦う相手の情報は、いくらあっても足りないと言う事はあるまい。
ゲルドーラの軍部や領主達にも動く死者達の情報は伝わっているが、避難民達から聴き取れる情報はまちまちで、死者達のほとんどはもっとも下級のゾンビーであるという認識であるらしかった。
これはゲルドーラまで辿りつけた領民達が遭遇したのが、ゾンビーの小集団でありだからこそ命を長らえた為だ。
ゲルドーラに辿りつけなかった他の領民達はデスナイトやレッドボーンなど強力な死者達に遭遇し、尽く殺害されて彼らの仲間となってしまった為に、強力なアンデッド達の情報がゲルドーラまで伝わっていないのだ。
アルニやミルラ達からデスナイトをはじめとする強力な死者達の存在を聞かされた巡回警備隊の隊員達は、事態が自分達の想定をはるかに上回る厄介なものである事を知って険しい表情を浮かべている。
また巡回警備隊の隊員達の表情を険しく変えさせたのは、なにもデスナイト達の存在ばかりでは無い。
避難民達をここまで守り抜いた孤影の女剣士の存在もまた、彼らの心中に深い暗黒を蟠らせたのである。
かつてバンパイアの脅威に晒され、恐怖と憎悪と怒りと怨恨の歴史を持つ土地の人々にとって、例え自分達を守ると誓い実際にそうして見せたタンブル・ウィードであっても、やはり畏怖の対象である事には変わらない。
ましてやつい先ほど合流したばかりの巡回警備隊の隊員達なら尚更であろう。
巡回警備隊の隊員達にはアルニや避難民達がバンパイアの仲間入りをしていないか、精神を操られていないか、と疑っている節が見受けられる。
さて、ではそのタンブル・ウィードはと言えば、太陽が青空に浮かぶ時刻であるから馬車の中に引っ込んでおり、その御者台には家族の制止を振り切ったニックと探究心と学術的好奇心に突き動かされたラアクとが腰掛けている。
スレイプニル達は御者無しでも棺の中に居る主の意思に従って道を進んでおり、ニックとラアクは手綱を握ってもいない。
巡回警備隊の面々はバンパイアを恐れていないような二人の振る舞いに、なんとも言い難い表情を浮かべている。
バンパイアとは恐怖の代名詞。憎悪を募らせるべき存在。であるにも関わらず、そのバンパイアによって避難民達はここに至るまで守られ、懐いている子供までいるのはどういうわけか。
男爵領を襲っている奇禍はあのバンパイアが引き起こしているのではないか?
確たる証拠も無くそう疑ってしまうほどに、この国の人々にとってバンパイアとは恐るべき存在であったし、またそう思わせるだけの力をバンパイアという種族は産まれながらに備えている。
ただし御者台に腰掛けて大輪の笑顔の花を咲かせているニックと、白紙の紙束になにやら書きつけているラアクにとっては、タンブル・ウィードだけは例外であった。
「ねえねえタンブル・ウィード、そんでさ、タンブル・ウィードが好きな相手とはこれからどうするつもりなのさ?」
ほとんどのバンパイアは太陽が空に輝けば生理的に抗えぬ眠りの海に溺れるのだが、タンブル・ウィードはわずかな例外といえる稀有な個体で、この時刻でも意識ははっきりと覚醒していた。
ニックの問いに対して、棺の中のタンブル・ウィードが大気を震わせて返事を送る。
まるですぐ傍にタンブル・ウィードがいるかのように明瞭に声が聞こえ、たったそれだけでも本職の魔法使いがこの場に居たら驚嘆するだけの精緻極まる術式と技量であった。
「ニック、あなたは本当にその話ばかりを繰り返しますね。それよりも西の別の大陸に住む百の目と百の腕を持つ巨人、ヘカトンケイルの末裔の話はいかがですか?」
「ううん、それも悪くないけどやっぱりタンブル・ウィードの事が聞きたいな。そろそろゲルドーラに着くし、そうしたら今度こそさようならだろ? だったら今の内に聞きたい事を聞いとかねえと損だからね」
「まるで商人のような口ぶりをするものですね。感心すれば良いのか呆れれば良いのか」
タンブル・ウィードの声音で判断するならば、呆れの方が強い。
ラアクは友好的なバンパイアのタンブル・ウィードの話を聞く事に専念している様子で、ニックとタンブル・ウィードの会話を素知らぬ顔で一語一句漏らさず紙束に記している。
「どっちでもいいから、教えてってば。おれも将来タンブル・ウィードみたいに綺麗で強くて優しい嫁さんを貰いたいからね。
それにはタンブル・ウィードが惚れた相手を参考にするのが一番だろ?」
なるほど理に適っていると言えば適ってはいる。中々強かなニック少年である。
タンブル・ウィードは無言であったが、ラアクは筆を動かしつつ棺の中のタンブル・ウィードが溜息を吐いたような気がしてならなかった。
「取り敢えず私は今回の件が片付いたら故郷に戻り、亡くなった皆を弔います。
全てはその後です。それにニック、今回の件はまだ片付いていないのです。
ゲルドーラに着きそうだからと言って、あまり油断をしてはいけません。私も最後の最後まで細心の注意を払い、あなたやあなたの家族を守るつもりです」
「うん、ありがとう、タンブル・ウィード。でもそれはそれ、これはこれだとおれは思うんだよね」
どうやらニックを言いくるめて話の矛先を逸らすのは、失敗したようだ。
きっとタンブル・ウィードは苦虫を噛み潰した顔をしている事だろう、とラアクは思った。
ただラアクはそのタンブル・ウィードの表情を思い浮かべる事はしなかった。いや、出来なかったと言うべきだろう。
バンパイアの創造神たる月の女神の生き映しを名乗っても、誰からも異を唱える声が出ないほどの美貌は、人間の想像力の限界を軽々と超越しているのだから。
「で、で、どうなのさ?」
止まぬニックの追及に、タンブル・ウィードはたっぷりと間を置いてから答えた。
奇妙な事にタンブル・ウィードは色恋沙汰の問いに関して、極めて押しに弱くなる一面を持っていた。
「…………その相手とは私の用向きが済んだら再会の約束を交わしております。少なくとも私は皆の弔いが済めば、再び北の海を渡って彼を訪ねるつもりです」
北の大陸に住んでいる想い人の事を語るのを随分と渋っていた割に、いざ話し始めるとなると恋心の吐露が楽しいのか想い人の事を語れるのが嬉しいのか、タンブル・ウィードの声音はどこか弾んでいる様にニック達には聞こえた。
バンパイアも恋する気持ちは変わらないようですね、同族に対する精神の働きは人間とそう変わらないと言う記録は正しかったようです、とラアクは心の中でだけ呟く。
「ふうん、会ってからはどうするんだい。まずは再会を祝して抱き付いてぶちゅぶちゅやるのかい?」
そう言うとニックは唇を尖らせ、ぶちゅぶちゅと音を立てて見えない誰かと激しくキスする様な仕草をする。
タンブル・ウィードはここまであからさまな、というか下品な仕草を見るのは初めてだったのか今度は棺の中で絶句しているらしい。
貴種として育てられ、同じような身分の者としか接した事の無い者によく見られる反応だ。
「に、ニック、いくらなんでもそれははしたないでしょう。そのような事はいくらなんでも……」
「なんでえ、それ位してもいいじゃん。会いたくって仕方がないんだろ。だったらそれ位情熱的に行かなくっちゃ。
タンブル・ウィードとちょっと話しただけでも、タンブル・ウィードがどれだけその男の人の事が好きか分かるくらい好きなんだろ」
「そ、そんなに分かりやすいでしょうか?」
おや、とニックとラアクの眉根が少しだけ寄せられた。
タンブル・ウィードの声音からこれまで耳にした凛々しさや威厳、誇り高さは失われており、恋心を呆気なく指摘された事への動揺と不安に揺れている。
どんな詩人が一万年の時間を与えられたとしても、その美貌を一篇の詩にする事さえ出来ない美貌のバンパイアは、少なくとも想い人に関してだけは人並みらしい。
「分かりやすいよ。こうして顔を見てなくっても分かる位だからね。タンブル・ウィードが好きな人の話をする時は声が弾んでいるし、嬉しそうだもの」
「ふむぅ」
と思わず漏らしたらしいタンブル・ウィードの溜息に、ニックはうわ、可愛い、と心の底から思った。
この『ふむぅ』がタンブル・ウィードの想い人の口癖だと知ったなら、ニックのタンブル・ウィードに対する心象は更に可愛いの割合を広げる事だろう。
「まあ、タンブル・ウィードにそこまで高望みするのは厳しいみたいだけど、じゃあ相手に恋人とかはいないの? タンブル・ウィードが惚れる位なんだから、他の女の人も引っかかってそうだ」
「またそのような言い方をして。でも、そうですね。普段一緒に居る女性はいるようでしたが、まだ正式に恋人と言うわけではないようでした」
タンブル・ウィードの想い人の傍らには美しいラミアの少女がおり、想い人の方は彼女の事を深く信頼している様子で、ラミアの少女の方は想い人に対して恋慕の情を寄せているのが色恋に疎いタンブル・ウィードでもすぐに分かった。
想い人はまるで雲を掴むように捉えどころの無い人物であるが、あのラミアの少女のように心根が優しく器量の良い女性がいたら、何時恋仲になってもおかしくは無い。
ニックはおろかほとんど行動を共にしているスレイプニルにも明かしていない事であるが、タンブル・ウィードが棺に入っている間眠れずに悶々としている理由のほとんどは、想い人があのラミアの少女とこうしている間にも結ばれているのではないか、という不安に苛まれているからであった。
ガランドやニック達と出会ってその不安をひと時忘れていたのだが、この会話の所為で想い人がラミアの少女や同じ学院に通っている女学生達と結ばれているのではないか、という不安が蘇って来てしまった。
「ふうん。なあに、もしとっくに恋人になってたとしてもタンブル・ウィードならへーきだって。ちょっと猫なで声を出せばすぐに奪い取れるってもんさ」
「ニック! あなたのような子供がそんな事を言ってはいけません。そのような事を口にしては御両親に叱られますよ」
タンブル・ウィードはそのように窘めるが、辺境の子供でニック位の年齢ならこれ位は普通で、タンブル・ウィードの想い人も同じような下世話な話は涼しげな顔で口にするし、聞かされても何とも思わないだろう。
「へへん、そうは言うけどタンブル・ウィードは相手に恋人が出来たからって簡単に諦められるのかい? 自分の心に嘘を着くのはよくないぜ」
「それは、すでに相手がいると言うのなら私は身を引くだけです」
「ほら、それが嘘さ。絶対に諦められませんって言っている様な声を出してるぜ。
そうやって自分に嘘を突き続けていると、心によくないもやもやしたもんが溜まって、それが爆発してぐさっとやったりすんだよ」
うちの村でもそういう事があったよ、うんうん、とニックばかりかラアクまで感慨深げに頷いている様子から、どうやら本当に男女の痴情の縺れで刃傷沙汰が起きたらしい。
タンブル・ウィードはしばし口を閉ざした。ニックの言う事を自分に置き換えてみて、はたして自分が恋心を見て見ぬ振りをし続ける事に耐えられるか考えているのだろう。
いまだゾンビーの問題が解決していないにも拘らず、タンブル・ウィードは極めて私的ではあるが今後の人生を左右する重大な問題を再認識するに至った様であった。
このように巡回警備隊隊員達の複雑な感情と視線など露とも知らぬタンブル・ウィード達だけは、周囲の人々との間に凄まじい温度差が生じており、今が緊急事態である事を完全に忘れているかのようでさえある。
それからもタンブル・ウィードはニックにさんざか冷やかされたが、時にはそれなりに身になる話というか、認識を改める事もあって双方にとって身になる会話と言えただろう。
そうこうしている内にゲルドーラの街影を望める距離にまで到達し、巡回警備隊から離れたガランドが馬車へと近づいて来た。
ニックの次にタンブル・ウィードに助けられたにもかかわらず、その後にはバンパイアであるからとタンブル・ウィードを避けざるを得なかった事から、ガランドはタンブル・ウィードに大きく負い目を感じている。
馬車に近づいてきてタンブル・ウィードに話しかけるまでも、どう声を掛けたものかと迷う素振りを見せていた。
「うぉっほん、タンブル・ウィード」
「なにかご用ですか、騎士ガランド」
気まずさと緊張から身を固くするガランドに対し、タンブル・ウィードの声音は初めて会った頃と変わらぬものだった。
むしろかちこちと固まっているガランドの様子を面白がっているようだ。
「いや用というほどの事でも無いといえば無いのだが、おれ達がこうしてゲルドーラにまで辿りつけたのは、君の助けがあったからこそだ。
情けない話だがおれ達だけでは村人達をここまで守り切る事は出来なかっただろう。それに助力を乞いて置きながら随分な仕打ちもしてしまった。
今更だが謝っておきたくってな。本当にすまない事をした。この通り、謝る」
そう言って腰を深く折って頭を下げるガランドに、ふっと場の空気が和らぐ。
タンブル・ウィードは棺の中だが、表に出ていたら口元にうっすらと微笑くらいは浮かべていたかもしれない。
ガランドの殊勝な態度に真っ先に反応したのはニックだった。御者台の上で、へん、と一つ吐き捨ててから怒った調子でまくしたてる。
