猟犬クリフ

小倉ひろあき

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3章 中年期

閑話 クリフ受難

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 季節は秋から冬に移ろうとしており、妙に肌寒い時期となった。


「これ、ルイーザや……ルーちゃんや」

 最近のクリフはルイーザと名付けられたバーニーの娘に夢中である。

 今日もギルドの仕事を終えるやすぐに帰宅し、ベタベタと抱っこをしたりオムツを替えたりと甲斐甲斐しく世話をしている。

「旦那様、勿体(もったい)ねえですよ……」

 母親のジーナは恐縮しきっているのだが「あれが趣味なのよ」とハンナからも言われ、クリフの好きにさせてくれている。

「可愛いなあ……将来は美人になりそうだ」

 クリフはうっとりとルイーザを抱いて夢見心地になっていた。

 カッ、カツッ、と木剣を打ち合う音が聞こえる。

 庭では姪(めい)の顔を見に来たゲリーが、バーニーと剣の稽古をしていた。

 ゲリーは若手冒険者では随一の実力者ではあるが、バーニーは全く引けを取らない。

 実力が伯仲した両者の稽古には熱が入る。

 クリフが見るところによれば2人の剣質は全く違う。

 ゲリーは力持ちであり、言わば剛剣、正々堂々と全く小細工をしない剣である。

 バーニーはどちらかと言えばクリフに近い。手裏剣や目眩ましなどの小細工も用いるタイプである。

 自然と、木剣を用いての稽古ではゲリーに軍配が上がる。

 だが、ゲリー自身もバーニーよりも優れているとは思っておらず、こうして度々に稽古をしているのだ。

……精が出るなあ。

 クリフはルイーザを抱きながらぼんやりと稽古を眺める。

 実はクリフやハンナの薫陶(くんとう)を受け続けたバーニーの実力はかなりのモノであり、クロフト家や衛兵隊からもスカウトを受けている。
 冒険者となっても、即座に一流に近い活躍をするだろう。

