富貴楼と元老

猫宮乾

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―― 番外 ――

【*】道化

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 ――この日は、下弦の月が、横浜の夜を見下ろしていた。それを窓辺でお倉が見上げている。彼女のうなじは、その月のように白い。
 伊藤は一瞥して、その色香に見惚れたが、彼の正面にいる山縣は不機嫌そうに一枚の紙を眺めているだけだ。視線を戻し手酌をした伊藤は、苦笑しながら山縣に声をかける。
「山縣、何が気に食わないんだい?」
「強いて言うなら、全てだな」
 山縣が見ているのは、新聞記事の切り抜きだった。最近圧力をかけようか検討中の新聞だ。その記事を書いたのは、伊藤と共に嘗て密航した長州の人間の配下の者である。同じ長州閥であるから、面倒見の良い山縣は切り捨てる覚悟をまだ出来ないでいる。寧ろ親しい友である伊藤の方が、言論統制の案を下す覚悟がある事を、この時の山縣はまだ知らなかった。それが総理大臣となった伊藤の信念でもある。
 だから山縣のもとには、人が集まる。情に厚いからだ――が、人当たりは決してよくはない。対する伊藤は人当たりこそ良いが、皆に心を開いたりはせず平等であるからこそ――冷たい。しかし山縣といる時は、伊藤は自然体になる。だからこそ山縣は、長らく伊藤の冷酷さには気づかないのだが、気づくのは、また別の機会である。
 本日眉を顰め、不機嫌そうに新聞を畳の上に投げた理由は、別にある。
「なんだこの記事は」
 山縣は腕を組むと、伊藤を睨んだ。その視線を受け止めて、伊藤は苦笑してから、新聞を拾う。そこには、大々的に鹿鳴館での夜会について記載されていた。
 四月二十日に、仮装大会を鹿鳴館で行った――そんな内容で、主催者は、伊藤とその夫人の梅子と書いてある。新聞記事を見た伊藤は、視線をお倉へと戻しながら、静かに答える。
「実際にはねぇ、総理官邸で行ったんだよ」
「聞いている。尚更悪い」
「――僕が主催者だというのは、誤解だよ。僕と梅子は、イギリス公使のご夫妻に、会場を提供すると決めただけだ」
「だが、仮装はしたんだろう?」
「ま、まぁね」
「お前は何に化けたんだ?」
「黙秘するよ……そ、そうだなぁ、一番目立っていたのは、誰だったかなぁ。ああ、釣竿を持った浦島太郎に扮していた、ええと、誰だったかなぁ」
 引きつった笑みで伊藤が続けると、どんどん山縣の眉間の皺が深くなっていった。
「道化の格好をした馬鹿騒ぎじゃないか」
「まぁまぁ」
「伊藤。お前は本当に、こんな事で、大日本帝国が抱える不平等条約の問題が解消すると思っているのか?」
 山縣の険しい声音から逃れるように、伊藤はお倉を見ている。しかしお倉は月を見上げているだけで、助け舟は出してくれない。今日は、ただ悠然と微笑している。僅かに落ちている細い髪が艶を感じさせる。
「勿論思っていないし、それは、井上も含めて、誰だって分かってると思うよ、本音ではね」
 伊藤は諦めて山縣を見て、微苦笑した。山縣は半眼で、そんな伊藤を見据える。
「西洋の猿真似をして、大日本帝国が解放されるならば、楽で良いな」
「本気でフランス式の軍備を整えている山縣からしたら、お遊びに見えるかもしれないけどさぁ」
「――今、俺はドイツ式の軍備の導入を進めている」
「あ、そうだったね」
 から笑いをした伊藤を、山縣は呆れた顔で見ている。それから山縣は手酌し、酒を口に含んだ。葡萄酒よりもよほど、日本の酒が美味いと感じる。その後酒盃を置いて、山縣は座り直した。苛立ちが募ったので、眉間の皺をほぐすため、指を二本添える。しかし、機嫌が治らない。山縣から見ると、鹿鳴館外交は馬鹿げて思えるのだ。一度、友子と出かけた時は、友子が美しかったから許せたし楽しむ事が出来た。しかし、総括的に考えると――ありえない。
「お、お倉。どう思う?」
 山縣の様子を眺めていた伊藤は、ついに口に出して、お倉に助けを求めた。すると彼女は、落ちている髪を繊細な指先で撫でながらクスリと笑う。持ち上げられた唇の端に色気が滲んでいる。
「井上様も必死なのですよ」
「俺だって必死だ。陸軍を作る事に」
「それは分かっております――それと、伊藤様や井上様の肩を持つわけではありませんが、鹿鳴館は、私は悪いとは思いません」
「どこが?」
「女性の存在感を増すには、非常に良い機会なのでは?」
 その言葉に、鹿鳴館で何度も見かけた、富貴楼詣でをしていたり働いていたりする芸妓の事を、山縣は思い出した。鹿鳴館は、特に女性を集める事に必死であり、芸事に巧みな玄人の女性も招かれる事が多いらしい。つまり、お倉の息がかかった女性が沢山顔を出しているのだ。
「私は、もっとオナゴが活躍できる未来が来ても良いと思います」
 お倉が静かな声でそう告げた。山縣はそれを聞いた時、妻の友子の顔を思い出した。庄屋の娘であった彼女は、畑で向日葵のような笑顔を浮かべていた。それを見た時の事を、当時の友子の表情を思い出すと、今でも山縣の胸は思春期の子供のように疼く。
 農村で明るく友子は笑っていた。いいや、友子だけではない。長州というあの土地で、笑っていた女子は多かった。だから山縣は常々思う。まるで女性が活躍していない、できないというような言葉には、首を振りたいと。
「この国の女は、充分元気だ」
 山縣がそう言うと、お倉と伊藤が、揃って彼を見た。二人共、驚いた顔をしている。
「ただ――そうだな。もっと過ごしやすくなれば良いのかもしれないな」
 そうして、もっと友子の明るい笑顔を見る日を増やせたならば、それは幸せだろうと山縣は感じたのだった。
 なお、鹿鳴館外交は、約十年ほどで幕を閉じた。


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