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5話 幻術の沼
4 猫とネズミ
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俺たちが外へ飛び出すと、2頭の荷馬がパグーロの群れに襲われていた。
パグーロは足を広げると2メートルくらいあるヤドカリみたいなモンスターだ。
とても力が強く、人間くらい簡単に持ち上げてしまう。また、ハサミで掴む力は凄まじく、馬の骨など簡単に砕いてしまうほどだ。
そのパグーロは10匹ほどで2頭の荷馬を引きずり倒し、肉を食らっている。
「どうやら幻覚じゃないらしいね! ヤーゴ! ドラン! 頼んだよ!」
アガタたちがパグーロをひっくり返し、比較的柔らかい腹側をヤーゴとドランが破壊していく。
ヤーゴは大きな盾の縁で叩き潰すように、ドランは戦斧で叩き切るように仕留めていく。なかなかのチームワークだ。
だが、俺も黙って眺めているわけにもいかない。
「シェイラは新手が来たら知らせてくれ」
俺はシェイラに警戒を指示し、パグーロに向かう。
弓使いのシェイラはパグーロ相手には相性が悪い。
今回はどうも彼女に活躍の機会が無いが、戦いには噛み合わせもある。これは仕方ないだろう。
俺もアガタらに負けじと槍でパグーロをひっくり返し、甲羅の継ぎ目から捻り込むように力を加え、槍を差し込んだ。
バキリバキリと音を立てて切っ先が食い込むと、ジタバタと足を動かしていたパグーロは糸の切れた繰り人形のように急に動きを止めた。
パグーロの動きは速くない。俺は次から次へと裏返し、槍で貫いていく。
3匹目の腹を突いたとき、バキィンと甲高い音を立て槍の穂先が折れた。
俺は勢い余ってバランスを崩し「おっと」と数歩たたらを踏む。
すると、すかさずドランが割り込み、中途半端にダメージを与えたパグーロの腹を斧で叩き割ってトドメを刺してくれた。
「ふん、刃物じゃパグーロは厳しかろう」
「助かったよ、俺も斧を買おうかな?」
ドランが俺の胸をドンと叩き「良く鍛えてある」と男臭い笑みを見せた。
どうやら認めてくれたようだが……俺は内心で『すいません、ドーピングです』と謝っておいた。
周囲を見渡すと戦闘は既に終わっているようだ。
このパグーロが最後だったらしい。
アガタはまだ息のある馬の傷を確認している。
「馬はどうだ? 馬がなきゃ荷車を動かせんぞ」
ヤーゴがアガタに尋ねた。
しかし、パグーロに襲われた馬は足を傷めているようだ。すでに立ち上がることも出来ない様子である。
アガタが「2頭とも駄目だね、楽にしてやろう」と剣を馬の首に突き立てた。
馬は悲しげに嘶(いなな)いたが、馬はデリケートで治療が難しい生き物だ。仕方の無い事でもある。
しかし、その瞬間、荷車から「何をしてやがる!?」と怒鳴りながらホアキンが飛び出してきた。
「この馬はな、俺の財産なんだよ!! 勝手な真似をするなっ!!」
ホアキンの剣幕は凄まじく、目は血走り、口からは泡を飛ばしている。明らかに様子がおかしい。
……正気じゃないな、幻覚に踊らされているのか?
