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―― 番外 ――
【*】存在理由
しおりを挟む山縣は時折考える。
――己は、何のために生まれてきたのか。
哲学など似合わないと思いながら、山縣は居室で、暖炉を見た。椿山荘の庭に雪が積もったのは、昨日の事である。暖炉の上には、ビスマルクの銅像とモルトケの銅像がある。
プロイセンの首相を務めたビスマルクは、鉄血宰相とも呼ばれている。山縣は、冷徹になりきれない自分を戒めるため、度々その銅像を居室のソファに座って眺めていた。
モルトケは、毛奇と呼ばれる事が多い、プロイセンの参謀総長である。ドイツ陸軍の父と称される人物だ。
自分の育てている陸軍を振り返る時、モルトケのように芯を持たなければならないと、山縣は自戒する事がある。そのため、こちらの銅像も度々眺める。
だが――果たして彼らには、生まれた理由を考える機会などあったのだろうか。
山縣は、感傷的な気分になりながら、それが己の弱さだと感じた。
彼は、面倒見が良い。慕われているわけではないだろうが、山縣の元には人が集まる。山縣は、部下に助けの手を伸ばす事が多い。私党を持たない事をよしとする伊藤とは対照的だ。だがそれは――自分が困った時に、誰かに助けて欲しいからではないのかと、山縣は幾度も考えた。その点、伊藤は強い。肝心な決定を一人でなせる。
――最初は、この国を変えるために生まれてきたのだと思った。
――次には、友子と出会うために生まれたのだと確信した。
――そうして最後には、何も残っていない。
友子との愛の証である松子は、ここの所、不安げな顔をしている事が多い。それは山縣が戦に関わっているからだろう。母を失った松子は、父も失う事に怯えているらしい。山縣は、そこに愛を確かに感じるが――時に、無性に虚しくなる。
愛した友子の面影がある松子を見る時、山縣は言い知れない寂寞に襲われるのだ。
いつか、松子も失うかもしれない。
親子で互いに、喪失に怯えているなど、笑い種だろう。
「俺は、失うために、生まれてきたんだろうか」
一人、山縣は呟いた。現実の何もかもが悪夢である事を、時に祈ってしまう。
だが、己が何に祈っているのかは、分からない。
自分達が作り上げた大日本帝国憲法に記された神に――?
いいや、違う。この国の神を憲法制定で創造した一人は、紛れもなく山縣である。
新しい世界の輪郭を形作ったのは、間違いなく山縣だ。
だが、それは何も残さなかった。身近な人物を、誰ひとり、幸せにできていない。山縣はそんな風に考えている。それもまた、部下に手を差し伸べる理由の一つだ。だが、結局のところ、それすらも己を誰かに幸せにして欲しいだけなのではないかと考える。
――唯一、自分を幸せにしてくれた、友子の事が忘れられない。
こんな日は、泣きたい気分になるからと、山縣は深い雪の中、富貴楼へと向かった。己が泣く事を許されている場所だ。迎えたお倉は、山縣を見ると、小さく首を傾げた。
「今日の山縣様は、瞳がお暗いですね」
「そうか?」
曖昧に笑って、山縣は誤魔化した。泣きに来たのではあるが、涙はこぼさない。お倉の前で、心の中で泣く事が出来れば十分だと思っていた。
その時、ふと思い立って、山縣は聞いた。
「お倉。お前は、自分が何故生まれてきたと思う?」
「幸せな夜を提供する店の女将としては、山縣様と出会うためだとお答えする以外、他の言葉は出てまいりません」
「――真面目に聞いているんだ」
「分かっております。ただ、本心です」
「何故、俺に?」
「この国の未来を、見届けたいからです」
それを聞いて、山縣は虚を突かれた。驚いて、体を固くする。その前で、お倉が悠然と笑った。
「山縣様が作っておられる世界が、この国が、私は好きですよ。この場で、この時代に、立ち会い生きる事が出来て、私は幸せです」
山縣は、その言葉に目を見開いた。
「幸せ、か……そうか」
呟くと、久方ぶりに涙腺が緩んだ。己は、お倉に、幸せを与える事が出来てるのだと思うと、無性に嬉しかったのだ。
「口には出さなくとも、山縣様の優しさに触れたお方は、皆そのように感じていると思いますよ」
「――そうでもないぞ。俺の派閥は、嫌われている。新聞でも散々な記事ばかりだ。きっと俺の葬儀に、人は来ない」
そう言いつつ、山縣は続けようとした言葉を胸の内にとどめたまま、俯いた。
失う予感がしたからだ。己の死に際に立ち会って欲しい誰もが、先に逝く強い予感。
「なぁ、お倉。もしも俺が逝ったら、あの世でも酒を振舞ってくれるか?」
酒盃を手にしつつ、山縣が微苦笑しながら告げる。するとお倉は、酒を注いでから、ほっそりとした手を頬に添えた。
「奥様がお許しくださるのならば」
「ああ。お前に、友子を紹介したいんだ」
それが叶わない夢である事を、山縣は勿論理解している。あの世など存在しない。だが、想定して、そのどこかで、友子が幸せにしているとでも考えなければ、辛さに押しつぶされそうになる時がある。あの世とは、生きている人間のために、存在する概念なのだろう。
「――そうですね。その時は、伊藤様も呼んで、みんなで宴を開きましょう。そして山縣様がお得意の和歌でも披露して頂きましょうか」
そんなやりとりをした夜が、確かにあった。
なお――山縣の予感は当たり、伊藤もお倉も先に逝く。
山縣の葬儀は国葬だったが、非常に少数の人間しか訪れなかったとされている。
だが。
数の問題ではない。山縣に幸せを分けてもらった人々が、確かにそこに参列していた。
仮にあの世が存在するならば、山縣はその光景を笑顔で見ていた事だろう。
失うためではなく、幸せを作るために生まれた事を実感しながら、笑ったに違いない。生前の山縣は、この夜の事を生涯忘れなかった。
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