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第3章:成長『兎人ちゃんが風邪引いた編』

173 鹿人族の国ナラーン

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 鹿人族の国ナラーンへと繋がる兎人族の湖ポワソニエの大きな橋を何事もなく無事に渡り切ったマサキとルナ。
 国境線は目の前。残り一歩で国境を越える。

「なんかドキドキするな。子供の頃、県境とかで興奮してたの思い出したわ……」

「ンッンッ!」

「そうだよな。思い出に浸ってる場合じゃなかった。初めての鹿人族ろくじんぞくの国! お邪魔しまーす!」

 マサキは一歩進み、鹿人族の国ナラーンへ初めて足を踏み入れた。そのままマサキは止まることも振り返ることもなく前へ進んでいく。
 ただ国境を超えただけだが、マサキの心拍数は上昇する。初めての国に足を踏み入れたのだ。緊張と興奮が混じり合うのも無理はない。

 一般的な速度で歩くマサキの目の前に、第一村人を発見。立派なツノが二本生えているスーツを着た茶髪の壮年。鹿人族の男が歩いている。
 マサキは鹿人族を見るのは初めてではない。ウサギレースの時に一回、温泉ランドで複数回、鹿人族を見たことがあるのである。
 なので鹿人族に驚くことは何もないのだが、マサキの心臓はバクバクと、音を鳴らしていた。

(やばいやばいやばい。鹿人族だ……話しかけてこないかな? 大丈夫かな? 怪しまれたりしてないか? 相手はスーツだし聖騎士団とかではなさそうだけど……めちゃ緊張する。ビエルネスの薬の効果があんのにこんなに緊張するってやばすぎだろ。吐きそう吐きそう……ただ横通るだけなのに嫌なことばかり考えちまう……はぁ……息が苦しい……)

 鹿人族の壮年とすれ違う瞬間、マサキの世界は刹那の一瞬スローモーションになる。あれほど心拍数が上がっていた心臓の音がゆっくりと、そしてじっくりと聞こえるほどマサキの世界はスローモーションに流れていく。
 そのままゆっくりと時が進み、何事もなく鹿人族の壮年とすれ違った。

 その瞬間、ドッとマサキの肩が重くなる。これは頭の上に乗せているルナの重みではない。緊張からのストレスが一気に重くのしかかったのだ。

(ただすれ違っただけなのに、こんなに体力を消耗するのか……やっぱりネージュと一緒じゃないと外歩けないな……というか俺にはまだ鹿人族の国はハードルが高すぎるみたいだ……)

「ンッンッ」

 マサキの心を読んだのか、負の感情を感じ取ったのか、ルナはマサキに健闘の声をかけたのだ。
 その声を聞いたマサキは、もの寂しげな右手でルナのもふもふの背中を撫でる。
 撫でられるルナは、いつも通り「ンッンッ」と、気持ちよさそうに声を漏らす。
 その声を聞いているうちにマサキの緊張感や不安感がほぐれていく。

 鹿人族の国に入っから変わったのは目の前に映る景色だけ。鹿人族の壮年とすれ違ってもマサキの想像するネガティブな出来事は何も起こらない。
 人間不信で臆病なマサキでも少しだけ安心感のようなものが芽生え始める。そのおかげでマサキは足を止めることも引き返すこともなく進むことができるのだ。

「……何はともあれ、ここから先はどうやって行っていいかわからんからな。薬屋さんに書いてもらったメモを頼りにするしか……」

 マサキは薬屋の店主メディーから渡されたメモを手に取りメモの内容を見た。その瞬間、頭が真っ白になる。

「……な、何これ……」
「ンッンッ」 

 マサキはこの瞬間、初めて渡されたメモの内容を見たのだ。
 メモの内容は目的地の鹿人族の国の中にある森までの簡易的な地図と薬草のイラスト。さらにその他、必要な詳細が書かれている。
 何も問題なさそうなメモだが、たった一つだけ問題があったのだ。その問題のせいでマサキの頭は真っ白になったのである。

 それは――
 文字と絵の汚さ、雑さだ。

 異世界転移二百十二日目のマサキは異世界文字を読み書きできるほどに成長している。といっても小学六年生程度の文字書きのレベルだが、生活にはなんら支障がない。
 そのマサキが全く読めないメモなのだから、メディーの文字は雑で汚いのだ。