「まったくだよ。タンブル・ウィードがおれに雇われてくれたから良かったけどさ、タンブル・ウィードが臍を曲げてどっか行っちまったらどうする気だったんだい」
「それを言うなよ。だからこうして謝っているだろ」
「謝るのがゲルドーラにもう着くって時だから怒ってんだい。もう安心だからってそういう態度を取るのは卑怯だぜ」
ニックはどうやらまくし立てている間にどんどん腹が立ってきたらしく、ガランドに対する言葉に棘が増えて行く。
ガランドは自分でもニックの言う通りだと思っているから目くじらを立てる事はしないし、申し訳なさそうに大きな体を縮こませている。
「参ったな。ニックの言う通りだからなにも言い返せねえ」
ガランドに助け船を出したのはタンブル・ウィードであった。
「ニック、そこまでになさい。あなたが私の代わりに怒ってくれなくても良いのですよ。その心遣いは大変に嬉しいものですけれどね。
時に騎士ガランド、ニック達は速やかにゲルドーラに入る事が出来るのですか? 五十余名とはいえ、男爵殿はどのような差配をしていらっしゃるのか気になるのです」
「既に他の村落から避難してきた連中を受け入れているから、他の領民が避難してくる事を想定して備えをしてくださっているそうだ。
城壁近くになるが取り敢えず荷物を降ろせるくらいの土地は用意して貰えている。外で野宿するよりはマシだろうさ。いつまで続くかにもよるだろうが、当面は落ちつけそうだ」
「そうですか、ひとまず良かったと申し上げておきましょう。ただ今回の事件に対する調査は未だ進んではいないように見受けられますね」
「避難民の受け入れ態勢と調査隊の編成、それに他領との情報交換で忙殺されているらしい。
避難民からの話でゾンビーが大量に湧いているってんで警備隊の数を増やしているのと、聖職者を必ず一人は組み込んでいるらしいが、デスナイト級のアンデッドが出てきたら厳しいだろうな」
「ふむ」
「おれからも質問させてほしいが、タンブル・ウィードはどうするんだ。ゲルドーラに着いたらニックとの契約も無事完了って事だろう。
故郷があるっていう西に向かうなら、下手をすればゾンビー共の群れとかちあう事になるぞ」
ガランドの声にはタンブル・ウィードの身を案じる響きと、あわよくばタンブル・ウィードがゾンビー達の大量発生した原因を解決してはくれないか、という期待の響きとが混じっていた。
その事にガランド自身気付いており、あさましい自分勝手な心の動きに対して我がことながら嫌悪を覚えていた。
「何処に行こうともあのレッキマルなるアンデッドは私を追ってくる事でしょう。
それに今回の事態を引き起こしたのはリッチですが、中にはバンパイアが起こしたと思っている方もいるでしょう。
その誤解と汚名を晴らす為にも、私は私で今回の事態を解決する為の行動を取るつもりです」
タンブル・ウィードが独自に行動して今回の異常事態に立ち向かう、と発言したことにガランドやラアクは傍目にもはっきりと分かるほど大きく安堵する。
これまで目にしてきたタンブル・ウィードの戦闘能力を鑑みると、ひょっとするとゲルドーラの全戦力を上回るのではないか、とガランドは半ば本気で思っている。
そんなガランド達を、より正確に言えばタンブル・ウィードの乗っている馬車をミルラだけは憎悪の炎が激しく揺らめく瞳で見ていた。
*
ガランドや避難民達はすんなりとゲルドーラの中へと入る事が出来たが、タンブル・ウィードはやはりバンパイアである事から市街に入る事は許されなかった。
バンパイアの同道を聞かされたゲルドーラの警備兵達がぞろぞろと詰所や城壁内部から出てきて、城門からやや離れた所で停車している馬車を遠巻きに見る、という構図が出来上がる事となった。
タンブル・ウィードはニック達が城壁内部に入ったのを確認したら、すぐに西へ向かうつもりであったが、ガランドとアルニに乞われて少しばかりその場で待機していた。
ここまで自分達を護衛してくれたタンブル・ウィードに対し、流石にニックからの報酬だけでは申し訳がない、と二人が思い至り、ゲルドーラに居る上司に掛け合って報酬を用意すると申し出た為である。
気にしなくても良い事を気にするとは律儀な事ですね、とタンブル・ウィードは感心しつつガランドからの提案を受け入れて、こうしてゲルドーラの外で待つ事としたのである。
ゲルドーラに到着したのは正午に差し掛かる頃だったが、ガランドとアルニが馬に乗って再び姿を見せてタンブル・ウィードを訪ねたのは、夕闇が空を染めつつある時刻――すなわちバンパイアの世界となる時刻であった。
馬車とスレイプニル達を遠巻きに監視していた兵士達は、バンパイアが自由に行動できる時刻になった事で、全員が歴史の語るバンパイアの恐怖から顔色を青くしている始末。
そんな状態の兵士達をかき分けて、ガランドとアルニが馬に乗り明らかに位の高いと分かる騎士達を引き連れてタンブル・ウィードを訪ねた。
ガランド達の来訪を察知したタンブル・ウィードは、いつもの鍔の広い帽子を被り、黒いマントを纏った人型の闇のような出で立ちで馬車の外に出てガランド達を迎えた。
既に何度もタンブル・ウィードの美貌に気絶した経験を持つガランドとアルニは、タンブル・ウィードが音も無く馬車から降り立った瞬間に目線を伏せて、美の衝撃に意識を刈り取られるのを防ぐ。
その代わりガランド達が連れて来た騎士達はタンブル・ウィードの顔を見た瞬間に馬から転げ落ちそうになったり、その場で顎の関節が外れたのかと言う位に大きく口を開いたりしてしまう。
だが彼らの蕩け切った意識を取り戻させたのもまたタンブル・ウィードであった。目の前に立つ女性は美しい。美しすぎる。
人間にはあり得ない位に美しいのは、人間ではないからだ。そう、目の前の美女はバンパイアなのだ。人間の血を吸って血を吸う化け物へと変える恐ろしいバンパイアなのだ。
その認識が彼らの精神を戦慄させ、恐怖と共に正気を取り戻させた。
「タンブル・ウィード、こちらは騎士団長のラッセル・ガーンズバック卿」
ガランドの紹介に応じ、この場で最も位が高いと思しい騎士が進み出てから下馬し、タンブル・ウィードに軽く会釈をした。
他の騎士達もラッセルに倣って馬から降りたが、ほとんどが上手く行かず地面に転げ落ちる。
タンブル・ウィードの顔を一目見ただけで精神が熱せられたチーズみたいに蕩けてしまい、まともに足腰を動かす事も出来なくなっているのだ。
ラッセルは五十歳に届こうかと言う苦み走った男性で、陽に焼けた肌に色褪せた赤毛が良く似合い、口元を覆う髭は綺麗に整えられている。
ラアクに負けず劣らずの巨漢で、威厳漂うその姿から年齢による体力の衰えはまるで感じられない。
その顔にはバンパイアであるタンブル・ウィードへの恐怖と忌避の念がわずかに滲んではいるが、それを精神の奥底に押し込めるだけの意思力と分別はあるようだった。
ほかの騎士達がまだタンブル・ウィードの美貌にぼうっとしている中で、ラッセルだけは意思をはっきりとさせている。
「ふむ、私がタンブル・ウィードですが、私になにか? 早々に立ち去れと言うのならばすぐにでもこの場を出立する用意は出来ておりますよ」
ニックに挨拶だけはしておきたかったですね、と心中で呟くタンブル・ウィードに、ラッセルは彼自身あまり納得していない様子でこう告げた。
「貴公の働きによって我らの領民が無事にこのゲルドーラまで辿り着く事が出来た。ついてはその働きに対し、御館様が一言礼を言いたいと仰せになられた。
異例な事ではあるが貴公にはウォールエルン城まで同道願いたい」
ラッセルからの申し出に、ふむ、とタンブル・ウィードは呟いた。
ガランド達が報酬の支払いを申し出た時にも意外に思ったが、よもや男爵が忌まわしきバンパイアを自分の懐にまで招くとは思いもしなかったからである。
あるいは自分の城まで招いて油断させ、兵士達で取り囲んでタンブル・ウィードを灰にしてしまうつもりなのかもしれない。
「男爵殿の申し出は確かに承りましたが、あなた方は納得していない様子ですね。ガーンズバック卿」
「私は御館様にお仕えする身。あの方のお考えがいかなものであれそれに従う事こそ、騎士の務めと心得ているつもりだ」
「ふむ、それもまた忠義の道の一つ。分かりました。この地を治める御方からのお招きです。これに応じねば非礼となりましょう。
ところでこの衣服のままでも良いのですか? 男爵殿に拝謁する栄を賜る以上、必要があれば着替えて参りますが……」
「いや、御館様はそのような事を気になさる方では無いし、今回の事は内密な話ゆえそのままで結構」
「ならばこのまま参上いたしましょう。案内をよろしくお願いします、ガーンズバック卿」
タンブル・ウィードの言葉に、ラッセルは思わず主にするかのように返答しそうになる自分を慌てて制したが、他の騎士の何人かは反射的に頭を垂れてしまっている。
目の前の妖艶なる美女はおぞましき吸血鬼である筈なのに、その認識を忘れさせるほどの威厳と風格を備えているのだった。
タンブル・ウィードは腰の長剣も帽子もそのままに、スレイプニルの一頭に跨るとラッセルらの先導に従い、馬車はこの場に置いてゲルドーラの中へと足を踏み入れた。
左右をガランドとアルニが固め、前にラッセル、背後にはラッセル配下であろう騎士達が陣取っており、タンブル・ウィードが何か不審な行動を取った時にはすぐに剣を抜いて襲いかかるのに適切な距離を保っている。
「ここまで用心するのならば、私を招かぬ方が良いのでは、とも思いますね」
ゲルドーラ市街に入り、城まで続く中央通りを進んでいると、不意にタンブル・ウィードがからかうように言った。
「我らから招いておいての不作法、どうか容赦願いたい」
「気にしてはおりません。こうなるだけの事を過去に私の同胞達は行ったのですから」
ラッセルは生真面目な問いを返すが、それでも決して振り返ろうとはせず前だけを見て進んでいる。
もう一度タンブル・ウィードの顔を見てしまったら、今度こそ意識を保つのが難しいと考えているのだろうか。
既に夕闇が世界を飲み込む時刻である為、中央通りに住人の姿はさほど見受けられない。
夜の蝶である娼婦や男娼達が賑わう歓楽街は通りをいくつも挟んだ区画にあるし、旅人や商人達用の宿屋や食事どころも中央通りとは別の区画に設けられている。
中央通りに軒を連ねているのは、ゲルドーラの住人達の家々か彼らを相手とする商人達の店で、この時間ともなれば各々の家に帰るか店じまいを始める頃だ。
それでもまだ通りを行き交っていた人々は、領主の側近中の側近であるラッセルの姿に気付くと左右に退いて、次にこの一団の中心に居るタンブル・ウィードに気付くと、その場に立ち尽くして夢の世界にいるかのように恍惚と立ち尽くす。
この世にあり得る筈の無い美貌を前に、彼らの心は自分達が現実には居ないのだと認識し、そう行動させたのだ。
世界に夕闇が差し迫ったのは、あの黒衣の美女を隠してしまう為ではないだろうか。
他の誰の目にもその顔を、髪を、瞳を、鼻を、唇を晒してはならないと、世界がただ自分のものにだけしようと闇の手を伸ばして包み隠そうとしているのではないか。
だがその行いの何と無為な事。タンブル・ウィードの美貌は深淵の闇に飲まれようと、おのずと放つ輝きによって闇を払い世界に燦然とその存在を主張しているのだから。
タンブル・ウィードとその周囲だけは別の世界と化しているかのような状況の中で、タンブル・ウィードはふと右に位置しているガランドに声を掛けた。
ガランドは恩人とはいえバンパイアをゲルドーラに招き入れてしまった事や、本来雲の上の存在である騎士団長のすぐ傍に居る事に緊張していたが、タンブル・ウィードに声を掛けられて大仰な位に体を震わせる。
「騎士ガランド、質問をしてもよろしいですか」
「お、おう。なんだ、タンブル・ウィード」
「いえ、ニグレル男爵という方がどのような御仁か教えて頂こうかと思いまして。人となりくらいは事前に知っていても良いでしょう」
「ん、そうだな。おれも男爵様のお顔を遠目に見た事がある位だし、大したことは知らないぞ」
「それで構いませんよ。どのような統治者であるかはこの街並みやガーンズバック卿を見れば、おおよそは分かりますから」
「そういうものか?」
「統治者の人となりは治める地と仕える者達に如実に反映されるものです」
なにやら実感のあるタンブル・ウィードの言葉に、ガランドはそういうものかと不思議と納得する。
「現当主のガトー様は三年前に先代当主のラル様より家督をお継ぎになられたばかりだが、前々からの家臣の方々がおられるから、恙無く政をしておられる。
今年で三十二歳になられる方で、奥方様とご子息が二人。兄弟や姉妹はいないな。御気性は思慮深く、周囲の意見に良く耳を傾けられる方と聞いている」
家臣としては悪口を言う事は出来まいが、ガランドの顔を見て本当のことしか言っていないとタンブル・ウィードは判断した。
もっとも、ガランドは直接男爵親子に仕えている立場ではないから、彼にしても他人から聞いた話でしかないだろう。
「では先代のラルという方は? 御子息がその年齢ならまだまだお元気でしょう」
