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―― 本編 ――
16:永劫に続く日々
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次の日もベルダンテ侯爵は訪れた。
彼が来ると、ラフもやってくる。昨日は気がつくと仮眠室で横になっていたから、ルカは思い出すと羞恥と苦痛に駆られた。けれどその日の夜も、ラフがやってくれば、抱きつかずにはいられない。与えられ続ける快楽は、体をドロドロに熔かしていく。
昼間は教師の顔をして、夜は――……
そんな己に嫌気がさした。だからその日も、あくる日も、ここ一週間ほどやってくるベルダンテ侯爵の前で、思わず溜息をついた。するとベルダンテ侯爵とラフの視線がそろってルカへと向く。
「貴様らは、付き合ってるのか?」
「は?」
予想してすらいなかった言葉に、ルカは呆気にとられて目を瞠った。
しかしラフの方は些か不機嫌そうな表情で簡潔に答える。
「いいえ」
小首を傾げながら小さく頷いたベルダンテ侯爵は、視線をルカに向けたまま、腕を組んだ。
「だけど体辛いんだろ?」
「……」
ベルダンテ侯爵は、ルカの体のことを知っている。だが、ルカは言葉に窮した。なにが『だけど』なのか分からなかった。しかしすぐに次の言葉が紡がれた。
「どうせなら恋人の方が気が楽なんじゃないのか?」
「一理ありますね。もういっそう私のモノになってしまえばいいのではありませんか?」
放たれた理解できない二人の言葉に、思わずルカは立ち上がって声を上げる。
「誰が……!」
「では、貴方は好きでもない相手に抱かれるのですか?」
「それは体が……」
「本当にそれだけですか?」
「あたりまえだよ!」
「そうですか……」
すると僅かにラフが瞳を揺らして悲しそうな目をした。思わずドキリとして、ルカは生唾を飲み込む。何故胸が騒いだのかは分からない。おそらくは、好きでもない相手に抱かれている自分を指摘されたことに動揺したのだろうと、無理矢理ルカは納得した。
――その直後ラフが、ものすごく意地悪そうな笑顔を浮かべた。
「私は貴方の苦しむ顔も好きなので、これからも楽しみにしていますよ」
それは絶望的な言葉だった。
「わー痴話喧嘩――って、随分と嫌そうな顔をしているな!」
「……あたりまえだよ」
「そんなに嫌か?」
「どうして嫌じゃないと思うの」
「俺は扉が開かなくて良かったと今になっては思っているからな。人間は面白い。俺は人間の絶望も好きだけどな、幸福だって嫌いじゃない」
「僕だって――」
「後悔してないって言い切れるのか?」
ルカはこの時、言葉に詰まった。後悔などしているはずがない。なのに、だ。何故なのか声が出てこなかった自分を、内心で叱責した。妻の顔が過ぎる。幼かった子供の顔が過ぎる。人が嫌がることはしちゃいけないんだと笑っていた妻子の表情。嗚呼。
本当に騎士団だけでは勝てなかったのかと、ごくたまに考える。そうすれば……仮にそうなっていたら……こんな望まぬ一生を歩む必要はなかったのかも知れない。せめて死ぬという選択肢が残っていたら良かったのに。自分の世界を終わらせたいという願望が、ルカの胸中で時折頭を擡げる。
「……あたりまえだよ」
漸く出てきた声は、震えていた。
「顔が真っ青だぞ。あのな――そんなに嫌なら、扉が開いていたらどうなっていたか、視た同族がいて、”光景”を貰ってあるから、見せてやろうか?」
「ッ」
ルカは思わず息を飲んだ。ドクンドクンと心臓が煩い。
だからなのか――見たくないと言えば、嘘だった。無意識に、反射的に、ルカは頷いていた。瞬間、周囲の景色が変わった。
そこは驚くほど快晴の、青空の下だった。まるで絵画のように嘘くさい青だった。
雲一つ無いその空に、扉が一つ浮かんでいる。鎖がほどけていて、開いていた。開いていたのだ。扉の正面には何人かの騎士がいて、ルカも――オルカもそこにいた。ハデスの背にのり、十字架と指揮棒を手にしていたのだ。懐かしい騎士団の装束を纏っている。
