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【中編 了】第九章 一緒に成長すること

会いたかった。

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『恋愛の面は当人達に任せるわ。恋は盲目なもので、周囲がなんと言おうと勝手に突っ走りがちだからね。相談事はいつでも聞くから頼りなさいな』
 乾杯後も泣きべそかく羽生とは反対に、神崎は寿司をつまみながら黙々とアドバイスをくれた。
 目を覚ますと真っ暗な部屋。掛け布団やスプリングの弾力さから、ここが自分の部屋だとすぐに理解する。
(ゆ……、彼方が来訪したのは、ゆめ?)
 支えられた箇所の感覚が妙にリアルだ。まだ熱を帯び、思い出すと心臓がトクトク鳴る。
(好きなのか? まだ彼方のこと。あんな別れ方をしたのに?)
 完全否定はできない。気持ちの切り替えが上手なら、今日も普通に学校へ通えていた。彼方が休んでいる期間は、ほっとする自分とモヤモヤする自分が闘うこともしょっちゅうあり、勉強や趣味に没頭した。周りとも異様に話した記憶がある。それもこれも、わだかまりを残したまま去ったのが大きい。
「……水樹、起きたの?」
 篭った声にビクリとしつつ、辺りを見回すが部屋が暗くてどこに潜んでいるか察せない。
「扉越しにいるから。安心して」
 怒ったものではなく、拗ねたものとも別の物言い。本心が全く読めず、水樹は考えあげぬいた末、「わかった」と返事をした。
 抑制剤を飲んだ後の記憶がないことから、彼方が運んでくれたのだろう。ガリ男一人でも二階まで抱えながら上るのは結構な力がいる。
(扉を開けないのは気遣いか)
「この間……文化祭の時はごめんなさい」
 床がキュッキュッと鳴る。さらに声が籠りまさか土下座を? と嫌な予感が過ぎる。しん、と静まる空気は降り積もる雪のように少しずつ重くなっていく。
「……うん」
 許す許さないの前に、ともかく彼方の誠意は信じることにした。長髪に隠れた項を撫でればすべすべしている。
「水樹の怒りは至極真っ当だ。僕は……水樹のためだと言い聞かせながら、己の弱さを隠し続けた。不快な思いをさせてごめん。エゴイストなのは重々承知している」
 「本当にごめん」と床に這いつくばった声が飛んでくる。カーテンをチラリと覗き見ると、小粒の雪がふわふわ地上に落ちる。
 昔、夜這いは双方の同意を得ないと行われなかったらしい。三度通いつめることが結婚の条件だと最近の古文で習った。
「……入って」
「いや、でも……」
 躊躇う彼方にヘタレさを感じ、寝床を出る。足取りも体もそう重くはなかった。案の定、扉を開けたら土下座をしたままの彼方がいて、水樹はしゃがみ込んだ。艶の良いオレンジが湿っている。
「部屋の方がここよりずっと暖かいから。風邪引かれたら困るよ」
 抑制剤の効果かフェロモンは落ち着き、代わりに雨の匂いがした。喉が圧迫されるくらい切ないもの。顔をまだ上げない彼方の姿が心苦しさを助長させる。
「……お願い。謝罪も嫌いな気持ちも、目を合わせて言ってくれなきゃ嫌だよ……っ。もう、俺ばっかり一方通行なのは──」
 我儘な子供みたいに最後は泣き言だった。空虚な心が、黒くドロドロな液体で満たされるのもう勘弁してほしい。合わない視線は背丈や姿勢のせいじゃない。
 だから、背中を回った腕と耳に息が触れたと感じた時、溜まった熱い雫が目から溢れた。
「嫌いじゃない。水樹を手放すつもりもなかった」
 手放すつもりはない。意味通りに受け取れば、この行為はなんだ。お日様の匂いが蘇る感覚に恋心を掻き乱される。
「離し、て……! 別れると身を固めたなら俺なんか抱き締めなくていいから……」
「嫌いなもんか! 出会った頃から今もずっと好きだ」
 彼方は両腕で水樹が離れないようにし、ジタバタを無理矢理抑え込む。未練が残りまくりの好きな人な相手を跳ね返させるほど、水樹は非情じゃなかった。
(しかも胸元に転がる違和感。まさか、あのペンダントを?)
 首元に頬擦りされる度、ふわりといい匂いがする。ずっと好きな香り。彼方の匂いだ。