ガランドとアルニはラッセルや他の騎士達の顔色を伺ったが、今の所は咎められたり窘められたりする様子は無い。
「そうだなあ。とても頭の回転の速い方とは聞いているが、おれの親父や祖父も顔を見た事があるって程度だし、この街に住む人々の方がおれよりもよっぽど詳しいだろうね。
ただ御二方がこのニグレル領の御領主であらせられる事を、おれもそして領民も皆が誇りに思っている。おれはそう信じている」
なるほど、と呟いたきり、タンブル・ウィードはそれ以上口を開く事はせずに、黙々と城への道を進み続けた。
市街の中心部にある小高い丘に建てられた城は、華美な装飾などはほとんど見受けられず、かつての他国の兵や魔物、バンパイアとの戦いの歴史を残す無骨な造りをしていた。
五角形の形をした城の正面城門に居並ぶ衛兵たちは、この地の人々にとって騎士団長達が迎えに行った存在が如何なる恐怖であるかを物語っていた。
「盛大なお出迎えですね。こうも続くといささか飽きてしまいますが」
「その点については諦めて貰うしかないね。正直私だってまだあなたの事が恐ろしいもの」
遠慮の無いアルニの発言に、タンブル・ウィードは微苦笑を零す。
こういった対応こそが人間の常識的な行動であり、タンブル・ウィードの想い人が初めて彼女と会って以降の言動こそ非常識だったのだと、改めて思い知らされた気分だった。
タンブル・ウィードは、そんな恐ろしい相手を男爵殿に会わせて良いのですか、と言おうとしたが、例え冗談にしても冗談と受け取って貰えそうになかったので口を噤んだ。
もちろんタンブル・ウィードの美貌を目にした衛兵達が、伝説に語られるバンパイアの恐怖を忘れて、その場に尽く腰を抜かして尻餅を着くか槍を手落としたのは改めて語るまでも無い。
そして城内でタンブル・ウィードとすれ違う兵士達が、一人の例外も無く城門の衛兵達と同じ目にあって行くのも、自然の摂理のように当然の事であった。
もしタンブル・ウィードが去った後に他領や他国の兵士達が襲い掛かってきたら、城を守る兵士のほとんどが役に立たず、極僅かな戦死者と引き換えに落城せしめたかもしれない。
タンブル・ウィードが案内される通路は予め打ち合わされていたらしく、兵士以外に出入りの商人や文官、使用人の類とすれ違う事は無かった。
戦う力を持たない者達は、自分達の城に本来居るべきでない異物が混じっている事に怯えながら、城のどこかに閉じこもっている事だろう。
タンブル・ウィードが通されたのは城主の間ではなく、客間の一つと思しい部屋だった。
必要最低限の調度品の他は飾りらしい飾りも無く、なるほど城の造り同様に実用性を重視した造りとなっている。
隠し扉や床下の空洞など兵士を潜ませておくのにちょうど良い広さとなっており、実際にタンブル・ウィードに備えた兵士や神官などが配置されているのを、タンブル・ウィードは室外から察知していた。
扉の前には当然のことながら衛兵がいた。城門に居た連中よりも装備の質が良く、甲冑を押し上げる肉体もなんとも逞しい。
男爵とその家族を守る為に選び抜かれた精鋭だろう。タンブル・ウィードの顔を見て蕩けそうになるのを、少し体を揺らしただけで堪えたのは称賛に値する。
ラッセルが入室の許可を室内の男爵に求め、家宰か家臣の誰かを通じて許可が下りるのを待ってから、タンブル・ウィードは客間へと足を踏み入れた。
ガランドとアルニは下級騎士と言う身分から入室する事は叶わなかったが、タンブル・ウィードの帰り道に同行する為、別室にて待つ事となった。
「タンブル・ウィード、なんて言うのか……」
別れ際、何か言いにくそうにするガランドに、タンブル・ウィードは分かっていると頷き返した。
「男爵殿に危害を加えるような真似はいたしませんよ」
「違う、そうじゃあない。おれはタンブル・ウィードには感謝しているんだ。こうして無事にここまで来られたのも、生きていられるのもタンブル・ウィードが居てくれたからだ。
なのに、タンブル・ウィードを擁護してやることもできない。それが申し訳なくって堪んないんだよ」
元々ガランドの事を性根のまっすぐな青年である、と感じていたタンブル・ウィードではあったが、ここに至っての言葉には思いがけず口角を小さく上げる。
タンブル・ウィードの顔に浮かび上がっていたのは、柔和な笑み以外の何物でも無かった。
「ありがとう、騎士ガランド。どうかその心をお忘れなく。さすれば貴方は良き騎士となりましょう」
タンブル・ウィードがこの時に浮かべた笑みは生涯ガランドの心から消える事は無かった。
ガランドが思わず目頭を熱くしている間にタンブル・ウィードは、客間の中へと消えていった。
その場に立ち尽くすガランドの背をアルニは軽く叩き、わざと茶化すように言う。
「惚れた?」
「馬鹿、んなわけあるか」
「またすぐに彼女を城壁まで送って行くんだから、気を落とすなって」
ガランドは気を遣いすぎる所のある同僚に、うるせえ、と小さく言うだけであった。
二人の騎士が用意された別室に向かった頃、タンブル・ウィードはニグレル領当代当主ガトー、そして前当主ラルと思しい人物と対面していた。
客間の中央に置かれた長テーブルに腰かけた二人の男の内、若い方がニグレル男爵として老人の方は先代当主のラルだろうか。
ガトーの傍らにラッセルが控え、他の騎士達も男爵親子を庇う位置取りをしている。
全員が全員とも、命を賭してでもタンブル・ウィードから男爵親子を守る覚悟を決めている様であった。
初対面の人間がタンブル・ウィードを相手に正気を維持し続ける事は、極めて難しい事ではあったが、男爵親子はかろうじて正気を維持し続ける事に成功している。
タンブル・ウィードは帽子を取り、男爵親子に軽く会釈をした。
「お初にお目に掛ります。私がタンブル・ウィードです。ニグレル男爵閣下でいらっしゃる?」
タンブル・ウィードの予想通りに若い方の男が椅子から立ち上がる。
「さよう、私がガトー・ニグレル。こちらは我が父ラル・ニグレルだ。タンブル・ウィード殿、まずは腰を落ち着かれてから話をするとしよう」
タンブル・ウィードは右手に帽子を持ち、左手に鞘ごと腰から外して騎士の一人に愛用の長剣を預ける。
自分に敵意が無い事を示す為の行動であるが、バンパイアが素手でも人間を解体出来る事を考えると、あまり意味は無いかもしれない。
タンブル・ウィードが椅子に腰かけるのを待ってからガトーが両手の指を組み、口を開いた。
「タンブル・ウィード殿、我らの民をこのゲルドーラまで守って来てくれた事にまずは感謝を」
「私が自らの意思でした事は最初の事だけ。後はニックと言う少年に雇われたから、その約束に従ったまでの事です。
もし称賛を受けるとしたならば、私ではなくニックこそ受けるに相応しいでしょう」
覚えておこう、とガトーが頷き話を続け始める。
「騎士ガランドからここに至るまでの道程については報告を受け取っている。
そこでこのままでは後手に回ると判断し、今回の事態に対し貴殿の知識を借り受けたく、この場に招いたのだ」
「推測を交えての話となりますが、それでよろしければお話いたしましょう」
タンブル・ウィードが男爵達に告げたのは、主に敵が極めて強力なリッチによって統率・創造されたアンデッドの軍団である事と、その目的やリッチの所在は不明である事、ただしニックの祖母などから聞いた話からおおよその居所は把握している事の三点であった。
男爵達がタンブル・ウィードの言う事をどこまで信用するかまでは不明であったが、まったく何も知らないよりはましな情報を与えたのは間違いない。
タンブル・ウィードが己の知り得る情報を伝え終えた頃、それまで沈黙を守ってタンブル・ウィードと男爵の話を聞いていたラルが不意に顔を上げ、じいっとタンブル・ウィードの顔を見つめる。
少なからず皺は刻まれているが、まだまだ活力に満ちた初老の前男爵は、熱に浮かされたように期待を秘めた声でタンブル・ウィードに問うた。
「ひとつ、ひとつだけ伺わせていただきたい。タンブル・ウィード殿」
「なにか?」
「私がまだ幼い頃、この国はひどい飢饉に見舞われた事がありました。その時、救いの手を伸ばしてくれたのはかつて我らを苛んだ西のバンパイアの国の内、とある国の女王陛下でした。
再び鮮血の歴史が繰り返されるのかと慄く我らに西の彼方より訪れたその方は、我らに慈愛の言葉と共に飢えを凌げるだけの食糧をお与え下さり、多くの民が命を救われました。
救われた記憶は憎悪の歴史に塗りこめられ、多くの者達が今や忘恩の徒となり怨恨に捕らわれておりますが、私はその時の恩を忘れる事は出来なかった。
なぜならガトーの祖父であり、私の父であった先々代当主と共にかの国の女王の御尊顔を拝謁したその時の記憶が、五十年経った今でも色褪せることなく私の心にあるのです」
まるで夢見るように、あるいは初恋の熱に浮かされるようにラルがタンブル・ウィードへと向ける視線と言葉に、ガトーやラッセルをはじめこの部屋に居た者達はタンブル・ウィードが何者であるか、という事に思い至りまさかという表情を浮かべはじめた。
タンブル・ウィードの返答いかんによっては、彼らの心に嵐が吹き荒れるかもしれぬ瞬間の訪れまでは、しばしの間を要した。
「ラル殿の言われるバンパイアの女王がどのような方であるか、私には分かりません。
ですがもしその方がこのゲルドーラを訪れていたなら、例えバンパイアへの怨嗟が晴れてはおらずとも、人々の活気に満ちたこの街を見れば、あの時援助の手を伸ばした事は間違いでは無かったと言われる事でしょう」
「おお、陛下。勿体なきお言葉にございます」
感涙の滴を零すラルに、タンブル・ウィードは微笑で応えた。
「その言葉は私が受け取るべきではありませんよ、ラル殿。私がこれ以上お話すべき事はここには無いようです。これにてお暇させて頂きましょう。
どうか私の事はお忘れください。私があなた方に危害を加える事はいたしませんし、再びこの地を訪れる事も無いでしょうから。私の剣を」
「は、はい」
入室の際にタンブル・ウィードから長剣を預かった騎士が、先ほどまでとはまた異なる畏敬の念を込めた眼差しと共にタンブル・ウィードに長剣を返した。
「ありがとう」
短く礼の言葉を返しながら長剣を腰に差し、鍔の広い帽子を被り直すタンブル・ウィードの姿を、客間の誰もがそれこそ隠し扉や床下に潜んでいた者達に至るまでが入室する前とはまるで別人を見るかのような眼差しを向けていた。
タンブル・ウィードが客間を退出する寸前、背を向けたまま男爵達に忠告を述べた。
「これは余計なことかもしれませんが、既にこの世にバンパイア始祖六家は絶えました。西のバンパイア諸国は更なる戦乱の時代を迎える事でしょう。
今回の死者の騒乱に続いて落ちつく暇もないでしょうが、備える事を決して怠らぬように老婆心ながら申し上げます。それでは」
最後まで振り返る事も無く退出したタンブル・ウィードの背に、ラル、それに続いてガトーとラッセル達が深く頭を垂れた。
タンブル・ウィードは別室で待機していたガランドとアルニと合流して城を出た後、一度ニックに別れの言葉を告げようと彼らが宛がわれた区画へ足を向ける。
開けた土地に取り敢えずの仮住まいとして掘立小屋や天幕が建てられて、そこで避難民達が夕餉の支度を始めていた。
ガランドやタンブル・ウィードの姿に気付いた人々は、はっと顔を上げて注視したがタンブル・ウィードはそれに取り合わず、ニックの姿を探してほどなく見つける。
「あ、タンブル・ウィード」
ニックは支給された薪を取りに出ていたらしく、両手に縄で束ねられた薪を抱えていた。
タンブル・ウィードの姿に気付いたニックは、にこにことすっかり親しい者へと向ける笑みを浮かべてよたよたと近づいてくる。
「大変そうですね、ニック」
「これ位なんて事も無いさ。おれより大変な人達がたくさんいるんだからね。文句なんて言っても仕方ないよ」
「相変わらず年の割には達観していると言うか、変わった子です」
「苦労しているからね。でもタンブル・ウィードがここに来たって事は、そろそろ行くのかい?」
「ええ。ここならあなた達も無事に過ごす事が出来るでしょう。私は故郷へ戻ります。その過程で出来得る限りの事もしますよ」
出来得る限りとは言ったが、すでにタンブル・ウィードは今回の事態を引き起こしたというリッチと戦う決意を固めていた。
ニックは薪束を足元に置き、少しだけ寂しそうに笑う。
「そっか。おれ、タンブル・ウィードに会えてよかったよ。タンブル・ウィードみたいな人にはもう二度と会えないだろうなあ」
「私もニックに会えてよかった。人間の事がもっと好きになりましたから」
「何言ってんだい。タンブル・ウィードが好きなのは片思いの男の人だろ? おれはいつか、その相手よりももっといい男になって、タンブル・ウィードを悔しがらせてやる!」
思わぬニックの言葉に、タンブル・ウィードは珍しい事にきょとんとした表情を浮かべてから、柔らかく笑んでおもむろに帽子を取るとそれをニックの頭に被せた。
「十年後が楽しみですね。ニック、あなたは勇気があってそして優しい男の子です。