俺はじっと周囲の気配を探ったが、魔貴族ハルパスの姿は確認できない。
5日に渡るハルパスの責め苦は、ホアキンの理性を根こそぎ奪い取ったのだろうか。捕らえていた魔族の子供が死んで堪忍袋の緒が切れたのかも知れない。
「どいつもこいつも愚図ばかりだ! お前らなんて雇うべきじゃ無かった!! お前らは俺の財産を減らしたいのか!! 俺に恨みがあるのかっ!?」
ホアキンの言葉に皆は呆れ果て、何も言わない。
この状況で頼みの綱である護衛を詰るなど正気を失っている。
「違うな? 狙ってやがるんだろう!? 俺を殺して積み荷を盗むつもりだったんだ!!」
ホアキンはアガタにつめより、口汚く罵っている。
彼の部下2人が鼻や口から血を流し、ふらふらと荷車から降りてきた。彼らはホアキンに散々に殴られたようだ。
「馬が無いならお前らで荷物を担げ! グズグズするんじゃねえ! そこの森人を捕まえろ! 魔族の代わりに売り飛ばしてやる!!」
ホアキンはシェイラを指差してアガタらに「捕まえろ」と命じた。
さすがにアガタらが協力するとは思えないが、これを無視することは出来ない。
俺は部外者であり、彼らの問題に口を挟むつもりは無かった。
だが、さすがにこれはアウトだろう。こちらに敵意を向けられては黙っていられない。
俺は色々と諦め「ふうーっ」とため息をつくと共に剣の柄に手を掛けた。
そしてアガタらを殺気で牽制しつつ、ホアキンに狙いを定める――その瞬間、アガタの鉄拳がホアキンを襲った。強かな打撃だ。
完全に不意を衝かれた様子のホアキンは悲鳴と共にひっくり返り、口からボタボタと血を流している。前歯が砕けたようだ。
「ふざけんじゃないよっ!! アタシらは隊商の護衛で雇われたんだ! 馬もない、人足もいない、もう隊商なんかどこにもありゃしないよ!! 依頼は失敗で仕舞いさ!!」
職務放棄だ。
当然、ホアキンの護衛を引き受けたことは彼女らの手帳にも記されているはずであり、ギルドには失敗の報告をする必要がある。
だが、それ以上に許せないことがあったのだろう。
彼女の仲間たちからも抗議の声は上がらない。
アガタはブルブルと震えていた。
彼女を突き動かした感情――それは怒りだろうか。
依頼を失敗した自らへの不甲斐なさ、強欲なホアキンへの怒り、様々な怒りがそこにはあったはずだ。
「な、何をしやがる! 冒険者ギルドには報告させてもら――」
ホアキンが上げた怒りの抗議は最後まで続かなかった。
彼の隊商の生き残り――もう2人となった男たちの片割れが短剣でホアキンを刺したのだ。何度も何度も、執拗に。
この行動には驚いたが、この男の目付きも異様だ。
先ほどのアガタの振る舞いと言い、皆が俺の見えない何かに衝き動かされているのかも知れない。
俺は「もう止めろ」と男を制した。ホアキンはとっくに動かなくなっている。
男はなおも訳の分からないことを喚いていたが、それに付き合う義理は無い。
俺はそのまま荷車へ進み、魔族の娘の亡骸を抱きかかえる。
軽い。人間なら、まだ8つかそこらの子供だ。
この気が狂った連中の中で憐れな娘の亡骸だけが唯一まともに見えた。
「子供を拐い、殺し、挙げ句の果てに他人を巻き込んで仲間割れかよ」
俺は不愉快だった。
だが、もっと不愉快で不安な思いをしているのはシェイラだろう。
あのような暴言を吐かれ、平静でいられるはずがない。
成り行きだったとは言え、ホアキンらと共に行動をすべきではなかったのかも知れない。
俺は自らの行動を後悔した。
本当に守るべきは彼女であったはずなのに、人間の嫌な部分ばかり見せてしまった。
「シェイラ、行くぞ」
彼女は無言でアガタらを振り返り、俺と共に歩み始めた。
アガタらは俺についてくるようだ。だが、無言である。
鬱蒼とした木々の間を歩むと、すぐその先に『それ』はいた。
人の骨格をもつ鳥、ハルパスだ。
……そうか、そうだったな。
俺はやっと彼の行動の意図が知れた。
ハルパスは幻術に長じ、人間同士を争わせることを好む。恐らくは人の手で誘拐犯を始末させるつもりだったのだろう。
長い時間をかけ、じわじわと判断力を奪い続けたのもこのためだったのだ。
愚かな人間たちの繰り広げる滑稽なショーは、さぞかし愉快だったに違いない。
誘拐犯は仲間に殺された。
本来ならばここで子供を返して一件落着だ……しかし、愚かにもホアキンたちは子供を殺してしまった。
これで見逃されるはずはない。
俺はゴクリと唾を飲み、覚悟を決めてハルパスに歩み寄った。
「すまない。こんなことになるとは思っていなかった」
謝ってもどうなるものでもないが、謝るしか無いのが現実だ。
俺は子供の亡骸をそっと地に下ろし、数歩下がった。
凄まじい恐怖と緊張だ。
目の前にいる魔族がその気になれば、俺など紙人形のように引き裂かれるだろう。
一瞬たりともハルパスから目が離せなかった。暑いはずなのに冷や汗が止まらない。
「ククク、古狐、お前は面白いな。どこまでお見通しなんだ?」
しゃがれ声でハルパスが笑う。
すると、死んでいたはずの子供がむくりと起き上がった。
……生き返った!? ハルパスの力か? いや、そもそも死んでないのか? それとも生き返った幻覚か?
