猟犬クリフ

小倉ひろあき

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2章 壮年期

閑話 女性剣士の死

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 暮れも押し詰まる年の瀬の頃である。

 ハンナは最近、あれほど好んでいた剣術をピタリと止めた。

 理由は明白である、生理が来ないのだ。

……ひょっとしたら、赤ちゃんが出来たかも。でも、悪阻(つわり)とか無いし……

 ハンナはクリフにも、この事実は伝えていない。
 だが、明らかにハンナの行動が変わったのは気づいているだろう。

 今日もハンナはエリーを連れてベルタの事務所に向かう。
 ベルタからエリーが文字の読み書きや計算を習っているのだ。

「お母さん、今日も一緒にいられるの?」
「うん、一緒に行こ。」

 仲の良い姉妹のようにハンナはエリーと並んで歩く。

 エリーも普段はあまり一緒にいられないハンナとの時間がとれてご機嫌である。
 エリーは9才になったばかりだ、母親に甘えたい時もあるだろう。

 エリーは最近、3才未満の記憶が薄れ、クリフとハンナのことを実の両親だと思い始めていた。
 また、後ろを歩く従者のバーニーもエリーはクリフとハンナの実子だと思っている。

 ちなみに、バーニーはハンナやエリーと並んで歩くことは無い。貴族であるハンナはバーニーの扱いには意外なほど厳しいのだ。

「ねえ、まだお父さんには内緒にしてほしいんだけど……」
「お母さん、なに?」

 ハンナは幸せそうにはにかみながら、エリーに「耳をかして」と内緒話をした。

「実はね、赤ちゃんが出来たかもしれないの。」
「ええ! 本当っ!?」

 エリーが飛び上がって驚いた。

「えーと、男の子? 女の子?」
「まだ判らないわ、うふふ」

 キャピキャピとした雰囲気で母子はベルタの事務所に向かう。
 ハンナはまだ23才、現代日本であれば社会人1年生である……まだまだ若いのだ。


…………


 2人はにこにことしながらベルタの事務所に着いた。
 従業員に誘(いざな)われ、奥の応接間に通される……応接間とは名ばかりで、今はキッズルームのような様相を呈している。

 ベルタは金貸しを営んでいる女性で、冒険者ギルドの支配人(ギルドマスター)であるヘクターの情婦(おんな)だ。
 3ヶ月前に第2子を出産したが、母子ともに健康である。

「いらっしゃい、エリーちゃん。今日もお母さんと一緒で嬉しいわね。」
「はい、先生よろしくお願いします。」

 エリーは読み書きを習う代わりに、ベルタの子のバートの面倒を見ることになっている。
 バートは4才の男の子で、ベルタに良く似た可愛らしい顔立ちとヘクターに良く似た銀髪である……成長すればさぞや美男に成長するであろうと思われる。

「おねえちゃん、きょうはダリルもくるんだよ。」
「それは楽しみね。うふ、後で赤ちゃんも見たいな。」

 ダリルとは、凄腕の冒険者のスジラドとドーラの3才になる息子だ。

 「赤ちゃん」とは、3か月前に産まれたバートの弟、バリーの事である。

「今はね、バリーは寝ているわ。」

 ベルタの言葉を聞いたエリーは顔を輝かせる。
 今日のエリーは赤ちゃんに興味津々だ。

「あのね、先生、うちにも赤ちゃんが産まれるのよ。妹だといいな。」
「あら! ハンナさん、やっぱりそうだった?」

 ハンナが「いや、あはは」と頭を掻く。

「エリー、まだ内緒って言ったでしょ!」
「違うよ! お父さんには内緒って言ったよ!」

 ハンナの叱責に、エリーは頬を膨らませて抗議をする。
 ハンナも負けじとプクッと頬を膨らます姿は、はた目には中々コミカルであり、ベルタは笑いを堪(こら)えるのに必死である。