勇気と優しさの両方を持っていると言う事はとても素晴らしい事。勇気と優しさを失わないでくださいね」
「うん!」
黒薔薇のコサージュが着いた帽子を被ったまま、ニックは大輪の笑みと共にタンブル・ウィードに頷き返すのだった。
こうして少年とバンパイアとは別れの時を迎え、ガランドとアルニとも城門で別れの挨拶を交わした。
「あいつは将来大物になるぜ、タンブル・ウィード」
我が事のように嬉しそうにガランドが言えば、タンブル・ウィードも同じように嬉しそうに首を縦に振る。
「ええ。あの子を守れた事は私にとって誇りといえましょう。それにあなたの言う通り良き青年に成長すると確信しています」
「恋の力って奴は馬鹿に出来たもんじゃないからな」
ガランドの言葉はタンブル・ウィードにとっても共感できる事であり、ええ、と力強く頷く。彼女自身、日々それを体感している最中なのだから。
「タンブル・ウィード、改めて礼を言うよ。ここまで守って貰った事をさ。本来ならおれ達が守るべき立場なんだが……」
「それを言われるとおれ達全員がタンブル・ウィードに頭が上がらなくなるねえ」
「困った時はお互い様と言いましょう。私は私の信条に従ったまでの事。騎士ガランド、騎士アルニ、ニックとこの街に住まう方々の事、必ずや守るのですよ」
「言われるまでもない。今度こそ、自分達の力で守って見せる」
「騎士の名誉に誓って」
馬上のタンブル・ウィードに対し、決意で固めた表情で誓う二人に、当のタンブル・ウィードは安心したと言う代わりに頷いて見せる。
馬上の美女の眼差しを受けて、二人の騎士はかつてない誇りと決意とが胸に湧きおこるのを感じた。まるで崇敬する偉大なる王に信頼を寄せられた騎士のような心情であった。
「それでは、さようなら。騎士ガランド、騎士アルニ」
馬首を翻して去りゆくタンブル・ウィードの背を、二人の騎士は長い事見送り続けた。
タンブル・ウィードはニックやガランド、アルニとの別れの挨拶を済ませた以上は、早急にゲルドーラを離れ、周辺のゾンビー達を殲滅しつつ元凶であるリッチを探し当ててこれを討つつもりでいた。
高位のゾンビーを倒し、その死肉を動かす術式を解析して逆探知すればその居場所を探し出す事は、タンブル・ウィードにとって決して難しい事では無い。
迅速に探し出してこのような事態を引き起こした理由次第では、存在の痕跡一片と残さずにこの世から消滅させるつもりのタンブル・ウィードであったが、それよりも前に馬車の前に立つ小柄な人影と決着をつけねばならぬようであった。
「ミルラですか。別れの挨拶をしに来てくれたわけでは無いようですね」
全身から殺気と闘志の見えざる炎を噴きだすミルラを前に、タンブル・ウィードはどこか悲しげに呟いて愛馬から降りた。
スレイプニルは主に敵意を向ける相手に闘志をむき出しにしたが、タンブル・ウィードに首筋を撫でられると大人しくなり、この場を主に任せた。
ミルラの決断はバンパイアを相手に挑むには最悪の時刻だが、はたして勝算あっての事か。それともタンブル・ウィードに討たれる覚悟でこの場に立っているものか……。
「いいえ、別れの挨拶をしに来たのよ。吸血鬼」
凍えた声で告げるミルラの右手にはいつもとは違う大ぶりの銀のナイフが握られており、バンパイアの不死性を大きく減衰させる数少ない武器の調達に成功したようであった。
「私は約束通り誰の血を吸う事もしませんでした。
貴女が今、私に殺意を向ける理由は、私が貴女の人生を狂わせた吸血鬼と同じ種族だからですか? 私は貴女の血を吸った吸血鬼ではありませんよ」
ミルラの返答は言葉では無かった。だらりと下げていた左手が霞むや、タンブル・ウィードへと向けて三本のダートが投じられる。
顔面に集中したダートを、タンブル・ウィードは流石に首を傾けるだけで避ける。
タンブル・ウィードの視線は変わらずミルラを見つめていて、そこにある労わりと憐みの色がミルラの神経を逆なでする。
タンブル・ウィードへと駆けだしたミルラは、次いで腰のベルトに括りつけていた小さな壺を投じた。
油紙の蓋がされそこから火の着いた導火線が伸びている。
ミルラ手製の火炎壺はタンブル・ウィードに当たる直前で着火し、黒衣のバンパイアを炎が丸々飲み込もうと広がったが、それもタンブル・ウィードが左手でマントを翻すやそれだけで無数の火の粉へと散ってゆく。
火炎によって隠されたミルラの姿は、大胆な事にタンブル・ウィードの正面にあった。
タンブル・ウィードの翻したマントの裾に触れるぎりぎりの距離で一旦足を止めていて、火炎が散るのに合わせて撓めた筋力を爆発させる。
タンブル・ウィードが散らした火炎を浴びて、ミルラの髪の毛や頬、瞼が焼ける匂いと音を立てるが、それもすぐさま再生し跡形もなく火傷の痕一つ残らない。
かつてバンパイアによって血を吸われ、その相手を滅ぼしながらも呪いの解けなかったミルラは中途半端に肉体がバンパイアと化している。
本来のバンパイアには劣るものの、この程度の傷なら瞬時に再生するのだった。
そんな肉体の脚力の爆発に伴う銀のナイフの刺突は、ミルラの全霊が込められている事も相まって本来のバンパイアにも引けを取るまい。
タンブル・ウィードの豊かな起伏を描く左胸を狙って突き出したナイフが確かに肉を貫く感触に、しかしミルラの表情は失態を理解した色に染まる。
ミルラが必殺を期して突き出したナイフは、タンブル・ウィードの左掌を貫いた所で止められていたのである。
「なにより憎いのは自分自身ですか、ミルラ」
左手を貫かれ、命を狙われたと言うのにも関わらず自分を憐れむタンブル・ウィードに、ミルラは頭に血が昇るのを感じた。氷水のように冷たいバンパイアと化した血が。
「そうよ、そうよ! あたしが血を吸われたせいで仲間はあいつと戦わなければならなくなった。
その所為で皆死んだ。皆、死んじゃったの! あたしがドジを踏まなければ皆は死なずに済んだのに!
生まれつき吸血鬼のあんたには分からないでしょうね。自分が別の生き物に変えられる恐怖なんてさ。
さっきまであったかかった身体と血が死んだみたいに冷たくなって、内臓が全部氷に変えられたんじゃないかって位に寒い。
あんた達吸血鬼は体が冷たいだけじゃないの。魂も心も冷たいから、こんな風になるのよ。だから他の生き物をこんなひどい目に合わせる事が出来るんだわ。
そして、あたしもそんな醜い生き物に変えられてしまう。だから決めたのよ、いつか誰かに滅ぼされるまで、吸血鬼を見つけたら片っ端から滅ぼしてやるって! いい考えでしょう? 吸血鬼を滅ぼすには吸血鬼の力を使うのが一番だわ」
ミルラはナイフを引き戻そうとしたがタンブル・ウィードの左手を貫いた銀の刃は、引く押すも叶わずぴくりとも動かない。
いや、それどころかバンパイアの肉体から不死の力を奪う筈の銀の刃が、一向にその効力を発揮しようとしないではないか。
「どうして? 銀の刃なのに」
「確かに銀は我らに有効な手立ての一つですが、私の存在を脅かすには至りません。ただそれだけの事。
ミルラ、自身を憎むのはそれだけでなく、自分を裁く事の出来ない自分がなによりの理由なのでしょう」
そうまで吸血鬼を憎み、吸血鬼たる自分を憎むのならば、自分を裁く選択肢もあるだろう。だがそれをしないと言う事は、ミルラに自らの命を断つ勇気が無いという事なのだ。
「わ、私の事を知った風な口を聞いて!」
ミルラが空いている左手を腰に差していた木の杭へと伸ばす。だがそれよりも早くタンブル・ウィードの右手が動いた。
タンブル・ウィードはミルラの首筋を掴むやミルラが抵抗する間もなく衣服の襟を引き千切り、首筋の吸血痕を月光の下に暴き立てる。
「な、なにを!?」
ミルラがさっと顔色を青くして抵抗しようとした時、正面からタンブル・ウィードと視線が交錯し、途端に指先から舌の付け根に至るまでがぴくりとも動かなくなる。
バンパイアの持つ催眠眼が、ミルラの肉体の支配権を奪い取ったのだ。
ミルラは目の前に立つ存在がバンパイアである事から、滅ぼされる以上にミルラにとって最悪の可能性を思い浮かべた。
「お、おま……え、あたしの……」
ミルラは見た。爛々と輝くタンブル・ウィードの赤い瞳を。月光さえも赤く染めて輝く忌むべき、しかし美しいと魂と共に吐露してしまいそうになる瞳であった。
「私とて夜の眷属のはしくれ。血への渇望が無いわけではないのです。
ミルラ、バンパイアに血を吸われた犠牲者が他のバンパイアに血を吸われたらどうなるか知っていますか?」
「あ、か、止め……」
「自分で確かめなさい」
かつて一度だけ味わった恐怖と痛みとそして快楽とが首筋を貫き、ミルラの意識は暗黒の奈落へと落ちて行った
ニグレル男爵領の首都として最大の人口を誇り、領内の経済、交通、流通、軍事とあらゆる面において中心地といえる。
またその中心部に位置する小高い丘には、男爵とその家族が住まうウォールエルン城が聳えている。
ゲルドーラには南北に領土を接する他国からの侵攻に備えて一千からの兵士達が常駐し、いずれも厳しい訓練を日々重ね、錬度の高さでは西方諸貴族の兵達の中でも一、二を争うともっぱらの噂だ。
赤い石材を積み上げた城壁が夕陽を浴びて燃えるような赤に染まるその姿から、赤の街とも呼ばれるこのゲルドーラには、突如として出現した動く死人達の脅威から逃れて来た男爵領の住人達が押し寄せている。
交通の要衝でもあり、膨大な物資の集積地でもあるゲルドーラは近隣の住人達を抱え込んでもなおまだ物資に余裕があり、商人達が食料品の買い占めなどを自粛している事もあって窮乏にまでは陥っていない。
だが一向に解決のめどが立たない死人達に対する恐怖と不安から、市街には暗澹たる空気が漂って薄まる事を知らない。
そんなゲルドーラに、黒衣のバンパイア、タンブル・ウィードが護りの剣として同道している避難民達は、道中で死者達からの襲撃を受けつつも死傷者なしでこの地に辿り着く事に成功した。
彼らを襲撃した死者達の物量と質を考えれば、百度同じ道程を踏もうとも百度とも避難民全員が動く死者の仲間入りを避けられぬものであったが、タンブル・ウィードの存在が彼らの命運をゲルドーラまで繋ぐ事を可能とした。
ゲルドーラへと続く主要街道の一つを進んでいる際に、ゲルドーラの巡回警備隊の一つと接触する事に成功したガランド達は、彼らと共にゲルドーラへと赴く事とし、ようやく見えた光明に避難民達の間にも久方ぶりの笑顔が浮かんでいる。
警備隊の騎士や兵士達はガランド達のような避難民を受け入れる事に慣れた様子で、現在のゲルドーラや近隣の他領の情報と確認されている死者達の情報を交換している。
もしゲルドーラで籠城戦を演じる事となった時、実際に戦場に立つ事になる彼らが戦う相手の情報は、いくらあっても足りないと言う事はあるまい。
ゲルドーラの軍部や領主達にも動く死者達の情報は伝わっているが、避難民達から聴き取れる情報はまちまちで、死者達のほとんどはもっとも下級のゾンビーであるという認識であるらしかった。
これはゲルドーラまで辿りつけた領民達が遭遇したのが、ゾンビーの小集団でありだからこそ命を長らえた為だ。
ゲルドーラに辿りつけなかった他の領民達はデスナイトやレッドボーンなど強力な死者達に遭遇し、尽く殺害されて彼らの仲間となってしまった為に、強力なアンデッド達の情報がゲルドーラまで伝わっていないのだ。
アルニやミルラ達からデスナイトをはじめとする強力な死者達の存在を聞かされた巡回警備隊の隊員達は、事態が自分達の想定をはるかに上回る厄介なものである事を知って険しい表情を浮かべている。
また巡回警備隊の隊員達の表情を険しく変えさせたのは、なにもデスナイト達の存在ばかりでは無い。
避難民達をここまで守り抜いた孤影の女剣士の存在もまた、彼らの心中に深い暗黒を蟠らせたのである。
かつてバンパイアの脅威に晒され、恐怖と憎悪と怒りと怨恨の歴史を持つ土地の人々にとって、例え自分達を守ると誓い実際にそうして見せたタンブル・ウィードであっても、やはり畏怖の対象である事には変わらない。
ましてやつい先ほど合流したばかりの巡回警備隊の隊員達なら尚更であろう。
巡回警備隊の隊員達にはアルニや避難民達がバンパイアの仲間入りをしていないか、精神を操られていないか、と疑っている節が見受けられる。
さて、ではそのタンブル・ウィードはと言えば、太陽が青空に浮かぶ時刻であるから馬車の中に引っ込んでおり、その御者台には家族の制止を振り切ったニックと探究心と学術的好奇心に突き動かされたラアクとが腰掛けている。
スレイプニル達は御者無しでも棺の中に居る主の意思に従って道を進んでおり、ニックとラアクは手綱を握ってもいない。
巡回警備隊の面々はバンパイアを恐れていないような二人の振る舞いに、なんとも言い難い表情を浮かべている。
バンパイアとは恐怖の代名詞。憎悪を募らせるべき存在。であるにも関わらず、そのバンパイアによって避難民達はここに至るまで守られ、懐いている子供までいるのはどういうわけか。
男爵領を襲っている奇禍はあのバンパイアが引き起こしているのではないか?
