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【第十話】セーフワード
しおりを挟むその後、俺は午後の講義の間は、ぼんやりしていた。皆がチラチラと俺を見ているのは、決して気のせいでは無かったはずだ。なんだか居心地が悪いのもあり、俺は放課後になるとすぐに、校門へと向かった。すると既に、グレイグの姿があった。
「良かった、来てくれて」
「はぁ」
果たして俺に断る権利があったのか、非常に疑問ではあるが、曖昧に頷いておいた。すると御者が馬車の扉を開けた。
「乗ってくれ」
「は、はい!」
こうしてグレイグと共に、俺は豪奢な馬車へと乗り込んだ。中央にはテーブルがあって、紅茶のポットやカップがある。男爵家の馬車とは規模が全く違う。
「あの、グレイグ様」
「今は二人きりだ。ひと目も無い」
「……」
「グレイグで良い」
「……そ、そういうわけには」
「呼べ」
「っ……グレイグ」
また俺の理性さんが失踪した。いつかもこんなやりとりをしたなと懐かしく思っていると、隣に座っているグレイグが穏やかに笑った。
「≪良い子≫だ」
「!」
ふわりと、何か力がこもった言葉がかけられて、俺はそれがあんまりにも心地よかったものだから、目を見開いた。胸が満ちたのだが、最初それが、褒められたからだとすら理解できなかった。
「ライナ先輩?」
「あ……っ、わ、悪い、ぼーっとしちゃって……あ、敬語……しちゃってまして……」
「――単刀直入に訊くが、先輩はSubだろう?」
「え」
「答えてくれ」
「……でも、非公開にしています」
「だが、Subだろう?」
「う……」
隣で強く繰り返されて、俺は口ごもった。だが、もう確信されている気配がする。何故だろう? 悩みつつ、チラリと俺はグレイグの横顔を見る。
「あの、俺がSubだと何か問題が?」
「いいや、問題は逆に消失する」
「?」
「Subならば、【セーフワード】があると思うが、俺に教えてくれないか?」
「へ? 無理です」
「俺は教えるに値しないか?」
「いえ、そうじゃなく、俺は【セーフワード】を決めた事は人生で一度も無いので」
実家でも魔物討伐部隊でも、それは変わらない。命令は絶対だったし、拒否して≪Sub drop≫の状態になれば、それは俺が悪いというのが常識である。
「では、俺が一緒に決めても良いか?」
「グレイグが? どうしてまた?」
「今宵、共に月が見たいからだ」
「あ、そういえば、それって一体どういう……?」
「俺の――月の徒弟になって欲しいという意味だ」
「は?」
「俺はDomだ。ライナ先輩はSubだ。そしてお互い、年齢もクリアしている」
「でも俺達、派閥が違いますしね。普通は同じ派閥の人を選ぶと聞いてますよ」
何を言われているのか理解できないというよりは、信じられなくて、俺は動揺しながらそう返した。するとグレイグが視線を下げ、唇で孤を描く。
「そういう者もいるが、本来月の徒弟とは、パートナー候補を選定する制度だ」
「それは、そうかもしれませんが」
「俺がパートナー候補となるのは、不満か?」
「……でも、Subはいっぱい、それこそあまりにあまってますし。Domは少ないし。それもグレイグみたいな家柄の良い高ランクのDomの場合、ちょっと俺には高嶺の花過ぎて目視不可能な崖の上に位置しているというか……」
「俺はライナ先輩が良い」
「どうして俺?」
困惑しながら、俺は首を捻った。すると幾ばくか考えるような目をしてから、グレイグが不意に微苦笑し、じっと俺を見た。
「俺が新入生の時、助けてくれたな?」
「!」
え、気づかれていただと? 一体どうして?