扉からは、狂霊獣が出てきては、阻止しようとする騎士を喰らっていく。首から肩まで食いちぎられて、落下していく部下の一人。いいや一人ではない、何人もの騎士達が負傷している、死んでいく。呆然としたままルカは、おそるおそる地上を見やった。
――そして、”ソレ”を見ていることしかできない事実に愕然とした。
地に満ちる狂霊獣。地上は埋め尽くされていたから、逃げる場所などどこにもない。人々はただただ喰われ続け、断末魔の悲鳴を上げるか、泣き叫んでいた。あるいは諦めたかのように喰われていく人もいた。老若男女、職業、何も問わず、等しく、その場には死が待っていた。心臓が耳に接着したような感覚がして、冷や汗がこめかみを伝っていく。
冥界の扉からは、未だぼたぼたと地上へ、もう充ち満ちているというのに、狂霊獣が溢れかえって落ちていく。
嗚呼、死臭がした。血の気配がした。思わずオルカは、唇を掌で覆い、嗚咽を押し殺した。
涙がこみ上げてくる。
こんな世界、望んでいない。こんなのは嫌だ。絶対に嫌だった。
その時気づけばオルカは何かを叫んでいたのだが、自分の声さえ耳に入っては来なかった。
聞こえるのに聞こえない無音。否、聞きたくないだけなのだろう。けれど視覚すら離せない。じっと食い入るように見ながら、泣いた。あるいはこんな世界もあったと言うことだ。こんな現実を一瞬で盛りそうに夢描いた自分を殺してしまいたくなる。やはり人間は無力だ。嫌、自分が無力なのか。落ちていく一人一人の部下の顔を見据えている事しか出来ず、オルカは頬を温水が濡らしていく事にも気づかない。
「もう嫌だ、止めてくれ」
思わずそう叫んだ時、不意に周囲の光景が暗闇へと変わった。
――ベルダンテ侯爵の術が切れたのだろうか?
――それとも世界は滅んで……無が訪れたのだろうか?
ぼんやりとオルカは一人、立っていた。
「いいえ。私が介入しました」
唐突に声がして、その瞬間周囲に蝋燭が灯った。規則正しくそれは並んでいる。
オルカは、気配で、死神だと理解した。
しかし何故死神が? ついに――己にも、終末がやってきたのだろうかと思えば、苦笑してしまった。たった今、強く”現在”の幸福さに改めて気づいたばかりだというのに。
「幸福も不幸も貴方が感じる事に過ぎません」
「そうかもしれないね」
「それでこその、魂ゼーレですから」
「ゼーレ?」
「世界とは個々の認識の世界ですから」
「どういう意味?」
見慣れぬ服を着た青年――旧世界で言うならば、灰色のスーツを着て眼鏡をかけ、ワインレッドのネクタイを締めた死神は、オルカの問いに微笑した。
「認識する個人は人間――ゼーレとは、人間一人一人のことなんです。これは、死神しか知らない事実ですが。御遣いや悪魔は、皆同じ世界史か視ることの出来ない存在です。ああ――仮に奇跡的に御遣いや悪魔が亡くなった場合も、消滅するように見えて、死神の手に下るんです」
「――死神……それが事実なら、死神こそが、唯一神ゼーレなんじゃないのかな。いや、複数いるのか」
「いいえ。死神は、元々はゼーレだっただけの存在です」
「――それは、人間だったと言うこと?」
「そうです。だから貴方もまた、ゼーレなんですよ。父さん」
「ッ」
「私は貴方を誇りに思っています。二度と惑わされないで下さい。たまたま休憩中だったので、咄嗟に介入してしまいました。――父さんの幸せを祈っています」
オルカは、その名を呼ぼうとした。
父と呼ばれるまで、己の大事な息子の成長した姿なのだとは気がつかなかった。
言われればすぐに分かった。分かったのに――その瞬間には、オルカは光に飲まれていた。
「ン……っ」
「大丈夫ですか!?」
気がついた時、ルカはラフに抱きかかえられて、天井を見上げていた。
動揺したようなラフの表情すら、幸せなモノに思えた。相も変わらずこんな時だというのに体は熱かったが。
「突然倒れたから吃驚したぞ。術もプツリだったしな。失敗して死んだかと思った」
「全く、冷や冷やさせないで下さい」