俺は飛び上がらんばかりに驚き、目眩がするほど混乱したが、ぐっと堪え平静を装う。
この手の駆け引きで感情を面に出してはいけない。
ハルパスは「ククク」と愉快げに笑い、女の子を抱きかかえた。
いつの間にか鳥のような姿から、人間に近い姿となっている。
ハルパスの姿はヤギのような立派な角が異様ではあるが、それ以外は人間と変わらない。
褐色の肌、黒い瞳、黒い髪……俺と同じくらいの年頃にも見える。役者みたいな優男だ。
ナチュラルな感じに口髭を生やしており、髪型もボサボサだが、不潔と言うよりはワイルドでセクシーに見える。
「この姿を見せるのは親愛のしるしだと思って欲しい。キミの参加で舞台に厚みが出た、最後のセリフは胸を打ったよ。クックック」
ハルパスは実に嬉しげだ。
この物言いからすると、今の姿が本来のモノなのだろうか?
どうやら彼は俺に好感を持っているようだが……意味が分からない。
いや、そもそも魔族の考えを理解しようとしてはいけないのかも知れない。
「ハルパス、その子が死んだように見せていたのはあなたの幻術か?」
「いや、この子さ。幼くても我が眷族、疲れきった人の五感くらいは騙し得る」
種明かしをするハルパスは実に愉しげである。愉快でたまらないと言った風情だ。
この会話にも魔族に関する重大な情報がたくさんありそうだが、あまり今の俺には興味がない。
それよりも、早く逃れたい。俺は緊張で喉がカラカラ、少しでも気を抜けば恐怖で膝が震えだしそうだ。
「なるほど、魔族の女性には気を付けよう」
「クックック、それが良い。女は魔物さ」
それだけ言うと、いきなり何の前触れもなくハルパスと子供が消えた。
それこそ一瞬で、跡形もなく。
『1つ、望みを叶えてやるよ、古狐』
何処からともなく、声が聞こえた。
『だが、忘れるな。全ては幻さ。また会おう』
それだけ言い残すと、ハルパスは去ったらしい。
周囲の空気が軽くなったのを感じた。
……また会おうか、2度と御免だよ。
俺は「ふうーっ」と息を吐き、ガクリと片膝をついた。
緊張からの解放で力が抜け、立っていられなくなったのだ。膝がガクガクと震え、力が入らない。
生き残ったのではなく、遊ばれていた。猫がネズミをいたぶるように――見逃してもらえたのは猫の気まぐれに過ぎない。
踞るように動けなくなった俺の背に、シェイラが無言で抱きついてきた。
俺たちはしばし何も言えず、そのままの姿勢でいるのがやっとだった。
■■■■■■
パグーロ
足を広げたら2メートルを超す巨大ヤドカリ。湿地を好む性質がある。
デカすぎてフィットする貝が無いので背中の甲羅は自前らしい。ヤシガニに近い見た目だが木には登れない。
その巨体のためか動きは鈍いが凄まじい力を持っており、ハサミに掴まれたら人間など一溜まりもない。
雑食性で非常に攻撃的、危険なモンスターだが、美味として知られており高値で取引される。その人気はパグーロ捕獲専門の冒険者もいるほど。