 しかし、本人にその気がないのである。
 恩を受けたクリフに仕えたいと心の底から考えているようで、妻のジーナ共々にクリフとハンナに尽くしている。

……欲の無さがバーニーの欠点だな……

 バーニーの稽古を見てクリフは思う。
 野心とは向上心でもあり、今の境遇に満足しきっているバーニーを見て、クリフは勿体無(もったいな)いなと感じるのだ。

 突然、クリフの腕の中でルイーザが泣き出した。

「ああ、お乳(ちち)かな? ルーちゃんはお腹が空いたのかい?」

 クリフは猫なで声でルイーザに話し掛け、名残惜しそうにジーナに返した。


 その瞬間である。


「うっ、痛(つう)っ!」

 クリフは腹部に激痛を感じて踞(うずくま)った。

……これは、いかんな……とにかく横にならねば……

 すこし身を起こすと猛烈な吐き気を催した。
 ふらつきながら立ち上がろうとするが、激痛に妨げられ身動きができない。

「旦那様っ!? バーニーっ! 兄(あん)ちゃん! 旦那様がっ!」

 ジーナが慌てて庭の2人を呼び寄せる。

「ぐ……大丈夫だ、ほら、ルイーザが泣いているぞ……」

 クリフがジーナを安心させようと声を掛けるが、その顔は真っ青だ。

「クリフっ!? どうしたのっ!?」

 ハンナも慌てて家から飛び出してきた。

「大丈夫だ……少し差し込み(腹痛)がしただけだよ」
「旦那様、動いてはいけません、ゲリー、そっちを抱えてくれ」

 クリフはバーニーとゲリーに両側を支えられて寝室に運ばれる。

「すまんな……少し、休むとするよ」

 クリフはそう言うと、ベッドに倒れ込み、腹を抱えて苦しみ出した。

 バーニーが医者まで走ったようだ。

……これはただ事ではない……駄目かも知れんな……

 クリフは唸(うな)りながら、ハンナの様子を見る。
 ハンナはおろおろと狼狽(うろた)えている。

「……ハンナ、俺が死んだらクロフト村に戻れ……ギルドはギネスとヘクターに任せれば良い……」
「嫌よっ! クリフっ! そんなこと言わないでっ!」

 クリフが息も絶え絶えにハンナに声をかける、これは遺言(ゆいごん)である。

 ハンナは涙ながらにクリフにすがり付いた。

「ゲリー、バーニーとジーナを頼むぞ」
「だだだだ旦那様っ! 弱気になってはだだ駄目です!」

 ゲリーは未だにクリフのことを旦那様と呼ぶ、何度クリフが嗜(たしな)めても直らないのは癖になっているのだろう。

「ぐうぅ……痛つぅ……」

 だんだんと痛みに耐えれなくなったクリフが喘(あえ)ぎ出した。
 誰も見ていなければ大声を出しながら、のたうち回っているであろう激痛だ。

 しかし、心配げに見つめる皆の気持ちを考えれば我慢するしかないと、クリフは必死に痛みを堪(こら)えていた。



………………



「これは石です」

 クリフを診断した医者が断言した。

 触診や問診で確信を得たのだろう、自信ありげな表情をしている。

「石? 石って石ころ?」

 ハンナが不思議そうな顔をした……クリフは痛みに喘ぎ通しである。

 クリフの腹痛は今で言うところの尿管結石である。

「はい、体に石が出来ると激痛を起こすのです……そのうちに尿と共に体から出れば良し、出なければ腹を割(さ)いて取り出さねばなりません」

 ハンナが真っ青になった。

 古来から結石の除去手術はヨーロッパでも行われていたが、麻酔もなく細菌の知識もない時代の手術は多くの場合、死を意味した。
 正(まさ)に一か八かの賭けである。

「そんな……ああ……クリフ……」

 ハンナが倒れ込むように床にへたりこんだ。

「奥様、腹を割くのは最後の手段です。痛み止めと尿が増える薬を出しますので様子を見ましょう……中には石が出ずに治まることもございますので」

 医者が気休めを言い、急いで帰っていく。薬を作りに向かったのだろう。

 ハンナはクリフにしがみついてヒックヒックとしゃくり泣いている。

 クリフはハンナを慰めてやりたいが苦痛に歪む表情ではかえってハンナを心配させるだけだと思い、必死で痛みに耐えている。

 そして医者が尿と共に石が出ると言っていたのを思いだし、ゲリーに支えられて便所に行き、小便をする。

 見たこともないような真っ赤な小便が出た……石は出ないようだ。

 これには体を支えていたゲリーも青くなった。

「ゲリーよ、明日、ギルドに行って、事情を伝えてきてくれ……ギネスを支配人の代理とするように……」
「わわわかりました」

 クリフはふらふらとベッドに戻り、丸まって痛みに耐える。

「ジーナとルイーザは決して母屋に近づけるなよ」

 そして、思い出したようにクリフは顔をしかめながらハンナとゲリーに言いつけた。


 この時代、ウィルスは発見されていないが、病人と接すれば病が感染することは経験則として知られていた。

 この時代の感染とは、病人の周りに存在する瘴気(しょうき)という悪い空気を吸い込んで病が伝染すると考えられていたのである。
 つまり病人であるクリフの周囲には瘴気が発生しており、これを吸うのは危険だと考えられていたのだ。
 都市などの人工密集地で伝染病が拡大するのも、衛生環境が悪く、瘴気が充満しているからだとされていた。

 当たり前だが、尿管結石が感染することはない。

 だが、悪い空気が充満する不衛生な場所に伝染病が発生しやすいのは事実であり、そう馬鹿にした考え方でも無い。
 汚染された地域に行けば病気になるという、原因と結果だけをとれば正しいのだ。

 この瘴気という概念は顕微鏡が発明されるまでは主流であり続けたのである。

 この時代ではクリフはむしろ、祟(たた)りや呪(のろ)いとか言い出さない開明的な思考の持ち主であると言える。



………………



 どれほど時間が経っただろうか……医者が戻ってきたようだ。

 クリフは痛み止めを飲むと、腹痛も和(やわ)らいできたようだ。

「痛みが下(した)に下(した)にと下(さ)がるようなら石が落ちる予兆です。とにかく石を流すことです、たくさん水を飲みなされ」
「お騒がせしました……楽になりました」