確たる証拠も無くそう疑ってしまうほどに、この国の人々にとってバンパイアとは恐るべき存在であったし、またそう思わせるだけの力をバンパイアという種族は産まれながらに備えている。
ただし御者台に腰掛けて大輪の笑顔の花を咲かせているニックと、白紙の紙束になにやら書きつけているラアクにとっては、タンブル・ウィードだけは例外であった。
「ねえねえタンブル・ウィード、そんでさ、タンブル・ウィードが好きな相手とはこれからどうするつもりなのさ?」
ほとんどのバンパイアは太陽が空に輝けば生理的に抗えぬ眠りの海に溺れるのだが、タンブル・ウィードはわずかな例外といえる稀有な個体で、この時刻でも意識ははっきりと覚醒していた。
ニックの問いに対して、棺の中のタンブル・ウィードが大気を震わせて返事を送る。
まるですぐ傍にタンブル・ウィードがいるかのように明瞭に声が聞こえ、たったそれだけでも本職の魔法使いがこの場に居たら驚嘆するだけの精緻極まる術式と技量であった。
「ニック、あなたは本当にその話ばかりを繰り返しますね。それよりも西の別の大陸に住む百の目と百の腕を持つ巨人、ヘカトンケイルの末裔の話はいかがですか?」
「ううん、それも悪くないけどやっぱりタンブル・ウィードの事が聞きたいな。そろそろゲルドーラに着くし、そうしたら今度こそさようならだろ? だったら今の内に聞きたい事を聞いとかねえと損だからね」
「まるで商人のような口ぶりをするものですね。感心すれば良いのか呆れれば良いのか」
タンブル・ウィードの声音で判断するならば、呆れの方が強い。
ラアクは友好的なバンパイアのタンブル・ウィードの話を聞く事に専念している様子で、ニックとタンブル・ウィードの会話を素知らぬ顔で一語一句漏らさず紙束に記している。
「どっちでもいいから、教えてってば。おれも将来タンブル・ウィードみたいに綺麗で強くて優しい嫁さんを貰いたいからね。
それにはタンブル・ウィードが惚れた相手を参考にするのが一番だろ?」
なるほど理に適っていると言えば適ってはいる。中々強かなニック少年である。
タンブル・ウィードは無言であったが、ラアクは筆を動かしつつ棺の中のタンブル・ウィードが溜息を吐いたような気がしてならなかった。
「取り敢えず私は今回の件が片付いたら故郷に戻り、亡くなった皆を弔います。
全てはその後です。それにニック、今回の件はまだ片付いていないのです。
ゲルドーラに着きそうだからと言って、あまり油断をしてはいけません。私も最後の最後まで細心の注意を払い、あなたやあなたの家族を守るつもりです」
「うん、ありがとう、タンブル・ウィード。でもそれはそれ、これはこれだとおれは思うんだよね」
どうやらニックを言いくるめて話の矛先を逸らすのは、失敗したようだ。
きっとタンブル・ウィードは苦虫を噛み潰した顔をしている事だろう、とラアクは思った。
ただラアクはそのタンブル・ウィードの表情を思い浮かべる事はしなかった。いや、出来なかったと言うべきだろう。
バンパイアの創造神たる月の女神の生き映しを名乗っても、誰からも異を唱える声が出ないほどの美貌は、人間の想像力の限界を軽々と超越しているのだから。
「で、で、どうなのさ?」
止まぬニックの追及に、タンブル・ウィードはたっぷりと間を置いてから答えた。
奇妙な事にタンブル・ウィードは色恋沙汰の問いに関して、極めて押しに弱くなる一面を持っていた。
「…………その相手とは私の用向きが済んだら再会の約束を交わしております。少なくとも私は皆の弔いが済めば、再び北の海を渡って彼を訪ねるつもりです」
北の大陸に住んでいる想い人の事を語るのを随分と渋っていた割に、いざ話し始めるとなると恋心の吐露が楽しいのか想い人の事を語れるのが嬉しいのか、タンブル・ウィードの声音はどこか弾んでいる様にニック達には聞こえた。
バンパイアも恋する気持ちは変わらないようですね、同族に対する精神の働きは人間とそう変わらないと言う記録は正しかったようです、とラアクは心の中でだけ呟く。
「ふうん、会ってからはどうするんだい。まずは再会を祝して抱き付いてぶちゅぶちゅやるのかい?」
そう言うとニックは唇を尖らせ、ぶちゅぶちゅと音を立てて見えない誰かと激しくキスする様な仕草をする。
タンブル・ウィードはここまであからさまな、というか下品な仕草を見るのは初めてだったのか今度は棺の中で絶句しているらしい。
貴種として育てられ、同じような身分の者としか接した事の無い者によく見られる反応だ。
「に、ニック、いくらなんでもそれははしたないでしょう。そのような事はいくらなんでも……」
「なんでえ、それ位してもいいじゃん。会いたくって仕方がないんだろ。だったらそれ位情熱的に行かなくっちゃ。
タンブル・ウィードとちょっと話しただけでも、タンブル・ウィードがどれだけその男の人の事が好きか分かるくらい好きなんだろ」
「そ、そんなに分かりやすいでしょうか?」
おや、とニックとラアクの眉根が少しだけ寄せられた。
タンブル・ウィードの声音からこれまで耳にした凛々しさや威厳、誇り高さは失われており、恋心を呆気なく指摘された事への動揺と不安に揺れている。
どんな詩人が一万年の時間を与えられたとしても、その美貌を一篇の詩にする事さえ出来ない美貌のバンパイアは、少なくとも想い人に関してだけは人並みらしい。
「分かりやすいよ。こうして顔を見てなくっても分かる位だからね。タンブル・ウィードが好きな人の話をする時は声が弾んでいるし、嬉しそうだもの」
「ふむぅ」
と思わず漏らしたらしいタンブル・ウィードの溜息に、ニックはうわ、可愛い、と心の底から思った。
この『ふむぅ』がタンブル・ウィードの想い人の口癖だと知ったなら、ニックのタンブル・ウィードに対する心象は更に可愛いの割合を広げる事だろう。
「まあ、タンブル・ウィードにそこまで高望みするのは厳しいみたいだけど、じゃあ相手に恋人とかはいないの? タンブル・ウィードが惚れる位なんだから、他の女の人も引っかかってそうだ」
「またそのような言い方をして。でも、そうですね。普段一緒に居る女性はいるようでしたが、まだ正式に恋人と言うわけではないようでした」
タンブル・ウィードの想い人の傍らには美しいラミアの少女がおり、想い人の方は彼女の事を深く信頼している様子で、ラミアの少女の方は想い人に対して恋慕の情を寄せているのが色恋に疎いタンブル・ウィードでもすぐに分かった。
想い人はまるで雲を掴むように捉えどころの無い人物であるが、あのラミアの少女のように心根が優しく器量の良い女性がいたら、何時恋仲になってもおかしくは無い。
ニックはおろかほとんど行動を共にしているスレイプニルにも明かしていない事であるが、タンブル・ウィードが棺に入っている間眠れずに悶々としている理由のほとんどは、想い人があのラミアの少女とこうしている間にも結ばれているのではないか、という不安に苛まれているからであった。
ガランドやニック達と出会ってその不安をひと時忘れていたのだが、この会話の所為で想い人がラミアの少女や同じ学院に通っている女学生達と結ばれているのではないか、という不安が蘇って来てしまった。
「ふうん。なあに、もしとっくに恋人になってたとしてもタンブル・ウィードならへーきだって。ちょっと猫なで声を出せばすぐに奪い取れるってもんさ」
「ニック! あなたのような子供がそんな事を言ってはいけません。そのような事を口にしては御両親に叱られますよ」
タンブル・ウィードはそのように窘めるが、辺境の子供でニック位の年齢ならこれ位は普通で、タンブル・ウィードの想い人も同じような下世話な話は涼しげな顔で口にするし、聞かされても何とも思わないだろう。
「へへん、そうは言うけどタンブル・ウィードは相手に恋人が出来たからって簡単に諦められるのかい? 自分の心に嘘を着くのはよくないぜ」
「それは、すでに相手がいると言うのなら私は身を引くだけです」
「ほら、それが嘘さ。絶対に諦められませんって言っている様な声を出してるぜ。
そうやって自分に嘘を突き続けていると、心によくないもやもやしたもんが溜まって、それが爆発してぐさっとやったりすんだよ」
うちの村でもそういう事があったよ、うんうん、とニックばかりかラアクまで感慨深げに頷いている様子から、どうやら本当に男女の痴情の縺れで刃傷沙汰が起きたらしい。
タンブル・ウィードはしばし口を閉ざした。ニックの言う事を自分に置き換えてみて、はたして自分が恋心を見て見ぬ振りをし続ける事に耐えられるか考えているのだろう。
いまだゾンビーの問題が解決していないにも拘らず、タンブル・ウィードは極めて私的ではあるが今後の人生を左右する重大な問題を再認識するに至った様であった。
このように巡回警備隊隊員達の複雑な感情と視線など露とも知らぬタンブル・ウィード達だけは、周囲の人々との間に凄まじい温度差が生じており、今が緊急事態である事を完全に忘れているかのようでさえある。
それからもタンブル・ウィードはニックにさんざか冷やかされたが、時にはそれなりに身になる話というか、認識を改める事もあって双方にとって身になる会話と言えただろう。
そうこうしている内にゲルドーラの街影を望める距離にまで到達し、巡回警備隊から離れたガランドが馬車へと近づいて来た。
ニックの次にタンブル・ウィードに助けられたにもかかわらず、その後にはバンパイアであるからとタンブル・ウィードを避けざるを得なかった事から、ガランドはタンブル・ウィードに大きく負い目を感じている。
馬車に近づいてきてタンブル・ウィードに話しかけるまでも、どう声を掛けたものかと迷う素振りを見せていた。
「うぉっほん、タンブル・ウィード」
「なにかご用ですか、騎士ガランド」
気まずさと緊張から身を固くするガランドに対し、タンブル・ウィードの声音は初めて会った頃と変わらぬものだった。
むしろかちこちと固まっているガランドの様子を面白がっているようだ。
「いや用というほどの事でも無いといえば無いのだが、おれ達がこうしてゲルドーラにまで辿りつけたのは、君の助けがあったからこそだ。
情けない話だがおれ達だけでは村人達をここまで守り切る事は出来なかっただろう。それに助力を乞いて置きながら随分な仕打ちもしてしまった。
今更だが謝っておきたくってな。本当にすまない事をした。この通り、謝る」
そう言って腰を深く折って頭を下げるガランドに、ふっと場の空気が和らぐ。
タンブル・ウィードは棺の中だが、表に出ていたら口元にうっすらと微笑くらいは浮かべていたかもしれない。
ガランドの殊勝な態度に真っ先に反応したのはニックだった。御者台の上で、へん、と一つ吐き捨ててから怒った調子でまくしたてる。
「まったくだよ。タンブル・ウィードがおれに雇われてくれたから良かったけどさ、タンブル・ウィードが臍を曲げてどっか行っちまったらどうする気だったんだい」
「それを言うなよ。だからこうして謝っているだろ」
「謝るのがゲルドーラにもう着くって時だから怒ってんだい。もう安心だからってそういう態度を取るのは卑怯だぜ」
ニックはどうやらまくし立てている間にどんどん腹が立ってきたらしく、ガランドに対する言葉に棘が増えて行く。
ガランドは自分でもニックの言う通りだと思っているから目くじらを立てる事はしないし、申し訳なさそうに大きな体を縮こませている。
「参ったな。ニックの言う通りだからなにも言い返せねえ」