パグーロとバターは相性が良く、茹でても焼いてもバターが添えられるようだ。
パグーロは足を広げると2メートルくらいあるヤドカリみたいなモンスターだ。
とても力が強く、人間くらい簡単に持ち上げてしまう。また、ハサミで掴む力は凄まじく、馬の骨など簡単に砕いてしまうほどだ。
そのパグーロは10匹ほどで2頭の荷馬を引きずり倒し、肉を食らっている。
「どうやら幻覚じゃないらしいね! ヤーゴ! ドラン! 頼んだよ!」
アガタたちがパグーロをひっくり返し、比較的柔らかい腹側をヤーゴとドランが破壊していく。
ヤーゴは大きな盾の縁で叩き潰すように、ドランは戦斧で叩き切るように仕留めていく。なかなかのチームワークだ。
だが、俺も黙って眺めているわけにもいかない。
「シェイラは新手が来たら知らせてくれ」
俺はシェイラに警戒を指示し、パグーロに向かう。
弓使いのシェイラはパグーロ相手には相性が悪い。
今回はどうも彼女に活躍の機会が無いが、戦いには噛み合わせもある。これは仕方ないだろう。
俺もアガタらに負けじと槍でパグーロをひっくり返し、甲羅の継ぎ目から捻り込むように力を加え、槍を差し込んだ。
バキリバキリと音を立てて切っ先が食い込むと、ジタバタと足を動かしていたパグーロは糸の切れた繰り人形のように急に動きを止めた。
パグーロの動きは速くない。俺は次から次へと裏返し、槍で貫いていく。
3匹目の腹を突いたとき、バキィンと甲高い音を立て槍の穂先が折れた。
俺は勢い余ってバランスを崩し「おっと」と数歩たたらを踏む。
すると、すかさずドランが割り込み、中途半端にダメージを与えたパグーロの腹を斧で叩き割ってトドメを刺してくれた。
「ふん、刃物じゃパグーロは厳しかろう」
「助かったよ、俺も斧を買おうかな?」
ドランが俺の胸をドンと叩き「良く鍛えてある」と男臭い笑みを見せた。
どうやら認めてくれたようだが……俺は内心で『すいません、ドーピングです』と謝っておいた。
周囲を見渡すと戦闘は既に終わっているようだ。
このパグーロが最後だったらしい。
アガタはまだ息のある馬の傷を確認している。
「馬はどうだ? 馬がなきゃ荷車を動かせんぞ」
ヤーゴがアガタに尋ねた。
しかし、パグーロに襲われた馬は足を傷めているようだ。すでに立ち上がることも出来ない様子である。
アガタが「2頭とも駄目だね、楽にしてやろう」と剣を馬の首に突き立てた。
馬は悲しげに嘶(いなな)いたが、馬はデリケートで治療が難しい生き物だ。仕方の無い事でもある。
しかし、その瞬間、荷車から「何をしてやがる!?」と怒鳴りながらホアキンが飛び出してきた。
「この馬はな、俺の財産なんだよ!! 勝手な真似をするなっ!!」
ホアキンの剣幕は凄まじく、目は血走り、口からは泡を飛ばしている。明らかに様子がおかしい。
……正気じゃないな、幻覚に踊らされているのか?