 クリフが礼を述べると、医者は「お大事に」と退出した。

……やれやれ、石とはな……

 クリフは自分の腹をさするが、石の様子など判るはずがない。

 楽になったとは言え腹痛は治まらない。

「……クリフっ、お願い、死なないで」
「ハンナ、俺はハンナより9才も年上なんだ……こういうこともあるさ」

 ハンナがクリフにすがるように泣いている。

 現代人からすれば尿管結石くらいでなんだと呆れるだろうが、医学の知識が無い者が突然の激痛に襲われては死を覚悟するのは無理も無いだろう。

 インフルエンザや虫垂炎(盲腸)で容易く人が死ぬ時代なのだ……現代人には想像もつかぬほど死とは身近なものなのである。



………………



 翌日


 クリフが浅い眠りから覚めると、痛みは嘘のように引いていた。昨日の痛みでよく眠れたものだと思うが、薬には眠り薬も入っていたのかもしれない。

 ベッドの横ではハンナがうつ伏せるように居眠りしている。
 ハンナを起こさぬように、そっとクリフは着替え、小便をした。

……まだ少し血が混ざっているようだ……石は出ないが……

 クリフが寝室に戻るとハンナが抱きついてきた。

「クリフっ! ……良かった……クリフがいないから心配したわ」
「すまない……痛みは治まったみたいだ。あの医者は名医だな 」

 バーニーが連れてきた医者は、貴族や大店(おおだな)を相手にする名医で、料金も高いが腕も確かであった。

「良かった。本当に良かったわ」

 ハンナがポロポロと涙を溢(こぼ)しながら笑っている。

「でも寝てなきゃ駄目、お医者さんは痛みは下(した)に下(お)りてくると言っていたわ」

……そうだった……あの痛みを繰り返すのか……?

 クリフはゾッとした悪寒を感じ、身を震わせた。



………………



 4日後


 クリフは完全に痛みを感じなくなっていたので、前日からギルドにも復帰し、普段通りの生活を送っていた。

 すでにクリフは腹の中にある石の存在すら忘れかけている……この時代に誤診は当たり前のことであり、クリフもハンナも完治したと思いかけていたのだ。


 ズキン


 クリフは下腹部に嫌な痛みを感じた。

……これは、不味い……!

