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第七章 一転

及第点。

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「大丈夫だ、水樹。もう授業に行ってこい」
 ベッドにしがみつく水樹に鷹橋は何度も説得し、水樹は寝息を立てる彼方の元から立ち去った。
(俺のせいだ。俺の……せいだ。俺のせいで……彼方が、彼方が倒れた)
 額や背中に脂汗を噴き出していた。冷却シートで呼吸は落ち着き、熱は下がったものの、運んだ時のあの歪む苦しそうな表情が忘れられない。
 直接的要因である自分があのまま彼方の傍に居続けていいのかという不安に煽られたが、また同時に、彼方が目を覚ましたら自分がいないことで傷つくかもしれないという懸念もある。
(彼方は俺が倒れて目覚める間、どう思ったんだろ。熱に浮かされたけど、体育祭前の時は泣きそうな顔をしていた)
 あの時期はまだ恋人関係じゃない。それでも彼方はベッド脇で水樹が目を覚ますのを待っていた。
「彼方……」
「守谷さんではなく、遊佐さんの番ですよ」
 ハスキーな女性の声に現実に戻る。腰に手を当てた長髪の女性がいた。音楽室を見回せば生徒は誰一人としていない。比良山は小さくため息を漏らした。
「授業の冒頭に説明済みですが、今回は『歌』か『演奏』を披露した生徒から教室に戻るよう指示しています。前回も少し触れましたがね」
「す、すみません……」
 項垂れるのと謝罪が一緒になる。彼方のことで授業どころじゃなかった。きっと何度も呼ばれたんだろう。
 なにを思われたのか背中を向け、五線が描かれた黒板に移動する。
「本来なら準備室で披露していただく予定でしたが、私とあなた以外に誰もいないのでここでやりましょうか」
 グランドピアノの鍵盤蓋を開けた比良山は発声練習用のメロディーを弾き始める。
「一発勝負の歌だからこそ必要です、はいどうぞ」
 気分は乗らなかったが口を開けて音階に合わせていく。
「口の大きさが小さい。やる気あるんですか?」
 指摘が入る。もう少し大きく意識するが、「それで拳入りますか?」と見破られた。
(き、キツい。高くなればなるほどキツい……)
 腹がぴくぴくするのは良い証拠だと授業が始まった頃に教わったが、軽い筋肉痛を起こしそうだ。痛みを感じながら腹を摩っていると一瞬で音色が変わる。雫が落ち、波紋が広がるような前奏。
「遊佐さんリクエストの『水』です。ではどうぞ」
 身構える隙すら与えなかったメロディーに、大急ぎで歌詞を乗せる。
「溜まった水が溢れ出すのに 底は尽きない」
 歌いやすい。歌いやすかった。自分一人で練習した時は喉もあまり開かず、いちアーティスト、遊佐 勇樹として歌う動画も残っていなかったから参考にできない。どう歌えばいいか迷っていた。
(あっ、ここは掠れるようにして)
「まるでなにかに押さ……れ……だ こんな……じゃま……、わ……なる」
(……やっぱり難しい。声が消える)
 ただ、今の自分や彼方へ向けての想いに通ずる箇所が歌詞にいくつかある。
 キャラクターに命を吹き込み、別の自分になり続けた父がどんな表情や想いを浮かべて歌ったのかは、雲を掴むくらい難しかった。
(自分なら、自分だったならこう表現する)
 ほんの少しだけ鍵盤を弾く比良山が目を丸めたのは気のせいだろうか。水樹も歌は得意分野ではない。
 テレビサイズ版を歌い終わり、最後の一音が沈んでいった。
「……ふう」
 息を吐き切り、腹からじわじわと温かさが巡回する。何回かは合唱に参加したが、自分の声とピアノだけで歌うのは形容しがたい心地良さと緊張感があり、最後に実感するとは思いもよらなかった。
「お疲れ様でした」
 慰労の一言をかけてもらい、頭を下げる。
「さて。どの生徒さんにも評価を述べさせていただいているのですが、遊佐さんの場合は……」
(単純に数字が付くんじゃないんだ。しかも文章ではなく!?)