俺はじっと周囲の気配を探ったが、魔貴族ハルパスの姿は確認できない。
5日に渡るハルパスの責め苦は、ホアキンの理性を根こそぎ奪い取ったのだろうか。捕らえていた魔族の子供が死んで堪忍袋の緒が切れたのかも知れない。
「どいつもこいつも愚図ばかりだ! お前らなんて雇うべきじゃ無かった!! お前らは俺の財産を減らしたいのか!! 俺に恨みがあるのかっ!?」
ホアキンの言葉に皆は呆れ果て、何も言わない。
この状況で頼みの綱である護衛を詰るなど正気を失っている。
「違うな? 狙ってやがるんだろう!? 俺を殺して積み荷を盗むつもりだったんだ!!」
ホアキンはアガタにつめより、口汚く罵っている。
彼の部下2人が鼻や口から血を流し、ふらふらと荷車から降りてきた。彼らはホアキンに散々に殴られたようだ。
「馬が無いならお前らで荷物を担げ! グズグズするんじゃねえ! そこの森人を捕まえろ! 魔族の代わりに売り飛ばしてやる!!」
ホアキンはシェイラを指差してアガタらに「捕まえろ」と命じた。
さすがにアガタらが協力するとは思えないが、これを無視することは出来ない。
俺は部外者であり、彼らの問題に口を挟むつもりは無かった。
だが、さすがにこれはアウトだろう。こちらに敵意を向けられては黙っていられない。
俺は色々と諦め「ふうーっ」とため息をつくと共に剣の柄に手を掛けた。
そしてアガタらを殺気で牽制しつつ、ホアキンに狙いを定める――その瞬間、アガタの鉄拳がホアキンを襲った。強かな打撃だ。
完全に不意を衝かれた様子のホアキンは悲鳴と共にひっくり返り、口からボタボタと血を流している。前歯が砕けたようだ。
「ふざけんじゃないよっ!! アタシらは隊商の護衛で雇われたんだ! 馬もない、人足もいない、もう隊商なんかどこにもありゃしないよ!! 依頼は失敗で仕舞いさ!!」
職務放棄だ。
当然、ホアキンの護衛を引き受けたことは彼女らの手帳にも記されているはずであり、ギルドには失敗の報告をする必要がある。
だが、それ以上に許せないことがあったのだろう。
彼女の仲間たちからも抗議の声は上がらない。
アガタはブルブルと震えていた。
彼女を突き動かした感情――それは怒りだろうか。
依頼を失敗した自らへの不甲斐なさ、強欲なホアキンへの怒り、様々な怒りがそこにはあったはずだ。
「な、何をしやがる! 冒険者ギルドには報告させてもら――」
ホアキンが上げた怒りの抗議は最後まで続かなかった。
彼の隊商の生き残り――もう2人となった男たちの片割れが短剣でホアキンを刺したのだ。何度も何度も、執拗に。
この行動には驚いたが、この男の目付きも異様だ。
先ほどのアガタの振る舞いと言い、皆が俺の見えない何かに衝き動かされているのかも知れない。
俺は「もう止めろ」と男を制した。ホアキンはとっくに動かなくなっている。
男はなおも訳の分からないことを喚いていたが、それに付き合う義理は無い。
俺はそのまま荷車へ進み、魔族の娘の亡骸を抱きかかえる。
軽い。人間なら、まだ8つかそこらの子供だ。
この気が狂った連中の中で憐れな娘の亡骸だけが唯一まともに見えた。
「子供を拐い、殺し、挙げ句の果てに他人を巻き込んで仲間割れかよ」
俺は不愉快だった。
だが、もっと不愉快で不安な思いをしているのはシェイラだろう。
あのような暴言を吐かれ、平静でいられるはずがない。
成り行きだったとは言え、ホアキンらと共に行動をすべきではなかったのかも知れない。
俺は自らの行動を後悔した。
本当に守るべきは彼女であったはずなのに、人間の嫌な部分ばかり見せてしまった。
「シェイラ、行くぞ」
彼女は無言でアガタらを振り返り、俺と共に歩み始めた。
アガタらは俺についてくるようだ。だが、無言である。
鬱蒼とした木々の間を歩むと、すぐその先に『それ』はいた。
人の骨格をもつ鳥、ハルパスだ。
……そうか、そうだったな。
俺はやっと彼の行動の意図が知れた。
ハルパスは幻術に長じ、人間同士を争わせることを好む。恐らくは人の手で誘拐犯を始末させるつもりだったのだろう。
長い時間をかけ、じわじわと判断力を奪い続けたのもこのためだったのだ。
愚かな人間たちの繰り広げる滑稽なショーは、さぞかし愉快だったに違いない。
誘拐犯は仲間に殺された。
本来ならばここで子供を返して一件落着だ……しかし、愚かにもホアキンたちは子供を殺してしまった。
これで見逃されるはずはない。
俺はゴクリと唾を飲み、覚悟を決めてハルパスに歩み寄った。
「すまない。こんなことになるとは思っていなかった」
謝ってもどうなるものでもないが、謝るしか無いのが現実だ。
俺は子供の亡骸をそっと地に下ろし、数歩下がった。
凄まじい恐怖と緊張だ。
目の前にいる魔族がその気になれば、俺など紙人形のように引き裂かれるだろう。
一瞬たりともハルパスから目が離せなかった。暑いはずなのに冷や汗が止まらない。
「ククク、古狐、お前は面白いな。どこまでお見通しなんだ?」
しゃがれ声でハルパスが笑う。
すると、死んでいたはずの子供がむくりと起き上がった。
……生き返った!? ハルパスの力か? いや、そもそも死んでないのか? それとも生き返った幻覚か?