ガランドに助け船を出したのはタンブル・ウィードであった。
「ニック、そこまでになさい。あなたが私の代わりに怒ってくれなくても良いのですよ。その心遣いは大変に嬉しいものですけれどね。
時に騎士ガランド、ニック達は速やかにゲルドーラに入る事が出来るのですか? 五十余名とはいえ、男爵殿はどのような差配をしていらっしゃるのか気になるのです」
「既に他の村落から避難してきた連中を受け入れているから、他の領民が避難してくる事を想定して備えをしてくださっているそうだ。
城壁近くになるが取り敢えず荷物を降ろせるくらいの土地は用意して貰えている。外で野宿するよりはマシだろうさ。いつまで続くかにもよるだろうが、当面は落ちつけそうだ」
「そうですか、ひとまず良かったと申し上げておきましょう。ただ今回の事件に対する調査は未だ進んではいないように見受けられますね」
「避難民の受け入れ態勢と調査隊の編成、それに他領との情報交換で忙殺されているらしい。
避難民からの話でゾンビーが大量に湧いているってんで警備隊の数を増やしているのと、聖職者を必ず一人は組み込んでいるらしいが、デスナイト級のアンデッドが出てきたら厳しいだろうな」
「ふむ」
「おれからも質問させてほしいが、タンブル・ウィードはどうするんだ。ゲルドーラに着いたらニックとの契約も無事完了って事だろう。
故郷があるっていう西に向かうなら、下手をすればゾンビー共の群れとかちあう事になるぞ」
ガランドの声にはタンブル・ウィードの身を案じる響きと、あわよくばタンブル・ウィードがゾンビー達の大量発生した原因を解決してはくれないか、という期待の響きとが混じっていた。
その事にガランド自身気付いており、あさましい自分勝手な心の動きに対して我がことながら嫌悪を覚えていた。
「何処に行こうともあのレッキマルなるアンデッドは私を追ってくる事でしょう。
それに今回の事態を引き起こしたのはリッチですが、中にはバンパイアが起こしたと思っている方もいるでしょう。
その誤解と汚名を晴らす為にも、私は私で今回の事態を解決する為の行動を取るつもりです」
タンブル・ウィードが独自に行動して今回の異常事態に立ち向かう、と発言したことにガランドやラアクは傍目にもはっきりと分かるほど大きく安堵する。
これまで目にしてきたタンブル・ウィードの戦闘能力を鑑みると、ひょっとするとゲルドーラの全戦力を上回るのではないか、とガランドは半ば本気で思っている。
そんなガランド達を、より正確に言えばタンブル・ウィードの乗っている馬車をミルラだけは憎悪の炎が激しく揺らめく瞳で見ていた。
*
ガランドや避難民達はすんなりとゲルドーラの中へと入る事が出来たが、タンブル・ウィードはやはりバンパイアである事から市街に入る事は許されなかった。
バンパイアの同道を聞かされたゲルドーラの警備兵達がぞろぞろと詰所や城壁内部から出てきて、城門からやや離れた所で停車している馬車を遠巻きに見る、という構図が出来上がる事となった。
タンブル・ウィードはニック達が城壁内部に入ったのを確認したら、すぐに西へ向かうつもりであったが、ガランドとアルニに乞われて少しばかりその場で待機していた。
ここまで自分達を護衛してくれたタンブル・ウィードに対し、流石にニックからの報酬だけでは申し訳がない、と二人が思い至り、ゲルドーラに居る上司に掛け合って報酬を用意すると申し出た為である。
気にしなくても良い事を気にするとは律儀な事ですね、とタンブル・ウィードは感心しつつガランドからの提案を受け入れて、こうしてゲルドーラの外で待つ事としたのである。
ゲルドーラに到着したのは正午に差し掛かる頃だったが、ガランドとアルニが馬に乗って再び姿を見せてタンブル・ウィードを訪ねたのは、夕闇が空を染めつつある時刻――すなわちバンパイアの世界となる時刻であった。
馬車とスレイプニル達を遠巻きに監視していた兵士達は、バンパイアが自由に行動できる時刻になった事で、全員が歴史の語るバンパイアの恐怖から顔色を青くしている始末。
そんな状態の兵士達をかき分けて、ガランドとアルニが馬に乗り明らかに位の高いと分かる騎士達を引き連れてタンブル・ウィードを訪ねた。
ガランド達の来訪を察知したタンブル・ウィードは、いつもの鍔の広い帽子を被り、黒いマントを纏った人型の闇のような出で立ちで馬車の外に出てガランド達を迎えた。
既に何度もタンブル・ウィードの美貌に気絶した経験を持つガランドとアルニは、タンブル・ウィードが音も無く馬車から降り立った瞬間に目線を伏せて、美の衝撃に意識を刈り取られるのを防ぐ。
その代わりガランド達が連れて来た騎士達はタンブル・ウィードの顔を見た瞬間に馬から転げ落ちそうになったり、その場で顎の関節が外れたのかと言う位に大きく口を開いたりしてしまう。
だが彼らの蕩け切った意識を取り戻させたのもまたタンブル・ウィードであった。目の前に立つ女性は美しい。美しすぎる。
人間にはあり得ない位に美しいのは、人間ではないからだ。そう、目の前の美女はバンパイアなのだ。人間の血を吸って血を吸う化け物へと変える恐ろしいバンパイアなのだ。
その認識が彼らの精神を戦慄させ、恐怖と共に正気を取り戻させた。
「タンブル・ウィード、こちらは騎士団長のラッセル・ガーンズバック卿」
ガランドの紹介に応じ、この場で最も位が高いと思しい騎士が進み出てから下馬し、タンブル・ウィードに軽く会釈をした。
他の騎士達もラッセルに倣って馬から降りたが、ほとんどが上手く行かず地面に転げ落ちる。
タンブル・ウィードの顔を一目見ただけで精神が熱せられたチーズみたいに蕩けてしまい、まともに足腰を動かす事も出来なくなっているのだ。
ラッセルは五十歳に届こうかと言う苦み走った男性で、陽に焼けた肌に色褪せた赤毛が良く似合い、口元を覆う髭は綺麗に整えられている。
ラアクに負けず劣らずの巨漢で、威厳漂うその姿から年齢による体力の衰えはまるで感じられない。
その顔にはバンパイアであるタンブル・ウィードへの恐怖と忌避の念がわずかに滲んではいるが、それを精神の奥底に押し込めるだけの意思力と分別はあるようだった。
ほかの騎士達がまだタンブル・ウィードの美貌にぼうっとしている中で、ラッセルだけは意思をはっきりとさせている。
「ふむ、私がタンブル・ウィードですが、私になにか? 早々に立ち去れと言うのならばすぐにでもこの場を出立する用意は出来ておりますよ」
ニックに挨拶だけはしておきたかったですね、と心中で呟くタンブル・ウィードに、ラッセルは彼自身あまり納得していない様子でこう告げた。
「貴公の働きによって我らの領民が無事にこのゲルドーラまで辿り着く事が出来た。ついてはその働きに対し、御館様が一言礼を言いたいと仰せになられた。
異例な事ではあるが貴公にはウォールエルン城まで同道願いたい」
ラッセルからの申し出に、ふむ、とタンブル・ウィードは呟いた。
ガランド達が報酬の支払いを申し出た時にも意外に思ったが、よもや男爵が忌まわしきバンパイアを自分の懐にまで招くとは思いもしなかったからである。
あるいは自分の城まで招いて油断させ、兵士達で取り囲んでタンブル・ウィードを灰にしてしまうつもりなのかもしれない。
「男爵殿の申し出は確かに承りましたが、あなた方は納得していない様子ですね。ガーンズバック卿」
「私は御館様にお仕えする身。あの方のお考えがいかなものであれそれに従う事こそ、騎士の務めと心得ているつもりだ」
「ふむ、それもまた忠義の道の一つ。分かりました。この地を治める御方からのお招きです。これに応じねば非礼となりましょう。
ところでこの衣服のままでも良いのですか? 男爵殿に拝謁する栄を賜る以上、必要があれば着替えて参りますが……」
「いや、御館様はそのような事を気になさる方では無いし、今回の事は内密な話ゆえそのままで結構」
「ならばこのまま参上いたしましょう。案内をよろしくお願いします、ガーンズバック卿」
タンブル・ウィードの言葉に、ラッセルは思わず主にするかのように返答しそうになる自分を慌てて制したが、他の騎士の何人かは反射的に頭を垂れてしまっている。
目の前の妖艶なる美女はおぞましき吸血鬼である筈なのに、その認識を忘れさせるほどの威厳と風格を備えているのだった。
タンブル・ウィードは腰の長剣も帽子もそのままに、スレイプニルの一頭に跨るとラッセルらの先導に従い、馬車はこの場に置いてゲルドーラの中へと足を踏み入れた。
左右をガランドとアルニが固め、前にラッセル、背後にはラッセル配下であろう騎士達が陣取っており、タンブル・ウィードが何か不審な行動を取った時にはすぐに剣を抜いて襲いかかるのに適切な距離を保っている。
「ここまで用心するのならば、私を招かぬ方が良いのでは、とも思いますね」
ゲルドーラ市街に入り、城まで続く中央通りを進んでいると、不意にタンブル・ウィードがからかうように言った。
「我らから招いておいての不作法、どうか容赦願いたい」
「気にしてはおりません。こうなるだけの事を過去に私の同胞達は行ったのですから」
ラッセルは生真面目な問いを返すが、それでも決して振り返ろうとはせず前だけを見て進んでいる。
もう一度タンブル・ウィードの顔を見てしまったら、今度こそ意識を保つのが難しいと考えているのだろうか。
既に夕闇が世界を飲み込む時刻である為、中央通りに住人の姿はさほど見受けられない。
夜の蝶である娼婦や男娼達が賑わう歓楽街は通りをいくつも挟んだ区画にあるし、旅人や商人達用の宿屋や食事どころも中央通りとは別の区画に設けられている。
中央通りに軒を連ねているのは、ゲルドーラの住人達の家々か彼らを相手とする商人達の店で、この時間ともなれば各々の家に帰るか店じまいを始める頃だ。
それでもまだ通りを行き交っていた人々は、領主の側近中の側近であるラッセルの姿に気付くと左右に退いて、次にこの一団の中心に居るタンブル・ウィードに気付くと、その場に立ち尽くして夢の世界にいるかのように恍惚と立ち尽くす。
この世にあり得る筈の無い美貌を前に、彼らの心は自分達が現実には居ないのだと認識し、そう行動させたのだ。
世界に夕闇が差し迫ったのは、あの黒衣の美女を隠してしまう為ではないだろうか。
他の誰の目にもその顔を、髪を、瞳を、鼻を、唇を晒してはならないと、世界がただ自分のものにだけしようと闇の手を伸ばして包み隠そうとしているのではないか。
だがその行いの何と無為な事。タンブル・ウィードの美貌は深淵の闇に飲まれようと、おのずと放つ輝きによって闇を払い世界に燦然とその存在を主張しているのだから。
タンブル・ウィードとその周囲だけは別の世界と化しているかのような状況の中で、タンブル・ウィードはふと右に位置しているガランドに声を掛けた。
ガランドは恩人とはいえバンパイアをゲルドーラに招き入れてしまった事や、本来雲の上の存在である騎士団長のすぐ傍に居る事に緊張していたが、タンブル・ウィードに声を掛けられて大仰な位に体を震わせる。
「騎士ガランド、質問をしてもよろしいですか」
「お、おう。なんだ、タンブル・ウィード」
「いえ、ニグレル男爵という方がどのような御仁か教えて頂こうかと思いまして。人となりくらいは事前に知っていても良いでしょう」
「ん、そうだな。おれも男爵様のお顔を遠目に見た事がある位だし、大したことは知らないぞ」
「それで構いませんよ。どのような統治者であるかはこの街並みやガーンズバック卿を見れば、おおよそは分かりますから」