「実はあれ以来、俺は他者との接触が少し怖くてならないんだ。助けてくれた先輩ならば、大丈夫かと考えた結果だ」
俺は目を丸くした。それはあり得る。誰だって、殴られそうになったり強姦されそうになったら、不安にもなるだろう。そういう事ならば、俺に出来る事があるのなら、協力しても良いだろう。どうせ学園内だけの制度であるし、卒業したら終わる関係だと思うしな。
――そう、俺は人並の同情心を持ち合わせている。
「分かりました。俺で、パートナーがどういうものか理解する練習台になれるのなら、いくらでも!」
「――では、俺の徒弟になってくれるな?」
「はい!」
「良かった、やはり言い方は熟考しておくべきだな」
「はい?」
「こちらの話だ。ではまずは、【セーフワード】を決めよう。希望はあるか?」
「え……? 俺、詳しくなくて……」
確か、ゲームの主人公のクリフは、【RED】だったはずだ。だがこれが一般的なのか否かを俺は知らない。
「嫌いなものはあるか?」
「魔物が嫌いです」
「では――【化物】としておくか?」
「はぁ……ええと、どんな時に言えば良いんでしたっけ?」
「嫌な時だ。本気で止めて欲しい場合に使ってくれ」
「分かりました」
死ぬより嫌な事は何かあるだろうか? 俺には、想像が出来ない。
そのようなやりとりをしていると、馬車がバルティミア公爵家の王都邸宅へと到着した。御者が開けてくれた扉から降りると、ずらりと並んだ使用人達が一斉に頭を下げた。公爵家の使用人であるから、多分男爵家次男の俺よりも上の爵位の人が多数だろう……。
その中央を堂々とグレイグが歩いていく。俺は恐る恐るついていった。
案内されたのは、グレイグの私室だった。
大きな窓があり、既に白い月が見える。今日は昼間から、月が出ていた。
「座ってくれ」
「失礼します」
「それと、敬語をやめてくれ」
「……」
「俺もライナと呼んでも良いか?」
「どうぞ……」
「だから、敬語」
「……それは、その……身分が……」
俺が困っていると、グレイグが細く長く吐息した。
「月の徒弟は本来、対等な立場を保証するものだ。既に、徒弟となる約束をし、セーフワードを聞いている以上、俺達は対等だ」
「……」
建前としてはそうかもしれないが、あくまでも建前だと俺は思う。紅茶の用意をしている使用人は無言だが、明らかにこちらの会話は耳に入っている様子だ。俺が執事らしき人をチラチラ見ていると、グレイグが腕を組んだ。
「さがれ。暫く二人にしてほしい」
「畏まりました」
こうして、使用人が出ていった。二人きりになった部屋で、俺は肩を丸めた。なんだか緊張感が凄い。
「早速、【命令】しても良いか?」
「え? あ、ああ、はい!」
「≪お座り≫」
そう言われた瞬間、俺は魔術師としての最敬礼を取った。俺にとっての≪Kneel≫は、これしかなかった。
「……斬新だな。まるで騎士のようだな」
一応俺も近衛騎士の一員でもあるので、何とも言えない。
「だが、俺との場合は、今後は別の座り方をしてくれ」
「えっと……どんな……?」
「そうだな――≪こちらへ≫」
自然にコマンドが放たれた。それがあんまりにも心地良く感じつつ、俺は立ち上がってグレイグの所へと向かった。するとグレイグが彼自身の膝を示した。
「ここへ≪座れ≫」
「!」
驚いたが、俺は素直に従った。グレイグの膝の上に、横に座ってみた。あんまり背丈が変わらないし、若干不安定だし、個人的には恥ずかしいが、≪命令≫が嬉しくて、つい俺は喜んで座ってしまった。
「≪よく出来たな≫」
「……!」
頭を撫でながら耳元で囁くように言われ、俺は顔から火が出そうになった。褒められた、今度こそ褒められた、本当に褒められた。なんだこれ、幸せすぎるだろう……!
「≪こっちを見ろ≫」
「……」
言われた通りに視線を向ける。もっと褒められたいという気持ちと、グレイグの言葉の通りに動きたいという欲求がある。
「≪Good≫」
「!!」
するとまた褒められた。俺は唇を震わせた。ぶわりと胸に温かいものが満ちた。未知の感覚に、眩暈がする。そんな俺を、うっとりするように紫色の瞳でグレイグが見ている。
「≪そのまま≫」
俺は言われるまでもなく、惹きつけられて目が離せない。
「今日は、沢山ライナの事を教えてくれ。話がしたい」
「……」
「≪聞かせてくれ≫」
「……俺……っ」
グレイグが端正な手を持ち上げて、指先で俺の唇をなぞった。そうしながら笑みを深める。
「好きな食べ物は?」
「た、卵……」
「そうか。では、嫌いな食べ物は?」
「……特にない」
「本当に? ライナは、いつも食堂で、出てきた料理のトマトを残していなかったか?」
「あ……食べられないわけじゃなくて、あまり好きじゃないだけで……」
「それは嫌いとして良い。覚えておく」
この日俺は、グレイグの膝に座ったまま、唇や頬を時折指で撫でられつつ、様々な事を聞かれた。すると窓の外の日もすっかり落ちて、月が昂くなっていた。
「――月が、綺麗だな」
「うん、そうだな……」
「随分と、敬語を使わない事にも慣れてもらえて良かった」
「っ、二人の時だけなら」
「当面はそれで良い。十分だ。≪良い子だな≫」
そう言ったグレイグに、最後にまた頭を撫でられてから、俺は玄関まで送ってもらった。帰りの馬車も、公爵家が出してくれるとの事で、男爵家にもこちらへ立ち寄った事は伝達済みだとその時聞いた。
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