「ぐ、マリカ……すまないがハンナに『石』と伝えてくれ」

 これだけを伝えてクリフは便所に向かう。
 この痛みは尿意と共にやって来たのだ。

「あだっ !痛(いた)っ! いだだたたたた!」

 便所からクリフの悲鳴が響き渡る。

 尿道に石が引っ掛かっており、排尿と共に激痛を引き起こしているのだ。

「あがっ! あだだだだ」

 本来ならば一気に排尿をして石を押し出してしまえば良いのだが、痛みを伴うために小出しにしかできないのだ……これは苦しい。

 クリフのものからはチョロチョロと鮮血に近い血尿が迸(ほとばし)る。

「痛(つう)! つつつ! かはっ!」

 クリフは個室に入っているために気がねなく悲鳴を上げているが、実は外には丸聞こえだ。

 周囲の者がざわつき出した。

「ちょっと! クリフっ! 大丈夫なのっ!?」

 ハンナがクリフの悲鳴を聞き付け便所の中に呼び掛ける。

……しまった、声が漏れていたか……

 クリフは個室の中で自分の迂闊(うかつ)さを恥じた。

 排尿を済ませ、ガチャリと便所から出てきたクリフは明らかに憔悴(しょうすい)している。

「ハンナ……出ないんだ、ちょっと引っ掛かってるみたいで……」

 クリフが弱々しく呟くと、ハンナが「見せて」と言い出した。

「いや、駄目だよ……家に帰ってからでいいだろ?」
「執務室で見るわ。あのクリフの苦しみ方はただ事じゃないわ」

 ハンナはクリフの言葉を半ば無視して執務室へと向かう。

「駄目だって、引っ掛かってるのは…………なんだよ」
「えっ? 何?」

 ハンナがクリフに聞き返す。仕方なしにクリフはハンナにひそひそと耳打ちをした。

「えーっ!? おチンチンに!?」
「だから声が……駄目だって」

 ハンナがはしたなくも男性器の名を口にし皆の視線を集める。

「あの、兄貴? 大丈夫ですかい?」

 心配げなギネスが話しかけてくるが「大丈夫よっ」とハンナが答え、クリフを引き摺(ず)るように執務室へと入っていく。

「マリカちゃん、ちょっと出ていてね。覗(のぞ)いちゃ嫌よ」

 ハンナはマリカを追い出してバタンと戸を締める。

「クリフ、出して」
「ええ? 本当にか……参ったな」

 クリフは渋々といった風情でズボンを下ろし、クリフ自身を露出させる。

「どのあたりなの?」
「この……裏の……」

 ハンナがクリフ自身を根本からグッグッと確認していく……するとコリコリとした感触に当たる。

「痛っ、それだよ……あまり触るな」

 クリフが痛みに顔をしかめた。

 すると、ハンナが何を思ったのかググッと結石を押した。


 ギルド内にクリフの絶叫が響き渡った。


 これに仰天したのはギネスだ。

 彼は20年近くにもなるクリフとの付き合いで、このようなクリフの声は聞いたことが無かった。

 なにしろクリフは剣で脇腹を抉(えぐ)られても悲鳴などは上げたことは無いのだ。

「大丈夫ですかい!?」

 ただ事では無いと察し、ギネスは執務室に飛び込む

 すると、そこにはクリフ自身を掴むハンナと、涙を流して苦しむクリフの姿があった。

「え?」
「え?」

 ギネスとハンナが顔を見合わせて不思議そうな顔をした。
 お互いに状況を理解していない。

「何してるんですかっ!」
「信じられません!」

 マリカとジュディが執務室を覗(のぞ)いて抗議の声を上げる。

 確かに状況だけを見ればクリフとハンナが執務室で淫らな行いをしていたようにしか見えないだろう。


 クリフはこの誤解を解くのに苦労しなければならないが、今はそれどころでは無かった。



………………



 翌日


 クリフはギルドを休んだ。

 医者に処方された利尿作用のある薬と、大量の水を飲んだクリフは何度も便所に行く。

 クリフは小便のたびに痛みに耐えてウンウンと呻(うめ)いている。

……痛いが、もうあんな目にあうのは御免だ……

 クリフはこの一心で水を飲み、便所に行き、耐える。

 尿道に石が引っ掛かる痛みは経験者にしか分かるまい。
 ささくれた木片が尿道を通るかのような苦痛が続くのだ。

……あっ、何か……あれ?

 クリフは石が一気に動いたことを知覚した。

 カツン

 それはクリフから石が産まれ出た瞬間であった。

……でた……本当に石が出た……

 クリフは恐る恐る石を回収し、念入りに洗った後にしげしげと眺めた。

 全長9ミリほどの水滴形の半透明の結晶……これの表面にギザギザと禍々(まがまが)しい突起が生えている。

……むう、痛いはずだな……トゲトゲじゃないか……それにしてもこんなに大きいのが通るものなのか……

 クリフは人体の不思議に触れて妙な感動を覚えていた。


 そして、この石をハンナやバーニーらに見せびらかす。

「意外と大きいのね」
「もっと丸いのかと思ってました」
「とととトゲがついてる、ちち血が出るはずだ」

 皆も不思議そうな顔で小さな石をまじまじと眺めていた。

 識字率も低く、情報がほとんど伝わらない時代である……人体から石が産まれ出たとはある種の奇跡のように感じたに違いない。


 ハンナは何故かこの結石を大変に気に入り、綿にくるみ手紙を添えて娘のエリーに郵送した。


 娘(エリー)が父(クリフ)の尿管に生まれた石を見て何を思ったのかは定かではない。
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