「そういうものか?」
「統治者の人となりは治める地と仕える者達に如実に反映されるものです」
なにやら実感のあるタンブル・ウィードの言葉に、ガランドはそういうものかと不思議と納得する。
「現当主のガトー様は三年前に先代当主のラル様より家督をお継ぎになられたばかりだが、前々からの家臣の方々がおられるから、恙無く政をしておられる。
今年で三十二歳になられる方で、奥方様とご子息が二人。兄弟や姉妹はいないな。御気性は思慮深く、周囲の意見に良く耳を傾けられる方と聞いている」
家臣としては悪口を言う事は出来まいが、ガランドの顔を見て本当のことしか言っていないとタンブル・ウィードは判断した。
もっとも、ガランドは直接男爵親子に仕えている立場ではないから、彼にしても他人から聞いた話でしかないだろう。
「では先代のラルという方は? 御子息がその年齢ならまだまだお元気でしょう」
ガランドとアルニはラッセルや他の騎士達の顔色を伺ったが、今の所は咎められたり窘められたりする様子は無い。
「そうだなあ。とても頭の回転の速い方とは聞いているが、おれの親父や祖父も顔を見た事があるって程度だし、この街に住む人々の方がおれよりもよっぽど詳しいだろうね。
ただ御二方がこのニグレル領の御領主であらせられる事を、おれもそして領民も皆が誇りに思っている。おれはそう信じている」
なるほど、と呟いたきり、タンブル・ウィードはそれ以上口を開く事はせずに、黙々と城への道を進み続けた。
市街の中心部にある小高い丘に建てられた城は、華美な装飾などはほとんど見受けられず、かつての他国の兵や魔物、バンパイアとの戦いの歴史を残す無骨な造りをしていた。
五角形の形をした城の正面城門に居並ぶ衛兵たちは、この地の人々にとって騎士団長達が迎えに行った存在が如何なる恐怖であるかを物語っていた。
「盛大なお出迎えですね。こうも続くといささか飽きてしまいますが」
「その点については諦めて貰うしかないね。正直私だってまだあなたの事が恐ろしいもの」
遠慮の無いアルニの発言に、タンブル・ウィードは微苦笑を零す。
こういった対応こそが人間の常識的な行動であり、タンブル・ウィードの想い人が初めて彼女と会って以降の言動こそ非常識だったのだと、改めて思い知らされた気分だった。
タンブル・ウィードは、そんな恐ろしい相手を男爵殿に会わせて良いのですか、と言おうとしたが、例え冗談にしても冗談と受け取って貰えそうになかったので口を噤んだ。
もちろんタンブル・ウィードの美貌を目にした衛兵達が、伝説に語られるバンパイアの恐怖を忘れて、その場に尽く腰を抜かして尻餅を着くか槍を手落としたのは改めて語るまでも無い。
そして城内でタンブル・ウィードとすれ違う兵士達が、一人の例外も無く城門の衛兵達と同じ目にあって行くのも、自然の摂理のように当然の事であった。
もしタンブル・ウィードが去った後に他領や他国の兵士達が襲い掛かってきたら、城を守る兵士のほとんどが役に立たず、極僅かな戦死者と引き換えに落城せしめたかもしれない。
タンブル・ウィードが案内される通路は予め打ち合わされていたらしく、兵士以外に出入りの商人や文官、使用人の類とすれ違う事は無かった。
戦う力を持たない者達は、自分達の城に本来居るべきでない異物が混じっている事に怯えながら、城のどこかに閉じこもっている事だろう。
タンブル・ウィードが通されたのは城主の間ではなく、客間の一つと思しい部屋だった。
必要最低限の調度品の他は飾りらしい飾りも無く、なるほど城の造り同様に実用性を重視した造りとなっている。
隠し扉や床下の空洞など兵士を潜ませておくのにちょうど良い広さとなっており、実際にタンブル・ウィードに備えた兵士や神官などが配置されているのを、タンブル・ウィードは室外から察知していた。
扉の前には当然のことながら衛兵がいた。城門に居た連中よりも装備の質が良く、甲冑を押し上げる肉体もなんとも逞しい。
男爵とその家族を守る為に選び抜かれた精鋭だろう。タンブル・ウィードの顔を見て蕩けそうになるのを、少し体を揺らしただけで堪えたのは称賛に値する。
ラッセルが入室の許可を室内の男爵に求め、家宰か家臣の誰かを通じて許可が下りるのを待ってから、タンブル・ウィードは客間へと足を踏み入れた。
ガランドとアルニは下級騎士と言う身分から入室する事は叶わなかったが、タンブル・ウィードの帰り道に同行する為、別室にて待つ事となった。
「タンブル・ウィード、なんて言うのか……」
別れ際、何か言いにくそうにするガランドに、タンブル・ウィードは分かっていると頷き返した。
「男爵殿に危害を加えるような真似はいたしませんよ」
「違う、そうじゃあない。おれはタンブル・ウィードには感謝しているんだ。こうして無事にここまで来られたのも、生きていられるのもタンブル・ウィードが居てくれたからだ。
なのに、タンブル・ウィードを擁護してやることもできない。それが申し訳なくって堪んないんだよ」
元々ガランドの事を性根のまっすぐな青年である、と感じていたタンブル・ウィードではあったが、ここに至っての言葉には思いがけず口角を小さく上げる。
タンブル・ウィードの顔に浮かび上がっていたのは、柔和な笑み以外の何物でも無かった。
「ありがとう、騎士ガランド。どうかその心をお忘れなく。さすれば貴方は良き騎士となりましょう」
タンブル・ウィードがこの時に浮かべた笑みは生涯ガランドの心から消える事は無かった。
ガランドが思わず目頭を熱くしている間にタンブル・ウィードは、客間の中へと消えていった。
その場に立ち尽くすガランドの背をアルニは軽く叩き、わざと茶化すように言う。
「惚れた?」
「馬鹿、んなわけあるか」
「またすぐに彼女を城壁まで送って行くんだから、気を落とすなって」
ガランドは気を遣いすぎる所のある同僚に、うるせえ、と小さく言うだけであった。
二人の騎士が用意された別室に向かった頃、タンブル・ウィードはニグレル領当代当主ガトー、そして前当主ラルと思しい人物と対面していた。
客間の中央に置かれた長テーブルに腰かけた二人の男の内、若い方がニグレル男爵として老人の方は先代当主のラルだろうか。
ガトーの傍らにラッセルが控え、他の騎士達も男爵親子を庇う位置取りをしている。
全員が全員とも、命を賭してでもタンブル・ウィードから男爵親子を守る覚悟を決めている様であった。
初対面の人間がタンブル・ウィードを相手に正気を維持し続ける事は、極めて難しい事ではあったが、男爵親子はかろうじて正気を維持し続ける事に成功している。
タンブル・ウィードは帽子を取り、男爵親子に軽く会釈をした。
「お初にお目に掛ります。私がタンブル・ウィードです。ニグレル男爵閣下でいらっしゃる?」
タンブル・ウィードの予想通りに若い方の男が椅子から立ち上がる。
「さよう、私がガトー・ニグレル。こちらは我が父ラル・ニグレルだ。タンブル・ウィード殿、まずは腰を落ち着かれてから話をするとしよう」
タンブル・ウィードは右手に帽子を持ち、左手に鞘ごと腰から外して騎士の一人に愛用の長剣を預ける。
自分に敵意が無い事を示す為の行動であるが、バンパイアが素手でも人間を解体出来る事を考えると、あまり意味は無いかもしれない。
タンブル・ウィードが椅子に腰かけるのを待ってからガトーが両手の指を組み、口を開いた。
「タンブル・ウィード殿、我らの民をこのゲルドーラまで守って来てくれた事にまずは感謝を」
「私が自らの意思でした事は最初の事だけ。後はニックと言う少年に雇われたから、その約束に従ったまでの事です。
もし称賛を受けるとしたならば、私ではなくニックこそ受けるに相応しいでしょう」
覚えておこう、とガトーが頷き話を続け始める。
「騎士ガランドからここに至るまでの道程については報告を受け取っている。
そこでこのままでは後手に回ると判断し、今回の事態に対し貴殿の知識を借り受けたく、この場に招いたのだ」
「推測を交えての話となりますが、それでよろしければお話いたしましょう」
タンブル・ウィードが男爵達に告げたのは、主に敵が極めて強力なリッチによって統率・創造されたアンデッドの軍団である事と、その目的やリッチの所在は不明である事、ただしニックの祖母などから聞いた話からおおよその居所は把握している事の三点であった。
男爵達がタンブル・ウィードの言う事をどこまで信用するかまでは不明であったが、まったく何も知らないよりはましな情報を与えたのは間違いない。
タンブル・ウィードが己の知り得る情報を伝え終えた頃、それまで沈黙を守ってタンブル・ウィードと男爵の話を聞いていたラルが不意に顔を上げ、じいっとタンブル・ウィードの顔を見つめる。
少なからず皺は刻まれているが、まだまだ活力に満ちた初老の前男爵は、熱に浮かされたように期待を秘めた声でタンブル・ウィードに問うた。
「ひとつ、ひとつだけ伺わせていただきたい。タンブル・ウィード殿」
「なにか?」
「私がまだ幼い頃、この国はひどい飢饉に見舞われた事がありました。その時、救いの手を伸ばしてくれたのはかつて我らを苛んだ西のバンパイアの国の内、とある国の女王陛下でした。
再び鮮血の歴史が繰り返されるのかと慄く我らに西の彼方より訪れたその方は、我らに慈愛の言葉と共に飢えを凌げるだけの食糧をお与え下さり、多くの民が命を救われました。
救われた記憶は憎悪の歴史に塗りこめられ、多くの者達が今や忘恩の徒となり怨恨に捕らわれておりますが、私はその時の恩を忘れる事は出来なかった。
なぜならガトーの祖父であり、私の父であった先々代当主と共にかの国の女王の御尊顔を拝謁したその時の記憶が、五十年経った今でも色褪せることなく私の心にあるのです」
まるで夢見るように、あるいは初恋の熱に浮かされるようにラルがタンブル・ウィードへと向ける視線と言葉に、ガトーやラッセルをはじめこの部屋に居た者達はタンブル・ウィードが何者であるか、という事に思い至りまさかという表情を浮かべはじめた。
タンブル・ウィードの返答いかんによっては、彼らの心に嵐が吹き荒れるかもしれぬ瞬間の訪れまでは、しばしの間を要した。
「ラル殿の言われるバンパイアの女王がどのような方であるか、私には分かりません。
ですがもしその方がこのゲルドーラを訪れていたなら、例えバンパイアへの怨嗟が晴れてはおらずとも、人々の活気に満ちたこの街を見れば、あの時援助の手を伸ばした事は間違いでは無かったと言われる事でしょう」
「おお、陛下。勿体なきお言葉にございます」
感涙の滴を零すラルに、タンブル・ウィードは微笑で応えた。
「その言葉は私が受け取るべきではありませんよ、ラル殿。私がこれ以上お話すべき事はここには無いようです。これにてお暇させて頂きましょう。
どうか私の事はお忘れください。私があなた方に危害を加える事はいたしませんし、再びこの地を訪れる事も無いでしょうから。私の剣を」
「は、はい」
入室の際にタンブル・ウィードから長剣を預かった騎士が、先ほどまでとはまた異なる畏敬の念を込めた眼差しと共にタンブル・ウィードに長剣を返した。
「ありがとう」
短く礼の言葉を返しながら長剣を腰に差し、鍔の広い帽子を被り直すタンブル・ウィードの姿を、客間の誰もがそれこそ隠し扉や床下に潜んでいた者達に至るまでが入室する前とはまるで別人を見るかのような眼差しを向けていた。