そんなやりとりをしてから、ルカはソファに運ばれた。
――術が切れたと言うことは、夢ではなかったと言うことか。そうであることを、ルカは祈った。
「大丈夫そうだな」
「うん、有難う」
ルカが小さく頭を下げた。
ベルダンテ侯爵は、それを見てから手を振り返っていった。
一方のラフは、未だに溜息をついている。
その時だった。教務室の扉が勢いよく開いた。入ってきたのは、エルだった。
「先生って、オルカ・ヒルフェなのか?」
突然の言葉に、ルカは硬直した。ラフは何も言わず、気怠げにそれを見守っている。
「ワルター先輩から聞いたんだけど……」
「いや、その」
「そんなわけないよな。だってそれ、俺のお祖父ちゃんの名前だし」
「え?」
「父さんがいつも自慢してたんだよ。歴史の教科書にも出てくるし、俺もすごいと思ってるけど、先生じゃなぁ」
「――……自慢、か」
「まぁ先生が家族だったらすごく楽しいと思うんだけどな」
そう言って笑ったエルを見て、胸が苦しくなって、しかしそれは優しく温かく幸せみたいな名前をした痛みだったから、ルカは笑った。
「先生? 何で泣いてるんだ?」
「泣いてないよ。ちょっと風邪気味で鼻がね」
深々とローブを被っていて良かったと、本当に思った。
それから雑談をして、エルは帰っていった。終始見守っていたラフが苦笑したのはその時だった。
「慰めて差し上げましょうか?」
「いらないよ。うれし泣きだから」
「私には泣いていると話してくれるのですね。まぁ大抵の場合、私の前で貴方は涙していますが――扉が開いた時のご感想は? あの時の選択を、やはり後悔しましたか?」
「唯一の後悔は、古文書をきちんと読まなかったことだけだよ」
そんなやりとりをして、珍しく二人で笑った。あるいは現在の境遇では、初めてのことだったかも知れない。
――このようにして彼らの日々は、永劫続いていくのだった。
いつかルカが体ごと心を絆されるまで。
それには後何百年かかるのだろう。
――僕はそれでもやはりあの時の選択を後悔することはない、そう、ルカは確かに思って、生き続けていく。救済の地は、すぐ側にある。ルカの認識が、幸福に変わるまで、もう少しの時がかかった。
こうして、世界は平和なまま、今日も通り過ぎていく。
数多の人々の嘆く不幸を抱えた平和を携えて。
それでもいつか、きっと幸せになれるだろうと、ルカは後々思うのだ。
なぜならば、己が幸せになったから。
目をこらせば、世界の姿は実に美しかった。
彼が来ると、ラフもやってくる。昨日は気がつくと仮眠室で横になっていたから、ルカは思い出すと羞恥と苦痛に駆られた。けれどその日の夜も、ラフがやってくれば、抱きつかずにはいられない。与えられ続ける快楽は、体をドロドロに熔かしていく。
昼間は教師の顔をして、夜は――……
そんな己に嫌気がさした。だからその日も、あくる日も、ここ一週間ほどやってくるベルダンテ侯爵の前で、思わず溜息をついた。するとベルダンテ侯爵とラフの視線がそろってルカへと向く。
「貴様らは、付き合ってるのか?」
「は?」
予想してすらいなかった言葉に、ルカは呆気にとられて目を瞠った。
しかしラフの方は些か不機嫌そうな表情で簡潔に答える。
「いいえ」
小首を傾げながら小さく頷いたベルダンテ侯爵は、視線をルカに向けたまま、腕を組んだ。
「だけど体辛いんだろ?」
「……」
ベルダンテ侯爵は、ルカの体のことを知っている。だが、ルカは言葉に窮した。なにが『だけど』なのか分からなかった。しかしすぐに次の言葉が紡がれた。
「どうせなら恋人の方が気が楽なんじゃないのか?」
「一理ありますね。もういっそう私のモノになってしまえばいいのではありませんか?」
放たれた理解できない二人の言葉に、思わずルカは立ち上がって声を上げる。
「誰が……!」
「では、貴方は好きでもない相手に抱かれるのですか?」
「それは体が……」
「本当にそれだけですか?」
「あたりまえだよ!」
「そうですか……」