「……っ、ふう……」
「ごめん、水樹。僕はまだ君のことが大好きなんだ」
 大好きと聞けば、反射的に胸がきゅんとなる。
 甘い囁きに流されぬよう心を鬼にする。物理はダメでも好きな気持ちを奥へ引っ込ませた。そうしないとすぐに堕ちるから。
「俺……のこと、長い間放置した……癖に……っ。いっぱい信じたのに、俺のことは全然っ、信頼しなかった癖に……。彼方なんて、彼方……なん……て」
「愛してる」
 涙でぐちゃぐちゃになった水樹の唇が奪い取られた。厚みのある唇が柔らかくて、隙間から流れる吐息に火傷しそうになり、脳から背筋にかけてビリビリする。
(両頬挟まれたせいで逃げられない。久々のキスだけで、蕩けて死んじゃう……)
 もつれ合うように倒れる寸前、彼方が腕を伸ばしたおかげで背中を打つことはなかったが、キスを止める気配は微塵もなかった。
「んぁ……っ。あ、……うん、あ……は」
 ぎゅうぎゅうと締め付けられ、セーター越しにペンダントが暴れ回る。鼻呼吸するのも限界だ。
 水樹が息を吸いたくて首を振ると、彼方に口内を暴かれた。歯列はなぞられ、舌を絡ませ引っ張られる。肺の膨らみが速い。目尻に性的な涙が浮かぶ。即堕ちも近い。
(彼方……。彼方、休憩……させて……)
 なにしろキスするのは九月以来だ。三ヶ月も経てば体力の消耗も著しい。
 胸元を力の限り握ると、銀色の糸を繋げたまま離れた彼方は颯爽と水樹を起こす。またもお姫様抱っこだ。
「板が固いとこで水樹を堪能するわけにはいかない。背中とか痛かった?」
 ゆっくりとベッドに仰向けに寝かせられ、手を伸ばす。戸惑わずに握り返してもらい、安心に心が傾く。下がり眉の彼方に、涎でベトベトの口を開いた。
「キス……もいい……けど、説明して……っ。今度、はちゃんと聞く……から、彼方本人から、彼方の口から……教えて」
 貧相な胸の丘が出現したり、平地になったり。瞳を転がす彼方の手を水樹は渾身の力で握った。
「彼方……と、仲……直り、した、いから……!」
 体だけの関係は彼方も望まないはずだ。過ごした期間が少なかろうと、そんな下劣な関係を器用に操るタイプの人間じゃないと信用している。
(そう信じたい自己満足だが、彼方はさっき『好き』と告白してくれた)
 心に面倒な恋の種が植えてある。彼方にされたことは腹立つのに、また好きな気持ちが芽生え始めた。恋というのはひどく単純で、面倒で、幸せだ。脳裏にはたった一言の好きで追いつかないくらいの思い出が、カルタの面みたいに開いていく。
 滑りそうな手をずっと離さずにいたら。
「水樹に嫌われたくないん……だ。本当の僕を知ったら……水樹は……」
 弱々しい彼方に飛び込み、キスを送る。簡単な、触れるのみの接吻。鼓動がとくとく煩い。
「どんなに嫌いになっても、俺はまた、彼方に恋するから」
「……っ!」
「俺も感情に任せて怒鳴り散らした、ごめん。されて嫌だったことを怒りで返して、彼方を傷つけた……ごめん、な……さ」
 苦々しい後悔がせり上がる。唇を固く閉じるも嗚咽が漏れた。力んだ分、涙がぼろっぼろっと落ちていく。
 腸が煮えくり返ったとしても、もっと別の言い方があった。冷静に「話してほしい」と伝えれば良かった。耳を傾ければ良かった。
──ギシッ。
「それは正しい怒りだよ、水樹。君が謝ることはない。……僕は水樹の優しさにいつも救われていた。ちゃんと応えないとね」
 顔を染める影が濃くなり、太陽が沈む。濡れた唇を舐められ、驚く間もなく微笑まれた。
「か、な、た」
 息が震え、心臓がぎゅうと締まる。視界がぼやけるほど至近距離の彼方は「ん?」と可愛い声を出した。
「も……う一度、会いにきてくれてありが……とう」
 よりが戻る可能性は限りなくゼロに近い。またはマイナスの値が大きくなれば、一生顔を合わすこともなかっただろう。涙塗れの笑顔を返せば激しく息を吸い噎せる音がし、絡める手に力を込められた。
「水……っ樹。ずっと……ずっと、会いたかった」
 
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