タンブル・ウィードが客間を退出する寸前、背を向けたまま男爵達に忠告を述べた。
「これは余計なことかもしれませんが、既にこの世にバンパイア始祖六家は絶えました。西のバンパイア諸国は更なる戦乱の時代を迎える事でしょう。
今回の死者の騒乱に続いて落ちつく暇もないでしょうが、備える事を決して怠らぬように老婆心ながら申し上げます。それでは」
最後まで振り返る事も無く退出したタンブル・ウィードの背に、ラル、それに続いてガトーとラッセル達が深く頭を垂れた。
タンブル・ウィードは別室で待機していたガランドとアルニと合流して城を出た後、一度ニックに別れの言葉を告げようと彼らが宛がわれた区画へ足を向ける。
開けた土地に取り敢えずの仮住まいとして掘立小屋や天幕が建てられて、そこで避難民達が夕餉の支度を始めていた。
ガランドやタンブル・ウィードの姿に気付いた人々は、はっと顔を上げて注視したがタンブル・ウィードはそれに取り合わず、ニックの姿を探してほどなく見つける。
「あ、タンブル・ウィード」
ニックは支給された薪を取りに出ていたらしく、両手に縄で束ねられた薪を抱えていた。
タンブル・ウィードの姿に気付いたニックは、にこにことすっかり親しい者へと向ける笑みを浮かべてよたよたと近づいてくる。
「大変そうですね、ニック」
「これ位なんて事も無いさ。おれより大変な人達がたくさんいるんだからね。文句なんて言っても仕方ないよ」
「相変わらず年の割には達観していると言うか、変わった子です」
「苦労しているからね。でもタンブル・ウィードがここに来たって事は、そろそろ行くのかい?」
「ええ。ここならあなた達も無事に過ごす事が出来るでしょう。私は故郷へ戻ります。その過程で出来得る限りの事もしますよ」
出来得る限りとは言ったが、すでにタンブル・ウィードは今回の事態を引き起こしたというリッチと戦う決意を固めていた。
ニックは薪束を足元に置き、少しだけ寂しそうに笑う。
「そっか。おれ、タンブル・ウィードに会えてよかったよ。タンブル・ウィードみたいな人にはもう二度と会えないだろうなあ」
「私もニックに会えてよかった。人間の事がもっと好きになりましたから」
「何言ってんだい。タンブル・ウィードが好きなのは片思いの男の人だろ? おれはいつか、その相手よりももっといい男になって、タンブル・ウィードを悔しがらせてやる!」
思わぬニックの言葉に、タンブル・ウィードは珍しい事にきょとんとした表情を浮かべてから、柔らかく笑んでおもむろに帽子を取るとそれをニックの頭に被せた。
「十年後が楽しみですね。ニック、あなたは勇気があってそして優しい男の子です。
勇気と優しさの両方を持っていると言う事はとても素晴らしい事。勇気と優しさを失わないでくださいね」
「うん!」
黒薔薇のコサージュが着いた帽子を被ったまま、ニックは大輪の笑みと共にタンブル・ウィードに頷き返すのだった。
こうして少年とバンパイアとは別れの時を迎え、ガランドとアルニとも城門で別れの挨拶を交わした。
「あいつは将来大物になるぜ、タンブル・ウィード」
我が事のように嬉しそうにガランドが言えば、タンブル・ウィードも同じように嬉しそうに首を縦に振る。
「ええ。あの子を守れた事は私にとって誇りといえましょう。それにあなたの言う通り良き青年に成長すると確信しています」
「恋の力って奴は馬鹿に出来たもんじゃないからな」
ガランドの言葉はタンブル・ウィードにとっても共感できる事であり、ええ、と力強く頷く。彼女自身、日々それを体感している最中なのだから。
「タンブル・ウィード、改めて礼を言うよ。ここまで守って貰った事をさ。本来ならおれ達が守るべき立場なんだが……」
「それを言われるとおれ達全員がタンブル・ウィードに頭が上がらなくなるねえ」
「困った時はお互い様と言いましょう。私は私の信条に従ったまでの事。騎士ガランド、騎士アルニ、ニックとこの街に住まう方々の事、必ずや守るのですよ」
「言われるまでもない。今度こそ、自分達の力で守って見せる」
「騎士の名誉に誓って」
馬上のタンブル・ウィードに対し、決意で固めた表情で誓う二人に、当のタンブル・ウィードは安心したと言う代わりに頷いて見せる。
馬上の美女の眼差しを受けて、二人の騎士はかつてない誇りと決意とが胸に湧きおこるのを感じた。まるで崇敬する偉大なる王に信頼を寄せられた騎士のような心情であった。
「それでは、さようなら。騎士ガランド、騎士アルニ」
馬首を翻して去りゆくタンブル・ウィードの背を、二人の騎士は長い事見送り続けた。
タンブル・ウィードはニックやガランド、アルニとの別れの挨拶を済ませた以上は、早急にゲルドーラを離れ、周辺のゾンビー達を殲滅しつつ元凶であるリッチを探し当ててこれを討つつもりでいた。
高位のゾンビーを倒し、その死肉を動かす術式を解析して逆探知すればその居場所を探し出す事は、タンブル・ウィードにとって決して難しい事では無い。
迅速に探し出してこのような事態を引き起こした理由次第では、存在の痕跡一片と残さずにこの世から消滅させるつもりのタンブル・ウィードであったが、それよりも前に馬車の前に立つ小柄な人影と決着をつけねばならぬようであった。
「ミルラですか。別れの挨拶をしに来てくれたわけでは無いようですね」
全身から殺気と闘志の見えざる炎を噴きだすミルラを前に、タンブル・ウィードはどこか悲しげに呟いて愛馬から降りた。
スレイプニルは主に敵意を向ける相手に闘志をむき出しにしたが、タンブル・ウィードに首筋を撫でられると大人しくなり、この場を主に任せた。
ミルラの決断はバンパイアを相手に挑むには最悪の時刻だが、はたして勝算あっての事か。それともタンブル・ウィードに討たれる覚悟でこの場に立っているものか……。
「いいえ、別れの挨拶をしに来たのよ。吸血鬼」
凍えた声で告げるミルラの右手にはいつもとは違う大ぶりの銀のナイフが握られており、バンパイアの不死性を大きく減衰させる数少ない武器の調達に成功したようであった。
「私は約束通り誰の血を吸う事もしませんでした。
貴女が今、私に殺意を向ける理由は、私が貴女の人生を狂わせた吸血鬼と同じ種族だからですか? 私は貴女の血を吸った吸血鬼ではありませんよ」
ミルラの返答は言葉では無かった。だらりと下げていた左手が霞むや、タンブル・ウィードへと向けて三本のダートが投じられる。
顔面に集中したダートを、タンブル・ウィードは流石に首を傾けるだけで避ける。
タンブル・ウィードの視線は変わらずミルラを見つめていて、そこにある労わりと憐みの色がミルラの神経を逆なでする。
タンブル・ウィードへと駆けだしたミルラは、次いで腰のベルトに括りつけていた小さな壺を投じた。
油紙の蓋がされそこから火の着いた導火線が伸びている。
ミルラ手製の火炎壺はタンブル・ウィードに当たる直前で着火し、黒衣のバンパイアを炎が丸々飲み込もうと広がったが、それもタンブル・ウィードが左手でマントを翻すやそれだけで無数の火の粉へと散ってゆく。
火炎によって隠されたミルラの姿は、大胆な事にタンブル・ウィードの正面にあった。
タンブル・ウィードの翻したマントの裾に触れるぎりぎりの距離で一旦足を止めていて、火炎が散るのに合わせて撓めた筋力を爆発させる。
タンブル・ウィードが散らした火炎を浴びて、ミルラの髪の毛や頬、瞼が焼ける匂いと音を立てるが、それもすぐさま再生し跡形もなく火傷の痕一つ残らない。
かつてバンパイアによって血を吸われ、その相手を滅ぼしながらも呪いの解けなかったミルラは中途半端に肉体がバンパイアと化している。
本来のバンパイアには劣るものの、この程度の傷なら瞬時に再生するのだった。
そんな肉体の脚力の爆発に伴う銀のナイフの刺突は、ミルラの全霊が込められている事も相まって本来のバンパイアにも引けを取るまい。
タンブル・ウィードの豊かな起伏を描く左胸を狙って突き出したナイフが確かに肉を貫く感触に、しかしミルラの表情は失態を理解した色に染まる。
ミルラが必殺を期して突き出したナイフは、タンブル・ウィードの左掌を貫いた所で止められていたのである。
「なにより憎いのは自分自身ですか、ミルラ」
左手を貫かれ、命を狙われたと言うのにも関わらず自分を憐れむタンブル・ウィードに、ミルラは頭に血が昇るのを感じた。氷水のように冷たいバンパイアと化した血が。
「そうよ、そうよ! あたしが血を吸われたせいで仲間はあいつと戦わなければならなくなった。
その所為で皆死んだ。皆、死んじゃったの! あたしがドジを踏まなければ皆は死なずに済んだのに!
生まれつき吸血鬼のあんたには分からないでしょうね。自分が別の生き物に変えられる恐怖なんてさ。
さっきまであったかかった身体と血が死んだみたいに冷たくなって、内臓が全部氷に変えられたんじゃないかって位に寒い。
あんた達吸血鬼は体が冷たいだけじゃないの。魂も心も冷たいから、こんな風になるのよ。だから他の生き物をこんなひどい目に合わせる事が出来るんだわ。
そして、あたしもそんな醜い生き物に変えられてしまう。だから決めたのよ、いつか誰かに滅ぼされるまで、吸血鬼を見つけたら片っ端から滅ぼしてやるって! いい考えでしょう? 吸血鬼を滅ぼすには吸血鬼の力を使うのが一番だわ」
ミルラはナイフを引き戻そうとしたがタンブル・ウィードの左手を貫いた銀の刃は、引く押すも叶わずぴくりとも動かない。
いや、それどころかバンパイアの肉体から不死の力を奪う筈の銀の刃が、一向にその効力を発揮しようとしないではないか。
「どうして? 銀の刃なのに」
「確かに銀は我らに有効な手立ての一つですが、私の存在を脅かすには至りません。ただそれだけの事。
ミルラ、自身を憎むのはそれだけでなく、自分を裁く事の出来ない自分がなによりの理由なのでしょう」
そうまで吸血鬼を憎み、吸血鬼たる自分を憎むのならば、自分を裁く選択肢もあるだろう。だがそれをしないと言う事は、ミルラに自らの命を断つ勇気が無いという事なのだ。
「わ、私の事を知った風な口を聞いて!」
ミルラが空いている左手を腰に差していた木の杭へと伸ばす。だがそれよりも早くタンブル・ウィードの右手が動いた。
タンブル・ウィードはミルラの首筋を掴むやミルラが抵抗する間もなく衣服の襟を引き千切り、首筋の吸血痕を月光の下に暴き立てる。
「な、なにを!?」
ミルラがさっと顔色を青くして抵抗しようとした時、正面からタンブル・ウィードと視線が交錯し、途端に指先から舌の付け根に至るまでがぴくりとも動かなくなる。
バンパイアの持つ催眠眼が、ミルラの肉体の支配権を奪い取ったのだ。
ミルラは目の前に立つ存在がバンパイアである事から、滅ぼされる以上にミルラにとって最悪の可能性を思い浮かべた。
「お、おま……え、あたしの……」
ミルラは見た。爛々と輝くタンブル・ウィードの赤い瞳を。月光さえも赤く染めて輝く忌むべき、しかし美しいと魂と共に吐露してしまいそうになる瞳であった。
「私とて夜の眷属のはしくれ。血への渇望が無いわけではないのです。
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「あ、か、止め……」
「自分で確かめなさい」
かつて一度だけ味わった恐怖と痛みとそして快楽とが首筋を貫き、ミルラの意識は暗黒の奈落へと落ちて行った
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