「どっちが上か下かわからない……いや、かろうじて薬草のイラストから、こっちが上だってわかるけど……この文字は流石にないだろ……」

 マサキが採取しようとしている兎人族の流行風邪バニエンツァウイルスの薬の材料である薬草は、赤い実が成っている。赤い実が上で茎の部分が下なら、この薬草のイラストのおかげでどちらが上なのかが分かったのだ。

「上下が解読できたとしても……文字が全く読めない……別の文字ってことか? 俺が人間族だから人間族の文字を書いてくれたってことか? いや、そこまで親切にしてくれるか普通……つまりこれはあれか? 筆記体的なやつか? 形的にそんな感じに見えるぞ……」

「ンッンッ」

「文字が読めなくても地図がって思ったが、壊滅的に絵が下手すぎてわけわからん……」

「ンッンッ」

 初めて立ち止まったマサキ。渡されたメモを見ながらぶつぶつと文句を吐き続ける。
 しかしいくら文句を吐いても状況は変わらない。そんなことくらい文句を吐き続けるマサキも自身も気付いている。

「引き返したところで同じメモ渡させるだけだもんな……それに引き返す時間がもったいない。とりあえず、森っぽいところに行くか。そんなに遠くないって言ってたしな……はぁ、不安で息が苦しい……口も乾く……最悪だ……」

「ンッンッ」

 順調だったマサキの足取りは呪いにかけられたかのように重くなる。ゆっくりゆっくりと、木々が生茂っている森らしき場所へと向かっていく。

 そんな道中、マサキに向かってくるひとつの小さな影を、マサキの黒瞳の端が捉えた。

(なんか……来てる?)

 マサキはすぐに向かってくるひとつの小さな影の方を見た。
 警戒。すぐに動けるように両足に力を込める。それと同時に緊張で全身にも力が入る。
 緊張の一瞬、何が向かって来ているのか判別する前に、体が無意識に動いた。

 『避けろ』と、脳が全身に信号を送る。

 マサキは前に一歩出た。この場合、後ろに下がるよりも前に出た方が素早く動ける。そのまま走れれば最善だ。
 前に一歩出たことによって、真っ直ぐに向かってくるひとつの小さな影から避けられたと思いきや、その影もマサキの動きに合わせて方向を変えた。
 謎の影は引き寄せられているかのようにマサキに向かって突っ込んできているのだ。
 これ以上マサキは動けない。どんなに反射神経が良くても人間の体には限界があるからだ。

「ぷごげがぁあ!」

 マサキと謎の影は衝突する。そのままマサキは吹っ飛ばされて地面を転がる。
 マサキの頭の上に乗っていたルナは、マサキと謎の影が衝突する寸前にマサキの頭の上から飛び降りていた。なので怪我をすることなく小さな手足で無事に着地してみせる。

「ンッンッ」

 よちよちと地面を転がったマサキの元へと向かうルナ。マサキのことを全く心配している様子はないルナは、プリプリのウサ尻を左右に揺らしながらゆっくりと歩いている。
 心配していないのはルナの漆黒の瞳に謎の影の正体が見えていたからだ。そしてその正体が害がないものだと分かっているからだ。

「いてて……な、何がぶつかったんだ?」

 仰向けに倒れているマサキ。何がぶつかってきたのか未だに理解していなかったマサキだが、腹にかかる重みからぶつかってきた何かが腹の上に乗っていることを理解する。
 その瞬間、マサキの黒瞳は無意識に腹の上に乗る何かを見た。すると、マサキの体は小刻みに震えだしてしまった。

「ガガガッガガガガッガガガガッガガガガッガガガガッガガガガッガガガガッガガガガッガ……」

 恐怖と不安が精神を安定させる抗不安剤のようなビエルネスの魔法で抑えられる容量を遥かに超えてしまったのである。

「しー静かにぃ。というか震えすぎぃ」

 マサキに声をかけるのは、茶髪で低身長、ウサ耳とは違ったふさっとしている小さな獣耳が生えている少女だ。
 その少女はマサキの腹の上に乗りベッタリとマサキに抱き付くように張り付いている。そして声を潜め静寂を保とうとしているのだ。まるで何かに気付かれないようにしているかのように。

 そんなこともつゆ知らず、マサキは腹の上に乗る少女を退かそうと、小刻みに震える体で必死に抵抗する。暴れる。暴れまくる。しかし、マサキの抵抗は虚しく低身長の少女を腹の上から退かすことは叶わなかった。

