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―― 番外 ――
【*】闇夜
しおりを挟む――嗚呼。今日も念仏が響いてくる。
帰宅した山縣は、一心不乱に仏壇の前で祈る友子のいる和室へと、真っ直ぐに向かった。己が発布に関わる大日本帝国の憲法や、軍の勅旨で神道を持ち出しているから、仏門を拒否しているというわけではない。なにせそこに並ぶのは、幼くして亡くなった我が子らの位牌だ。
襖を開けて立ったまま山縣は、自分の帰宅に気づいた様子もなく、念仏を唱える友子を見ていた。最早彼女には、太陽のような、ひまわりのような、そんな気配は微塵も無い。蝦夷地に行った時に、弟の方の西郷が目にしたという、名前だけ聞いた事のある黒百合を、山縣は連想していた。直接目にした事はないが、ここの所巷で流行している花言葉という噂話を職場で耳にし、蝦夷地に行ったものから、黒百合について、聞いた事がある。
――呪い、だ。
友子の暗い瞳と声は、山縣に闇夜と呪詛を連想させる。
そして常に悔恨の念を抱かせるのだ。妻を闇に囚われるかのように病ませてしまったのは、寄り添う事が出来なかった己のせいだと。ずっと笑っていて欲しかったはずなのに。
次の休日、ふらりと山縣は、富貴楼へと向かった。季節は紫陽花が咲き誇る頃合で、その日は梅雨の合間の晴れた日だった。しかし新月であるから、月も星も見えない。通された座敷の窓から見える海さえも、闇に囚われたかのように漆黒だった。
山縣が暗い瞳をしているのを、玄関先で見て取ったお倉は、この日も一人で山縣を接待する事に決めた。偶然ではあるが、その日のお倉の打掛の色は、黒に銀糸で蝶と紫陽花をあしらったものだった。山縣は、それを見ていう。
「喪服のような打掛もあるんだな」
山縣自身は冗談のつもりだった。しかしお倉は、それが山縣の本心だとすぐに見抜く。慣れてしまえば、山縣の表情は、豊かに見えてくるのだ。軽口を叩く時であっても、その裏に繊細さと緊張が、いつも覗いているとお倉は正確に理解していた。
「酒をくれ」
そんな時、山縣が珍しい言葉を放った。いつもは勧められて酌をされるだけの山縣が、自ら酒を所望したのは初めてと言えた。お倉は小さく首を傾げて聞いてみた。
「どんなお酒をご所望ですか?」
「酔えれば良い。ああ、そうだな、ここは横浜か。そうだった。では、麦酒でも持ってきてくれ。俺も遊学中は何度か嗜んだ」
その声に頷いて、『客』の所望であるから、お倉は外に控えていた男衆に手配をさせた。すぐに届いた瓶ビールとグラスを、山縣はじっと見ていた。そばにより、お倉が酌をすると、山縣は一気に飲み干す。いつも健康に気を遣い、酒に逃げるような姿も見た事がない山縣の意外な行動に、お倉は嘆息した。察しがつく。山縣が荒れる時というのは決まっているのだ。
「奥様となにかあったのですか?」
すると二杯目の麦酒を求めながら、山縣は視線を下げて沈黙した。
「なぁ、お倉。今宵のように月が消え、星も消え、海も闇に包まれている時、人はどうやって明かりを見つければ良いんだ?」
「奥様が、失踪でもなさったのですか?」
「いいや。闇に心を囚われかけて、必死で仏にすがっているんだ」
山縣の声に、お倉は短く息を呑む。それから、二杯目を飲み干した山縣のグラスに、三倍目を注いだ。
「俺は、助けられなかった。寄り添えていない」
「――お酒に逃げる山縣様は珍しいですね」
「全てが嫌になる事があるのだと、俺自身もつい最近学んだばかりだ」
そのまま、四杯・五杯と、山縣が酒をあおっていく。その瞳がうるみ出すのを、お倉は静かに見据えていた。酔いのせいではないだろう。だが、涙がこぼれる様子はない。今宵の山縣は、心だけが泣いているようだった。体は、泣けないらしい。
お倉は耐えている山縣を見ると、いつも感じる。素直に泣いてしまえばいいだろうにと。
「どうして、奥様に寄り添う必要があるのですか?」
「愛しているからだ」
それを聞いて、妾が腐るほどいる伊藤を思い出し、二人が親友なのが、お倉は不思議な気持ちになる。明治も鹿鳴館外交時代が終わると、妾を持つという文化は減っていったが、ここまで愛していると女性を尊重する男性は、まだまだ珍しい。
「山縣様の愛は分かりました。では、奥様は?」
「きっともう、俺から心は離れているのだろうな。よほど御仏の方が大切らしい」
山縣は、己の帰宅にも気づかず――あるいは気づいていたとしても、念仏を優先する妻を思い出した。胸が痛い。そんな彼の悲痛そうな面持ちを見ていたお倉は、ポツリと本音を漏らした。
「愛を注ぐだけではなく、愛されてみてはどうですか?」
「友子が相手でなければ、意味がないんだ」
頑なで、誠実すぎる山縣の回答に、お倉が微苦笑する。
「もし亀さんがいなかったら、私は山縣様に惚れ込んでいたかもしれませんよ」
亀さんというのは、お倉の旦那の名前だ。それは山縣も何度か聞いていた。だからゆるやかに視線を動かし、六杯目を所望しながら問う。
「愛とは、脆いとは思わないか?」
「私も山縣様と同じで、愛を注ぐ側ですから、いつも思いますよ」
七杯目のグラスが空いた時、二本目のビールの瓶が開けられた。お倉はどんどん酒を注いでいく。山縣は通常であればそこそこで断るというのに、本日は何も言わずに飲み続けている。
「山縣様、月はまた登り、満ちては欠けていくのですよ。そうしてまた、光を取り戻す」
「空模様のように、俺の妻の闇も晴れるだろうか?」
「山縣様が、お月様を照らし出す太陽になれば良いのでは?」
「――俺にとっては、友子こそが太陽だったんだ。天照大御神が隠れてしまった心地だな」
とめどなくどんどん酒をあおっていく山縣を見据え、お倉は苦笑した。
「ここは、そんな暗い一夜を明るくする場所です」
「俺は浮気をするつもりはない」
「肉体のみで、芸妓は癒すのではありません。例えば、そう、会話です」
「それならば、今、傾聴してもらっていると思うが?」
山縣が八杯目の麦酒を飲み干した。するとお倉が言った。
「酔いつぶれ、この闇が歪んで見えなくなるまで、いくらでもお付き合い致します。暗いものは、光がないのならば、見なければ良いのです」
――この日、山縣は、いつ自分が酔いつぶれて寝たのか、覚えていなかった。
ただ翌朝、光の中で目覚めた時、お倉に確かに救われたと思った。
寄り添ってもらえた気がしていた。それは決して恋ではなかったが、友情を、初めてお倉に深く感じ取った日でもあった。
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