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―― 第二章 ――

【035】資料を読む

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 次の日、吐く息が白くなるその朝は、昨日の偲の宣言通り、礼瀬家の前には馬車が停まっていた。澪と手を繋いでいる小春に見送られて、時生は偲と共に馬車に乗り込む。車窓から行き交う人々を眺めれば、皆忙しなく歩いているように見えるが、どことなくその光景すら平穏を感じさせる。

 膝の上に置いた鞄の中にある茶封筒と辞書について考えている内に、馬車は本部の前に停車した。本日も高東中尉に挨拶をしてから、時生は偲と共に執務室へと向かう。本日は相樂と青波の姿がない。

「それでは、始めるとするか」

 偲の声に、時生はおずおずと封筒を差し出す。

「き、昨日少しやってみたんです」
「――やらなくていいと伝えただろうに」

 時生の声を聞くと、偲が苦笑した。

「これからは、やはり先に渡すのは止めにしなければならないな。見せてくれ」

 受け取った偲は、中から書類を取りだし、文字を視線で追いかけてから、はにかむように笑った。

「完璧だ。ありがとう」
「すごいなぁ、偲が笑ってる」

 そこへ声がかかった。時生が視線を向けると、入り口の扉を音もなく開けた青波が目を丸くしていた。すると一気に偲の表情が冷ややかになる。

「青波……俺だって笑うこともある」
「それは知らなかった」
「嘘をつくな」
「確かにそこまで言うのは嘘だが。ふぅん」

 青波は面白そうに笑った後、自分の席へと向かう。そして背後の棚から書類を取り出し執務机の上に置くと、疲れたように溜息をついた。

「これも面倒なんだよな、訳すの。時生くん……」
「青波、時生をいいように使うな」
「なんだよ? お前だけの補佐じゃないだろ」

 二人のやりとりに、時生が声を上げる。

「僕にできる事があるなら……」

 すると二人が沈黙してから、どちらともなく優しい顔で笑った。

「なるほど、時生くんは良い子なんだな。こりゃあ俺まで笑顔になる」
「そうだ。時生は善良でもあるし、人が良い」
「偲が過保護になるのもよく分かる」

 こうしてそこからは、三人で異国語の書類と格闘した。時生から見ると、多くの記述は簡単だったが、そこに混じる専門用語は、やはり辞書が無ければ難しく感じた。吸血鬼とこの国で呼ばれる存在一つとっても、各国で様々な呼ばれ方がしている。その上、漠然と時生は吸血鬼としか考えていなかったが、ダンピールなども存在すると、時生は辞書を読みながら、同時に知識をつけていった。

 そのような日々が数日続いた頃だった。
 一区切りついた様子の偲が、時生を見た。

「二日後に、慰霊祭があるんだ。今日の午後からは、俺達はその準備にかかりきりになるから、その間時生は、通常任務を覚えるといい。あちらの対策室に待機している――ああ、今日明日は灰野が担当か。彼に、教えてくれるよう頼む。ついてきてくれ」
「はい!」

 こうして時生は特別執務室を出た。偲は正面にある扉へと真っ直ぐに歩いて行く。扉には、本部対策室という看板が出ていた。偲が扉を開けると、中には机の列があり、壁際の一角に灰野が一人で座っていた。他の面々は出払っている様子だ。

「灰野」

 偲が声をかけると、灰野が顔を上げた。

「今日明日と、時生に通常の任務について教えて欲しい。もう半年経つし、先輩として、お前にならばそれが可能だと俺は判断している。任せて構わないか?」
「……はい」

 灰野は少し間を置いてから、感情の窺えない声で返答した。
 偲はそちらに頷くと、時生を見る。そして優しく肩を叩いた。

「あまり無理せずな」

 時生が小さく頷くと、笑みを深めてから、偲が部屋を出て行った。背後で閉まった扉の音を聞いていた時生は、それから改めて灰野を見る。

「は、はじめまして。高圓寺時生です。宜しくお願いします」
「……ああ。今、こちらの隣席の荷物を退ける。そこに座ってくれ」

 灰野は平坦な声でそう述べると、自席の横の机の荷物を奥に押した。確かに時生の分の席は空いたが、単純に荷物が横に移動しただけなので、整理などはしていない。おずおずと時生が歩みよると、灰野が椅子を引いてくれた。灰色の回転椅子だ。

「……」
「……」

 目元しか見えない灰野だが、特に笑っているわけでも怒っているわけでもない様子で、時生には無表情に見えた。長身だから威圧感がある。会話が無くなってしまったのだが、時生は余計な言葉を述べて相手の気を害する事が怖いため、なにか口を開くべきか思案せずにはいられなかった。

「……その」
「は、はい」
「……通常任務というのは……要は、なにかが発生した時に備えて、ここに座って待機していたり、事件が起こったら対策方法を考えることで……基本的には、それらもなく、なにもする事はない。そのため、席に着いて過去の出来事の書類を読むのが常だ。それだけだ……だから、俺が教えるようなことは特にない」

 灰野は時折間を挟みつつ、淡々とそう述べた。そして正面に詰まれている書類の山から、一つの議事録を手に取ると、時生に手渡した。

「たとえばこれは、明後日行われる慰霊祭――最後に起きた、第一級指定あやかし災害の記録だ」
「第一級指定あやかし災害……?」
「ああ。害あるあやかしには……その……事件の規模や脅威の度合いによって、いくつかの指定がある。たとえば、そこに記されている【牛鬼】は、過去に大勢のあやかし対策部隊の軍人を殺害しているから……指名手配され懸賞金もかけられている。そういったあやかしは、指名手配書・深緋こきひに分類される、最も危険な存在だ」

 つらつらと語る灰野の声には、やはり感情は見えない。ただその声音はどこか冷ややかで、冷徹そうな印象を与える。威圧感のある気配と鋭い眼光に、時生は少しばかり怯えかけた。だが、親切に説明をしてくれているのは間違いないと感じ、必死で頷く。

「そういった勉学をして知見を深めたり、あとは破魔の技倆の訓練をしたりしている」

 それを聞いて、時生は顔を上げた。

「どんな風に訓練をしたらいいのか、巧く掴めないんです……どんな風に訓練をしたらいいとかは、ありますか?」

 するとチラリと灰野が瞳を動かし、時生を見る。それまで目が合わなかったので、時生は正直ドキリとした。射貫かれたような気分になったからである。どことなく、怖い。その理由はよく分からないのだが、直感としかいいようがない。

「……訓練室へ行って、あやかしを視ることから始めればいい。そして、まずは……慣れることだ。怯えていたら、なにもできない」



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