(お、俺の力はこんな小さな女の子を退かせないほど貧弱なのか……うぅ……悲しい……うぅ……羞恥心から死にたい……)

「暴れなくなったと思ったら泣き始めたぁ! もう少しだけ我慢してぇ」

 マサキの体に必死に抱き付く少女。もうマサキには抵抗する気力が残っておらず、倒れたまま泣きっ面を晒していた。
 そんな時、ゆっくりと歩き向かっていたルナがマサキの元へと到着する。

「ンッンッ」

 小さな声を漏らしながら泣きっ面のマサキの顔をひと舐めする。

「まぁ、可愛いウサギさんねぇ。飼い主のお兄さんが心配なのねぇ」

「ンッンッ」

「お利口さんねぇ」

 マサキの腹の上に乗り抱き付く小さな少女は、マサキが抵抗しないことを確信し、抱き付く腕を離してルナのもふもふボディを撫で始めた。
 その少女の手はとても小さく、すぐにルナのもふもふボディに手が埋まった。

「可愛いいいぃぃぃ!! はっ。叫んじゃったぁ」

 あれほどマサキに静かにするようにと言っていた少女が、ルナの可愛さに思わず叫んでしまった。そして口をすぐに塞いだが、時すでに遅し。空にまで少女の叫びは届いてしまう。
 その後、微かに少女の声が耳に残る中、さらに別の人物がマサキたちの方へと声をかけて来た。

「もういいでござるぞ。魔獣は倒した。一般人の方は無事でござるか?」

 優しく声をかけたのは少女と同じく低身長でふさふさの獣耳がある茶髪の少年だ。
 腰には何の変哲もないただの短剣がかけてある。そして戦士や聖騎士と呼ぶには相応しくないほどの防具を身につけていた。

「って! おい! 御主が一般人を押し倒してどうするのでござるか! 拙者は守れと命じたのだぞ。何もそこまでしなくてもいいでござろう」

「げっへっへっへぇ。すいません。ついぃ」

「ついじゃないでござるよ。同盟国の鹿人族の国ナラーンで怪我人を拙者たちの手で出したとなったら大問題でござるよ」

「だから謝ってるじゃないですかぁ! こうでもしないとこの飛び出して危なかったんですよぉ。ってヒトォ? ツノがないぃ! 獣耳もないぃ! 人間族さんじゃないですかぁ!?」

 マサキの腹の上にいる少女は、今更マサキが人間族であることに気が付いた。

「何でこんな田舎に人間族さんがぁ?」

「おい。同盟国を田舎とか言うなでござる」

「げっへっへっへぇ。ついぃ」

「だからついで済むことじゃないでござるよ」

 笑顔でとぼけ顔の少女とその少女に苛立ちを見せる少年。マサキは二人の会話を涙目になりながら黙って聞いていた。

「というか……早く退いてあげるでござるよ」

「そ、そうだったぁ。ご、ごめんなさいぃ」

 少女は慌ててマサキの腹の上から飛び降りた。
 腹にかかる重みがなくなったことにより、自然とマサキの上半身は起き上がる。そのままマサキは立ち上がり、黒ジャージに付いた汚れをはたく。

「でもどうして人間族さんがぁ?」

「ガガガッガガガガッガガガガッガガガガッガガガガッガガガガッガガガガッガガガガッガ……」

 少女に声をかけられた反動で無意識に体が小刻みに震え出してしまうマサキ。まだ恐怖心は残っていて混乱状態なのだ。

「そ、そんなに警戒しなくても大丈夫だよぉ。ほら、私ももあなたよりも小さいよぉ」

 両手を広げぴょんぴょんと飛び跳ねる少女。危害は加えないと全身を使いアピールしているのだ。

「団長はいつもイライラしてるけどぉ~本当は優しいから! 怖くないんだよぉ」

「いつもイライラしてるのは、御主のせいでござるがな」

「あれれぇ? 私のせいなんですかぁ~?」

「そういうあざといところがイライラするのでござるよ……」

 舌をぺろっと出し、片目を瞑りながらとぼけ顔を作る少女。その姿に言葉通り苛立ちを覚える団長と呼ばれる少年。
 マサキは薬草採取に訪れた鹿人族の国ナラーン兎人族とじんぞくでも鹿人族ろくじんぞくでもない獣人に絡まれてしまったのだった。
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