 そうこうしているうちに、ドーラがダリルを抱いてやって来た。
 ベルタとドーラは所謂(いわゆる)ママ友である。

「おや、勢揃いだね。」
「ドーラさん、お母さんったら酷いのよっ!」

 早速、エリーがドーラに助けを求める。凄腕の女冒険者として鳴らした鬼姫ドーラは実は優しいお母さんなのは周知の事実であり、子供たちにも大人気なのだ。

「おやおや、仲良し親子が喧嘩かい?」

 ドーラは優しくエリーの頭を撫でながら、苦笑した。


…………


 子供たちは集まって何やら初め、お母さんたちは3人で世間話をはじめる。俗に言う井戸端会議と言うやつだ。

「それで、生理がこないけど悪阻(つわり)もないし……」
「ハンナさん、悪阻は無い人もいるわよ。念のために大事にして、来月くらいから産婆さんに見てもらった方が良いわ。」

 ベルタの言葉に「うんうん」とドーラが同意した。

「4年半も待ったんだし、アンタに何かあったら旦那さんが可愛そうだしね。体を冷やしたらダメだよ。」

 ドーラもハンナに体をいたわるように注意を促した。

 しばらくすると、事務所から年若い少女が飲み物を持ってきてくれた。
 この少女はコリーン……先日、ロッコと行方知れずになったコレットの妹で13才になる。
 行き先もない彼女はベルタの事務所で預かることになったようだ。

「ありがとうコリーン……紹介するわね、ウチで手伝ってもらうことになった若い子よ。」

 コリーンがたどたどしい挨拶をすると、ドーラは「ああ」と素っ気ない返事をし、ハンナは「あら、そう」と言ったのみだ。

 ドーラは元々無愛想だし、ハンナは使用人に興味が無いのだ……これはハンナが特別なのでは無く、貴族なら一般的な感覚である。
 貴族にとっては使用人は人間の形をしている「便利なもの」なので使用人の前で平気で性交したり排泄したりする者もいるほどだ。

 ベルタは苦笑して「ありがとうね」とコリーンを労(ねぎら)った。

 コリーンは何とも言えぬ、曖昧な表情で頭を下げ、退出した。


…………


 主婦の会話というのは、不思議なほどに尽きぬものである。

「変な話なんだけど、妊娠中にしてもいいのかしら? その、アレを。」

 ハンナの疑問にベルタとドーラが色々な意見を交わし、いつの間にやら性生活の話題になる。

「最近、クリフ疲れててさ……(1日)3回くらいしかしてないんだ。」
「うーん、(月に)3回は淋しいね。」

 ドーラの言葉にベルタも頷く。

「まあ、クリフさんが浮気とかするはずもないし、お疲れなのね。」
「うん……結婚した時は私が気絶するまでしてたんだけど……」

 ベルタとドーラが「「ええ!?」」と食いつく。

「やっぱり少ないよね、夜に2回しかしないし……起きたときなんて1回だけなんて……私も頑張って誘うんだけど。はあ、自信無くしちゃうな。」

 ベルタとドーラがゴクリと唾を飲む。

「凄いのね、クリフさんて。」
「気絶するまで? ……1回貸して欲しいもんだね……」

 3人の会話はまだまだ続くようだ。


…………


 午後になり、ハンナとエリーは家に戻る

 バーニーは夕飯の買い出しである……バーニーは諸事に器用で買い物などでしくじる事は先ずは無い。
 マカスキル王国では商品の定価などは無い……全ては相場のうちでの交渉である。いわゆる掛け値などは当たり前のことで、買い物上手は大いに有用な技術である。
 
 やがてクリフが帰ってくるとバーニーも帰宅し、夕飯となる。
 使用人であるバーニーは同じテーブルで食べることは無いが、基本的には同じ内容の食事である。

「なあ、ハンナ……ロッコのことだが、やはり手配されることになりそうだ。」
「そう。ロッコならその辺の賞金稼ぎなんか目じゃないわね、すぐに大物になるわよ。」

 このハンナの言葉にクリフはため息をつく。

 クリフはロッコが賞金首として自らが教えた技術を振るうことに胸を痛めているのだが、ハンナには気にもならないのだ……ハンナにとって剣技の使い道に興味はあまり無い。
 彼女にとって重要なのは剣技そのものであり、使い方は人それぞれで良いのだと本気で思っているのだ。

「そうは言っても、心配だろう? 女連れで逃げているんだ。」
「そうね、でも助けようもないわね。賞金額は?」

 ハンナは単純(のうきん)であり、あまり物事を悩まない性質(たち)である。
 考える必要が無いと思ったら、思考をそこで止めてしまうのだ……ある意味で得難(えがた)い資質である。