 披露後の対応すら耳にしなかった水樹は、突然始まったカウントダウンに耳を塞ぐ気持ちを自重した。ギロリと鋭い視線が合い、手の平を耳周りに寄せる。比良山は面倒臭そうにため息を吐いた。
「及第点、てところでしょうか」
「……及第点」
 ほっと胸を撫で下ろす。良かった。音程も合わないところがあったため自己評価よりかなり高い。
「今のまま、だったらです」
 付け足された評価に疑問を抱き、ピアノ椅子から未だ降りない比良山を見つめ返す。
「及第点を八十と捉えるか、五十と捉えるかはお任せします。ただし、あなたの御父様は今の遊佐さんよりももっと上手かった」
「父を……ご存知なんですか?」
「はい。私は、里美先生と鷹橋……旧姓が茉白ましろ先生とは知人でしてね。彼女達から遊佐 勇樹さんとあなたのお名前を耳にしたことがあります」
 茉白 歩美あゆみは去年まで蒼空学園で現代文を教えていた。今は鷹橋 洋介の妻兼、現役の現代文教師として別の学校にいる。比良山が蒼空学園を去った二人と知り合いなのも驚きだったが、大きな疑問が残された。
 水面下で結婚式を執り行った両親は、息子がいることを最後まで公表しなかったらしい。ライター・ハコの記事がアクセス数が最も多く、週刊誌より信憑性が高いと勇樹ファンはそう読んだそうだ。仮に広がっていようが噂だけで水樹の写真は一枚足りとも出てこない。それに、亡き勇樹と水樹が親子関係であると結びつかないだろう。それほど水樹の父は世間に顔を出すことを嫌がった。変な取材陣が押しかけたことは一度もない。
 押し黙る水樹をどう見たのか。そもそも「父」と言った時点でもう肯定済みだ。
「……念のために補足を。私はあくまで直感で揺すっただけなので、里美も茉白も確信は持っていないはずですよ」
「そ、そうで、すか……」
「別に言いふらしはしないのでご安心ください。世界に三人は自分と似た人間がいるんですもの。名字に姿形、声の特徴がそっくりでも決して本人ではない。たまたま『水』を選曲しても物真似くらいには……」
「すみません……」
 四方から矢が刺さり、謝罪するしか方法がなかった。比良山は自力で正解に辿り着いたのだ。クラスメイトを追い払い、最後の授業だからこそ確認したに間違いない。
「……言葉が過ぎましたね。こちらこそすみません」
 逆に謝罪され、微妙な空気が数秒場を包み込んだ。口火を切ったのは水樹だった。耐え切れなかったのが大きい。
「母からは血が濃いとよく言われます。でも、俺が生まれる前に父は他界したので家族以外……いわゆる生の声を聞くのは初めてでした。もう少し聞かせていただけませんか?」
 まだモヤモヤな像。宣材写真や家族写真を見ても「澄まし顔が綺麗な声優さん」くらいしかイメージが付かない。身内と違う目線からの意見が欲しい。
 比良山は二度三度瞬きし、ピアノ椅子を降りた。相変わらず刃のような目付きは変わらないが、敵意はない。
「最初はあなたの話からでした」
「俺ですか?」
「はい。朗読の際、群を抜いて声が綺麗な生徒がいると茉白が。続くように里美先輩から『それって遊佐君のことよね! 歌声は小さいけれど、静かな池に雫が落ちるような癒しと切なさがあって、つい皆の前でどうぞと言いたくなっちゃうわ』と」
 水樹は驚いた。きびきびしたいかにも真面目な比良山が身振り手振りを使い、声を寄せる様子に。しかも声真似クオリティーが高い。
「二人とも泥酔状態だったのもあり半信半疑でしたが、『若い頃のゆさゆーによく似ている』というオタク妄言は妙に覚えていました」
「ゆさゆー……」
「ファンから親しまれた愛称名だったそうですよ」
 「はあ」と返しながら水樹は思う。まだまだ知らない顔があるのだなと。『変幻自在』の異名は伊達じゃない。
(第三者からも勘づかれるくらいなら、失望させたよな。期待された声はそもそも出ないし、父さんみたいな才能もないし)
 楽譜を閉じた比良山は時計を見て、「話は大分逸れましたが」と話を戻す。
「それだけの人物ならどんな表現をされるのか、と指導者ながらに興味を持ちました」
「……ご期待に添えず申し訳ないです」
 すぐに否定される。トーンとピアノが鳴った。
「誰かを評価したり好んだりする基準は人それぞれです。遊佐 勇樹さんには表現力があった。歌の上手下手ではなく、自分の持ち味を最大限に活かしていたからです。特に『水』の二番目からはガラリと変わります」
「二番目……」
「今回聞かせてもらったのは一番。けれど、あなたがBメロで表現を付け加えたのは評価できました」
 最初の科目選択で水樹を当てた際、比良山はなにを表現したいかと問うた。
「もちろん、完璧な精度性を求める方もいます。例えばキャラソンがそうでしょう。幅を効かせた結果、『このキャラはこう歌わない』という声も上がりますからね。遊佐 水樹さん。あなたの声は表現力と磨けば光ります。御父様と同じ道を目指さないにしろ、これからも音楽を楽しんでください」
 横に一本結ばせた唇と、キリリと鋭い目が柔らぐ。風が吹き、開いたカーテンが揺れる。終わりを告げるチャイムはあと何分だろうか。
 名前の付けない感情が体中を廻り、十代最後の青年は人生の先輩へ口を開いた。
「比良山先生は……『樹』ってなんだと思いますか?」
 しまった。どっちの樹か言うのを忘れた。
「樹木の方ですか?」
「……えっ」
「そっちの『樹』は加工されない、生きた樹木を指すらしいです。まあ、私の回答とはまた別の意味なのだとしたら……」
 真っ直ぐ見つめてくる瞳は心を透視しているかのようだった。
「私は自分の野望のためなら周りを枯れさせる樹になりました。でも、守谷さんと遊佐さん……他の生徒さんと出会う中で、樹も自然の一部なのだから共存するのもありかな、と今では考えることもできます」
 床から引っつく足が離れない。同化したか、まるで体の一部みたいに水樹は身動きが取れなかった。
「ここで履き違えないで欲しいのは、共存は依存と違います。成長の妨げになるものを捨てなきゃ生き残れません。そうして独立したからこそ、誰といようがどこに属してようが倒れなくて済みます。……自分だけは」
「あなたは一体……」
 その先もわからないのに問うていた。唾の味は不味く、本性不明で笑顔の相手に声が震える。
「悪役な私でも一応、ゆさゆーのにわかファンですからね」
 静かに待っていた重いチャイムが、水樹の細身の体を揺らした。
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