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―― 番外 ――
【*】チェスと関係性の名前
しおりを挟む久方ぶりに、山縣は伊藤と共に富貴楼を訪れた。すると伊藤のほうが、珍しく人払いをした。今度こそ大切な話でもあるのかと思い、山縣は身構える。それを見て、紅い酒盃を手にした伊藤が笑った。傍らには、大きな鞄がある。
「ねぇ山縣」
「なんだ? 話があるなら率直に言ってくれ」
「山縣と遊びたいと思ってね」
「どういう意味だ?」
「芸妓遊びだけじゃなく、久しぶりに親交を深めたいと思ったんだよ。山縣と、ね」
伊藤はそう述べると、鞄に手をかけた。
「チェスをしないか?」
山縣は、伊藤が取り出した透明な硝子で出来た駒と盤を見る。
二人共海外への留学・遊学経験が有るため、ルールは知っていた。
「ずっとチェスをやりたくてね。僕は魅力にとりつかれているんだけれど、不幸にも遊び相手がいなくてさ」
伊藤の声に、山縣は力が抜けてしまった。だから呆れたような眼差しで、己の酒盃を手に取る。日本の酒は好きだが、こうして洋風のボードを見ると、葡萄酒が恋しくなった。そう思っていたら、伊藤が鞄から赤ワインのボトルまで取り出した。
「どうかな?」
「――たまには、な」
頷いた山縣を見て、嬉しそうに伊藤が笑う。それから台ものの上にあったカラのコップに、伊藤がワインを適当に注いだ。普段は使用人達が厳かに注ぐワインが、急に親しみのあるものに感じる。
「黒と白をどうやって決める?」
硝子には、透けた色で、黒と白が混じっている。そんな駒を見ながら、山縣は口角を持ち上げた。
「俺は後手――黒で良い」
「お。自信があるみたいだね」
こうして二人はワインを口にしながら、チェスに興じ始めた。
「チェック」
山縣が数手でそう告げると、伊藤が目を丸くした。
「やるねぇ」
しかし続いて吹き出すように笑う。
「チェックメイトだ」
「な」
その手を読めていなかった上、勝利を確信していた山縣が、狼狽えたような声を出す。
山縣はグイとワインを飲み込んでから、睨むように伊藤を見た。
「もう一度だ」
「負けず嫌いだね、相変わらず」
この夜、二人は朝方まで、何度もチェスを楽しんだ。結果は、山縣の全敗だった。その事実に、山縣が肩を落とす。
「このように戦局が読めないというのに、果たして俺に、本当に陸軍卿が務まるんだろうか」
滅多に見せない自嘲的な、自信を欠いた様子の山縣の声に、浴衣に着替えながら伊藤が視線を向ける。山城屋事件で一度は陸軍を退いた上、陸軍卿となっても参議には、木戸の不興をかい、なることができずにいた山縣を、引き上げたのは伊藤自身と大久保だ。
「山縣なら出来るというか、君の代わりを務められる人材は、残念ながら他にはいないよ」
「慰めは不要だ」
「慰めじゃないよ。君ってさ、職場では巌のように頑なで、氷のように冷徹にばかり見える言動や表情、目つきをしているっていうのに――その虚勢というか砦が一度壊れると、本当に繊細だよね」
それを聞いて、山縣は俯いた。陸軍卿として、いつも必死な自分が、そのように見えているとはあまり考えていなかったというのもある。威厳を出して、地位を確固たるものにし、政府の安定を図りたいという願いは常にあったが。
「俺は、決して繊細なんじゃない。本当はただの、臆病者だ」
「君の口からネガティブな発言が出るとはね」
「俺だって時には、感傷的になる。例えばチェスで大敗を期したらな」
「――冗談で言ったわけじゃない。濁すな」
そう言うと伊藤は、改めて山縣を見た。
「山縣が職場と家庭での顔が違うのは、よく聞いている。愛妻家だからな、お前は」
「そちらこそ茶化すな」
「茶化したわけじゃない。その中間にさ、友情というものがあっても良いと僕は思うんだ。たとえばそれは、男同士で愚痴を言い会えるような関係だな」
「そんな女々しさは、俺には必要ない」
「じゃあどうして、僕の前で、陰鬱な言葉を吐いたの?」
「そ、それは……」
確かに先ほどの言葉は愚痴にほかならなかったと悟って、山縣は口ごもる。
すると伊藤が喉で笑った。
「僕達は、親友だろう?」
「――同志であるのは認める。ただな、俺は親友といった口約束をする気はない」
「酷いなぁ」
「親友とは、気づくと出来上がている関係性を表す言葉だ。なろうとして、なるものじゃない」
山縣の声に、伊藤が目を丸くする。
「ただ――いつか俺とお前が、好敵手になるような日が来たとしても、今日お前が俺を慰めてくれた事は忘れない」
山縣はそう言うと、髪をかきあげてから、窓の外を見た。既に白んでいる。遠めに海が見えた。船が進んでいく。
「僕は、その言葉が、何よりも嬉しいよ」
この時答えた伊藤は、その後己が総理大臣になる頃に、敵対していた山縣が己を推す日が来るなどとは、思ってもいなかったのだった。
二人は、晩年になっても、良き友であった。伊藤が先に逝った時、山縣が涙する事も、この時の伊藤は知らなかったし、山縣もまた未来を考えていたわけではない。
ただ――そこには確かに、親友と名付けられる関係性があったのだろう。
ワインを酌み交わしたこの夜を、二人は生涯、忘れなかった。
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