「うん、何しろ9人も殺して4人も怪我をさせている……逃走資金だと思うが、金も相当な額を盗んでるし、下手すれば女も誘拐扱いになるかもしれない……2万半から3万だな。」

 賞金額は徐々に上がるものであり、スタートラインとしてこの金額はかなりの高額である。
 何しろ13人を殺傷した強盗殺人事件である。凶悪犯だ。

「ねえ、クリフ……私も話があるの。今日からお臍(へそ)比べは当分しないわ。」
「え? うん。」

 クリフとエリーが不可解な顔をするが、意味は違う。

「実はね、赤ちゃんが……出来たかもしれないの。」
「そうか! そうか……名前を考えないとな。」

 クリフの喜びを見て、ハンナは少し不安になる……まだ確定では無いのだ。

「クリフ、多分だから、その……」
「ああ、分かってるよ。でも嬉しいんだ。」

 夕食のテーブルは一気に明るいものになった。

 クリフの一生で、この食事は最も幸せな時間の一つであったろう。
 未来に対して、何も不安を感じない、希望に満ち溢れた素晴らしい時間であった。


 しかし、幸せとは……歯車が1つズレるだけで、脆くも崩れ去るものでもある。



………………



 数日後


 ハンナは朝から体調が悪かった。腹から腰にかけて鈍い痛みを感じる。

……何か、変だな? 風邪かな? 悪阻(つわり)?

 ハンナは少し厚着をして、普段通りの生活をした。

 朝食を取り、エリーと髪を整え合ってクリフを見送る。

「ハンナ、少し顔色が悪いが大丈夫か?」
「うん……悪阻(つわり)かも。」

 クリフは心配気な表情を見せるが、ハンナは「大丈夫よ」と送り出した。


……おかしい、お腹が、痛い。


 しばらく椅子に腰をかけて、テーブルに伏すように体を休める。

 エリーがハンナを見て悲鳴を上げた。

「お母さんっ!? 血が! 血が出てるっ!? バーニーっ! バーニーっ!」

 エリーが慌てて家から飛び出した。

……血?

 ハンナが下半身を見ると……血塗れであった。

……何? これ?

 ハンナはズボンに滲む血に触れ、状況を把握した。

……赤ちゃんが、ごめんね……

 ハンナの意識はここで途絶えた。

 深い、深い、暗さの中にハンナの意識は沈んでいった。



………………



 ハンナはベッドの上で意識を取り戻した。

……私、テーブルで……赤ちゃん……?

 体を起こすと、クリフがこちらに気がつき、心配そうな様子で近づいてくる。

「ハンナ、まだ休んでなくちゃダメだ。」
「ごめんね……赤ちゃんが、赤ちゃんが……」

 ハンナの目から涙がポロポロと零れ落ちる。

「いいんだ、今はゆっくり休むんだ。」


……やっぱり……


 クリフの態度から、ハンナは状況を理解した。

 流産をしたのだ。

 現代の日本では、早期流産とは殆どが胎児の染色体異常だと言われており、多くが妊婦の生活が原因では無いとされている。
 現代の日本ですら、流産の確率は全妊娠の8~15%程度と言われており、ハンナがどれほど気を使おうが防ぎきれるものでは無い。

 しかし、医学の未熟なマカスキル王国では、流産とは母体のせいだとされることが多い。


 ハンナはガバッと布団を被り、泣き続けた。

「ごめんね、クリフ、ごめんね。」
「ハンナ、いいんだ。自分を責めないでくれ。」

 クリフがどれだけ慰めようと、ハンナは泣き続けた。

「ごめんね、私が女らしくないから……赤ちゃんが死んじゃったんだ……」
「違う! そうじゃない……今は休むんだ。」

……私、私、クリフに顔向けができない……クリフはあんなに楽しみにしてくれたのに……私のせいで赤ちゃんが死んじゃったんだ……


「クリフ……赤ちゃん……ごめんね……」


 この日から、ハンナは二度と剣に触れることは無かった。


 稀代の女性剣士ハンナ・クロフトは、この日、死んだ。
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