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―― 序章 ――

【004】新しい一日の開始

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 気づけば泥のような眠りについていた時生は、翌朝瞼の向こうに光を感じて目を覚ました。すると内障子が開く音が響き終わったところで、寝ぼけ眼で上半身を起こした時生がそちらを見ると、おかっぱ頭の少女が着物をたすき掛けにし、時生へと顔を向けた。目が合うと、彼女は自慢げに笑った。

「おはようございます。偲様がお連れになったのでしょう? 聞いてますよ」
「は、はい、え、えっと……」

 一気に覚醒した時生は、居ずまいを正して、思わず正座する。
 膝の上でギュッと拳を握っていると、彼女が興味津々という瞳を、時生に向けた。

「私は、真奈美。貴方は、時生さんというのでしょう?」
「はい、ぼくは高圓寺時生といいます」
「澪お坊ちゃまのお世話係だとか?」
「えっ、あ……その、子守りをする者を探していると……そう仰られて」

 小声で述べる。

「そうなのよ!」

 すると真奈美が身を乗り出し、膝に両手をつくと、大きく何度も頷いた。

「澪お坊ちゃまは、可愛くて良い子なんだけれど、ちょっと大変なの。私と小春さん、そこに渉を加えても手に負えないのよ!」

 嘆かわしいというように、大きく嘆息した彼女は、それから姿勢を正して、窓のガラスを開けた。

「それにこのお屋敷はとても広いでしょう? 面倒を見てくれる人を、ずーっと探してたの! ありがとう! 大歓迎!」
「は、はい……よかった……」

 ただの優しさから、子守りを頼んでくれたのかと思っていたのだが、実際に役に立つことが出来そうだと判断し、時生は心が軽くなった。精一杯頑張ろうと思いながら、掛け布団をたたむ。

「私は、主に洗濯と掃除を担当してるの。あとで紹介するけど、小春さんは一番長くここに勤めてるおばあちゃん、ね。偲様が子供の頃からいるらしいの。それで渉は、書生なんだけれど、主に力仕事をしてくれる……まぁ、あれよ。クソガキよ!」

 明るい声で真奈美は続けてから、戸口の方を見る。

「朝ご飯は、この邸宅では毎朝六時と決まっているの。あと十分で六時だから、起こしに来たの。さぁ、行きましょう! お出かけになる前に、澪お坊ちゃまの事を、時生さんにご紹介したいそうだから」

 それを聞いて、慌てて時生は立ち上がった。一緒に部屋から出る。

「お部屋の場所は覚えておいてね。この客間が時生さんのお部屋になったから」

 明るい声で道順を説明しつつ、真奈美が急な階段を降りていく。手すりに触れながら時生は後に続き、一階に降りた。長い廊下で、右手には軒先と庭が広がっている。本当に広大な様子で、遠目に見える池には橋が見える。

 早足の真奈美に従い、自然と時生も急いで歩いた。
 そうして到着した食事の場は、意外にも洋間だった。奥に台所がある様子だ。

「ああ、おはよう」

 すると椅子に座っていた偲が顔を上げた。既にビシリと軍服を着込んでいる。丸いテーブルで、偲の隣の小さな椅子には、一人の男の子が座っていた。空いている椅子がもう一脚だ。

「どうぞ、かけてくれ」

 偲がそう述べたので、おろおろと時生は偲と真奈美を交互に見る。

「普通主と一緒には食べないの。でも時生さんは特別よ」

 真奈美は小声でそう言ってから、偲に笑顔を向けた。

「それでは失礼致します」
「ああ。ありがとう、真奈美」

 偲の声を聞き、にこやかな表情のままで真奈美は立ち去った。それを見送ってから、椅子に視線を落とし、おずおずと時生は腰掛ける。すると視線を浴びるように感じ、チラリと見れば、男の子が目をまん丸にして、じっと時生を見ていた。

「紹介する。息子の澪だ」
「は、はじめまして。時生です……」
「時生!」
「こら、澪。年上の方に、そういう口調でいいのだったか?」
「うん! 真奈美は真奈美って呼ぶように言う!」
「……そうか。それもそうだな」

 偲が言い負かされていた。時生はその光景が微笑ましく思えて、思わず小さく笑ってしまった。それを見た偲が驚いた顔をしてから、柔らかく微笑む。

「やっと笑ったな。ずっと辛そうにしていたものだから、心配していたんだ」
「あ……」

 照れくさくなった。時生は感謝の気持ちもあり、何か伝えようと言葉を探す。

「澪。今日から、時生は澪のお世話をしてくれる。つまり、先生のようなものだ。先生には、そのような口調でいいと思うのか?」
「うん! おれの先生はお父様だけど、俺はお父様にこういう口調だ!」

 偲がこみかみに指を添えて解している。
 自信たっぷりの様子で笑顔の澪は、それから時生を見た。

「おれの世話をせいいっぱい頑張るように! よろしくたのんだぞ!」

 時生は吹き出すのを堪えて、二度大きく頷いた。このように明るい気持ちになったのは、随分と久しぶりな気がした。

「宜しくお願いします」
「うん。おれは今、四歳だ! 今年五歳になるんだぞ!」
「僕は二十歳です」
「ふぅん。お父様は、もっと年寄りだ! お父様は、二十七歳だ!」

 それを聞くと、偲が肩を落とした。

「時生。年寄りという語彙を、澪から削除してくれないか?」
「え?」
「実際俺は、君よりも年寄りであり、君に言われるなら別にいい。だが実子が、俺のことを頻繁に年寄り呼ばわりするのは、あまり快くないんだ」
「わ、わかりました……」
「これも妻が、少しな」

 すると偲が、どこか遠くを見るような目をした。出て行ったと聞いた記憶が、おぼろげにある時生は、思わず固唾を呑んで見守る。

「まぁ、時生にもいつか話そう。それよりも、食事としよう。時生には、澪の食事も見て欲しい。時間を合わせさせて悪いが、ここで共に食べて欲しい」
「はい」

 時生は頷いてから、用意されていた洋食を一瞥した。輝くようなスクランブルエッグと赤いケチャップ。添えられているレタスとキュウリ。味噌汁と白米の碗。見ただけで、お腹が鳴りそうになった。このようにまともな朝食など、一体いつ以来だろうか。記憶に無い。いいやそもそも、まともな朝食を運んだり、作ったりする手伝いはしたことがあるが、自分が食べたことはあっただろうかと、時生はぼんやりした。

 こうして食事が始まる。手を合わせて『いただきます』と述べてから、皆で箸やスプーンを手に取った。一口食べて、美味しすぎて時生は涙ぐんだ。口の中で蕩けていくような卵の味が絶品だった。本人としては、パクパクと高速で大量に食べた。だが、皿の三分の一程度を食べたところで、満腹になる。味噌汁もご飯もほとんど残っている。

「口に合わないか?」

 箸を持ったまま動作を止めた時生に、偲が問いかけた。

「い、いえ! すごく美味しいです。でも……その……お腹がいっぱいになってしまって……ごめんなさい……」
「ああ、病み上がりだしな。ただ、痩せているところを見ると、食が元々細いのか? 勿論残して構わないが、少しずつ食べる量を増やせるとよいな」
「ありがとうございます」

 気を害した風でも、怒るでもなく、淡々と偲が述べた。それにほっとしていると、澪が笑う気配がした。

「いっぱい食べないと、大きくなれないんだぞ! おれを見習うように!」

 その声を聞いていたら、時生の肩から力が抜けた。
 こうして、食事の時は、進んでいった。

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