すると僅かにラフが瞳を揺らして悲しそうな目をした。思わずドキリとして、ルカは生唾を飲み込む。何故胸が騒いだのかは分からない。おそらくは、好きでもない相手に抱かれている自分を指摘されたことに動揺したのだろうと、無理矢理ルカは納得した。
――その直後ラフが、ものすごく意地悪そうな笑顔を浮かべた。
「私は貴方の苦しむ顔も好きなので、これからも楽しみにしていますよ」
それは絶望的な言葉だった。
「わー痴話喧嘩――って、随分と嫌そうな顔をしているな!」
「……あたりまえだよ」
「そんなに嫌か?」
「どうして嫌じゃないと思うの」
「俺は扉が開かなくて良かったと今になっては思っているからな。人間は面白い。俺は人間の絶望も好きだけどな、幸福だって嫌いじゃない」
「僕だって――」
「後悔してないって言い切れるのか?」
ルカはこの時、言葉に詰まった。後悔などしているはずがない。なのに、だ。何故なのか声が出てこなかった自分を、内心で叱責した。妻の顔が過ぎる。幼かった子供の顔が過ぎる。人が嫌がることはしちゃいけないんだと笑っていた妻子の表情。嗚呼。
本当に騎士団だけでは勝てなかったのかと、ごくたまに考える。そうすれば……仮にそうなっていたら……こんな望まぬ一生を歩む必要はなかったのかも知れない。せめて死ぬという選択肢が残っていたら良かったのに。自分の世界を終わらせたいという願望が、ルカの胸中で時折頭を擡げる。
「……あたりまえだよ」
漸く出てきた声は、震えていた。
「顔が真っ青だぞ。あのな――そんなに嫌なら、扉が開いていたらどうなっていたか、視た同族がいて、”光景”を貰ってあるから、見せてやろうか?」
「ッ」
ルカは思わず息を飲んだ。ドクンドクンと心臓が煩い。
だからなのか――見たくないと言えば、嘘だった。無意識に、反射的に、ルカは頷いていた。瞬間、周囲の景色が変わった。
そこは驚くほど快晴の、青空の下だった。まるで絵画のように嘘くさい青だった。
雲一つ無いその空に、扉が一つ浮かんでいる。鎖がほどけていて、開いていた。開いていたのだ。扉の正面には何人かの騎士がいて、ルカも――オルカもそこにいた。ハデスの背にのり、十字架と指揮棒を手にしていたのだ。懐かしい騎士団の装束を纏っている。
扉からは、狂霊獣が出てきては、阻止しようとする騎士を喰らっていく。首から肩まで食いちぎられて、落下していく部下の一人。いいや一人ではない、何人もの騎士達が負傷している、死んでいく。呆然としたままルカは、おそるおそる地上を見やった。
――そして、”ソレ”を見ていることしかできない事実に愕然とした。
地に満ちる狂霊獣。地上は埋め尽くされていたから、逃げる場所などどこにもない。人々はただただ喰われ続け、断末魔の悲鳴を上げるか、泣き叫んでいた。あるいは諦めたかのように喰われていく人もいた。老若男女、職業、何も問わず、等しく、その場には死が待っていた。心臓が耳に接着したような感覚がして、冷や汗がこめかみを伝っていく。
冥界の扉からは、未だぼたぼたと地上へ、もう充ち満ちているというのに、狂霊獣が溢れかえって落ちていく。
嗚呼、死臭がした。血の気配がした。思わずオルカは、唇を掌で覆い、嗚咽を押し殺した。
涙がこみ上げてくる。
こんな世界、望んでいない。こんなのは嫌だ。絶対に嫌だった。
その時気づけばオルカは何かを叫んでいたのだが、自分の声さえ耳に入っては来なかった。
聞こえるのに聞こえない無音。否、聞きたくないだけなのだろう。けれど視覚すら離せない。じっと食い入るように見ながら、泣いた。あるいはこんな世界もあったと言うことだ。こんな現実を一瞬で盛りそうに夢描いた自分を殺してしまいたくなる。やはり人間は無力だ。嫌、自分が無力なのか。落ちていく一人一人の部下の顔を見据えている事しか出来ず、オルカは頬を温水が濡らしていく事にも気づかない。
「もう嫌だ、止めてくれ」
思わずそう叫んだ時、不意に周囲の光景が暗闇へと変わった。
――ベルダンテ侯爵の術が切れたのだろうか?
――それとも世界は滅んで……無が訪れたのだろうか?