俺は飛び上がらんばかりに驚き、目眩がするほど混乱したが、ぐっと堪え平静を装う。
この手の駆け引きで感情を面に出してはいけない。
ハルパスは「ククク」と愉快げに笑い、女の子を抱きかかえた。
いつの間にか鳥のような姿から、人間に近い姿となっている。
ハルパスの姿はヤギのような立派な角が異様ではあるが、それ以外は人間と変わらない。
褐色の肌、黒い瞳、黒い髪……俺と同じくらいの年頃にも見える。役者みたいな優男だ。
ナチュラルな感じに口髭を生やしており、髪型もボサボサだが、不潔と言うよりはワイルドでセクシーに見える。
「この姿を見せるのは親愛のしるしだと思って欲しい。キミの参加で舞台に厚みが出た、最後のセリフは胸を打ったよ。クックック」
ハルパスは実に嬉しげだ。
この物言いからすると、今の姿が本来のモノなのだろうか?
どうやら彼は俺に好感を持っているようだが……意味が分からない。
いや、そもそも魔族の考えを理解しようとしてはいけないのかも知れない。
「ハルパス、その子が死んだように見せていたのはあなたの幻術か?」
「いや、この子さ。幼くても我が眷族、疲れきった人の五感くらいは騙し得る」
種明かしをするハルパスは実に愉しげである。愉快でたまらないと言った風情だ。
この会話にも魔族に関する重大な情報がたくさんありそうだが、あまり今の俺には興味がない。
それよりも、早く逃れたい。俺は緊張で喉がカラカラ、少しでも気を抜けば恐怖で膝が震えだしそうだ。
「なるほど、魔族の女性には気を付けよう」
「クックック、それが良い。女は魔物さ」
それだけ言うと、いきなり何の前触れもなくハルパスと子供が消えた。
それこそ一瞬で、跡形もなく。
『1つ、望みを叶えてやるよ、古狐』
何処からともなく、声が聞こえた。
『だが、忘れるな。全ては幻さ。また会おう』
それだけ言い残すと、ハルパスは去ったらしい。
周囲の空気が軽くなったのを感じた。
……また会おうか、2度と御免だよ。
俺は「ふうーっ」と息を吐き、ガクリと片膝をついた。
緊張からの解放で力が抜け、立っていられなくなったのだ。膝がガクガクと震え、力が入らない。
生き残ったのではなく、遊ばれていた。猫がネズミをいたぶるように――見逃してもらえたのは猫の気まぐれに過ぎない。
踞るように動けなくなった俺の背に、シェイラが無言で抱きついてきた。
俺たちはしばし何も言えず、そのままの姿勢でいるのがやっとだった。
■■■■■■
パグーロ
足を広げたら2メートルを超す巨大ヤドカリ。湿地を好む性質がある。
デカすぎてフィットする貝が無いので背中の甲羅は自前らしい。ヤシガニに近い見た目だが木には登れない。
その巨体のためか動きは鈍いが凄まじい力を持っており、ハサミに掴まれたら人間など一溜まりもない。
雑食性で非常に攻撃的、危険なモンスターだが、美味として知られており高値で取引される。その人気はパグーロ捕獲専門の冒険者もいるほど。
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