ぼんやりとオルカは一人、立っていた。
「いいえ。私が介入しました」
唐突に声がして、その瞬間周囲に蝋燭が灯った。規則正しくそれは並んでいる。
オルカは、気配で、死神だと理解した。
しかし何故死神が? ついに――己にも、終末がやってきたのだろうかと思えば、苦笑してしまった。たった今、強く”現在”の幸福さに改めて気づいたばかりだというのに。
「幸福も不幸も貴方が感じる事に過ぎません」
「そうかもしれないね」
「それでこその、魂ゼーレですから」
「ゼーレ?」
「世界とは個々の認識の世界ですから」
「どういう意味?」
見慣れぬ服を着た青年――旧世界で言うならば、灰色のスーツを着て眼鏡をかけ、ワインレッドのネクタイを締めた死神は、オルカの問いに微笑した。
「認識する個人は人間――ゼーレとは、人間一人一人のことなんです。これは、死神しか知らない事実ですが。御遣いや悪魔は、皆同じ世界史か視ることの出来ない存在です。ああ――仮に奇跡的に御遣いや悪魔が亡くなった場合も、消滅するように見えて、死神の手に下るんです」
「――死神……それが事実なら、死神こそが、唯一神ゼーレなんじゃないのかな。いや、複数いるのか」
「いいえ。死神は、元々はゼーレだっただけの存在です」
「――それは、人間だったと言うこと?」
「そうです。だから貴方もまた、ゼーレなんですよ。父さん」
「ッ」
「私は貴方を誇りに思っています。二度と惑わされないで下さい。たまたま休憩中だったので、咄嗟に介入してしまいました。――父さんの幸せを祈っています」
オルカは、その名を呼ぼうとした。
父と呼ばれるまで、己の大事な息子の成長した姿なのだとは気がつかなかった。
言われればすぐに分かった。分かったのに――その瞬間には、オルカは光に飲まれていた。
「ン……っ」
「大丈夫ですか!?」
気がついた時、ルカはラフに抱きかかえられて、天井を見上げていた。
動揺したようなラフの表情すら、幸せなモノに思えた。相も変わらずこんな時だというのに体は熱かったが。
「突然倒れたから吃驚したぞ。術もプツリだったしな。失敗して死んだかと思った」
「全く、冷や冷やさせないで下さい」
そんなやりとりをしてから、ルカはソファに運ばれた。
――術が切れたと言うことは、夢ではなかったと言うことか。そうであることを、ルカは祈った。
「大丈夫そうだな」
「うん、有難う」
ルカが小さく頭を下げた。
ベルダンテ侯爵は、それを見てから手を振り返っていった。
一方のラフは、未だに溜息をついている。
その時だった。教務室の扉が勢いよく開いた。入ってきたのは、エルだった。
「先生って、オルカ・ヒルフェなのか?」
突然の言葉に、ルカは硬直した。ラフは何も言わず、気怠げにそれを見守っている。
「ワルター先輩から聞いたんだけど……」
「いや、その」
「そんなわけないよな。だってそれ、俺のお祖父ちゃんの名前だし」
「え?」
「父さんがいつも自慢してたんだよ。歴史の教科書にも出てくるし、俺もすごいと思ってるけど、先生じゃなぁ」
「――……自慢、か」
「まぁ先生が家族だったらすごく楽しいと思うんだけどな」
そう言って笑ったエルを見て、胸が苦しくなって、しかしそれは優しく温かく幸せみたいな名前をした痛みだったから、ルカは笑った。
「先生? 何で泣いてるんだ?」
「泣いてないよ。ちょっと風邪気味で鼻がね」
深々とローブを被っていて良かったと、本当に思った。
それから雑談をして、エルは帰っていった。終始見守っていたラフが苦笑したのはその時だった。
「慰めて差し上げましょうか?」
「いらないよ。うれし泣きだから」
「私には泣いていると話してくれるのですね。まぁ大抵の場合、私の前で貴方は涙していますが――扉が開いた時のご感想は? あの時の選択を、やはり後悔しましたか?」
「唯一の後悔は、古文書をきちんと読まなかったことだけだよ」
そんなやりとりをして、珍しく二人で笑った。あるいは現在の境遇では、初めてのことだったかも知れない。
――このようにして彼らの日々は、永劫続いていくのだった。
いつかルカが体ごと心を絆されるまで。
それには後何百年かかるのだろう。
――僕はそれでもやはりあの時の選択を後悔することはない、そう、ルカは確かに思って、生き続けていく。救済の地は、すぐ側にある。ルカの認識が、幸福に変わるまで、もう少しの時がかかった。
こうして、世界は平和なまま、今日も通り過ぎていく。
数多の人々の嘆く不幸を抱えた平和を携えて。
それでもいつか、きっと幸せになれるだろうと、ルカは後々思うのだ。
なぜならば、己が幸せになったから。
目をこらせば、世界の姿は実に美しかった。
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