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―― 番外 ――
【*】不眠と添い寝
しおりを挟む――ここの所、全く眠れない。
山縣は気だるい体を引きずるようにして、職場へと向かった。規則正しい生活を送ってきや山縣は、就寝時間もいつも明確に、己に対して定めていたから、過去、夜に眠らなかった事など、それこそ幕末の動乱期しかない。
酷い眠気は、体を蝕む。
毛細血管を眠気が走るような心地であり、山縣は指先を動かす事にすら、気怠さを感じていた。全身が重い。
突然の不眠。その理由に、心当たりがないわけでは無かった。
もうすぐ命日が近づいて来るからだ。待望の初の子であった、長男の。
私事と仕事を、山縣はいつも切り分ける。どんなに感傷的になろうとも、職場に行けば陸軍卿の顔をする。それが常であるのだが――ある日の朝、何気なく仏壇を見てから、ずっと眠れない。
「俺の精神がこんなに脆弱だとはな。軟弱者と言われるような評価はとうに捨てたのに」
帰宅すると、妻は気丈に笑っている。辛い内心を押し殺しているのがわかる程度には、夫婦として、長く過ごしてきた。それは恋の延長であり、愛の一つの形だ。
山縣は居室にいくと、天井を見上げた。椿山荘の居室には、尊敬する異国の人間を思い出すための品が並んでいる。軍の関係だ。山縣にとって陸軍は、人生だ。職場においての我が子そのものであり、全人生をかけて成長を見守りたいという決意は変わらない。
だが、眠れない今――そのように守り育てる事が出来なかった我が子を夜な夜な思い出す。すると眠気が全身を支配しているのに、眠る事が出来ないのだ。
――山縣が、ふらりと富貴楼を訪れたのは、息子の法事の翌日の事だった。
出迎えたお倉は、山縣の形の良い瞳の下の赤い線のような隈を見て、心なしが驚いた面持ちをしたが、すぐに口元には優しく穏やかな笑みを浮かべる。本日のお倉は、温かさが滲むような表情で、山縣を出迎えたのである。
もう慣れたお座敷に、山縣は通された。仕切りの向こうには、一人で寝るための布団もしっかりと用意してある。しかし山縣は、眠れる自信が無かった。ただ、この日は無性に人が恋しかったのだ。それは情事といった人肌ではない。誰かに心情を吐露したかったのだ。その相手として真っ先に浮かんだのが、お倉だったのである。妻には言えない内心だ。心配をかけたくないという愛情が先行している。
今日は、お倉だけがお座敷にやって来た。お倉はいつも、二人で話したいと山縣が願っている時、それを口に出していなくても、一人で訪れる。無言であっても、どこかで通じ合っているような感覚が、山縣には不思議だったが、心地よくもあった。
「酷いお顔ですね」
この日、歩み寄ってきたお倉は、酒ではなく、赤い盃に温かい白湯を注いだ。口にしてからてっきり酒だと思っていた山縣は、驚いて視線を向ける。これまでの過去、眠れないからといって酒に逃れた事など、一度も無かった。しかし今宵は、酔い潰れるまで飲もうとどこかで考えていたから、出てきた白湯をじっと見る。
「酒は品切れか? この絢爛な店で」
「いえいえ、勿論ございますよ。ただ――どんな美酒であっても、眠りを浅くさせますから」
山縣は、己がやはり、眠っていない顔をしているのだろうなと考えた。職場でも伊藤に指摘されたばかりだったからだ。しかしこの富貴楼であれば、眠れるという保証も自信もない。
「――お前の言う通りだ。もうずっと眠れないんだ」
「奥様とは、寝室は別なのですか?」
「上流階級の夫婦とは、別室で寝るものだと決まっているらしい。度々、互の部屋を夜には行き来するがなぁ」
苦笑するように、ただしどこか優しげな瞳で山縣が言うと、お倉が嘆息した。
「情事の話ではありません。温もりの話です」
「温もり?」
「ただ横に寝そべって、添い寝をして、朝を向かえ、奥様の体温を感じる。これだけで、変わるのではないかと思います」
それを聞いて、山縣は俯いた。
己は体が弱いから、なるべく多くの子を作ろうと、夜は励んでばかりいる。
気づけば、そんな風に穏やかに眠った夜は、最早記憶の彼方だ。
「何もせず、横になるだけなどとは、切り出し方が分からない」
あるいは妻は、ついに己に魅力を感じなくなってしまったのかと、嘆くような気すらした。妻への想いを伝えるのは、気恥ずかしさも手伝って、非常に難題だ。
「では、練習致しましょうか?」
「練習?」
「今宵は私が添い寝をして差し上げます。私を奥様だと思って、誘ってみてくださいませ」
その言葉に、同じ布団に入るなど、妻への裏切りだから、決して出来ないと最初は思った。しかし眠い思考が訴える。本当に、ぬくもりだけで、この体の重みから解放されるのならば、良いではないかと。
「何もしないぞ」
「それは誘うお言葉としては失格ですね」
クスクスと笑ったお倉を見ながら、蒙昧とした思考で、山縣は考える。
「そばにいてくれ」
「――及第点ですね」
こうして料理には手をつけず、白湯を飲み干してから、山縣は布団へと向かった。お倉は静かに立ち上がり、山縣のあとに続く。そして布団の脇で膝をついた。それから打掛を脱ぐと、山縣が座っている布団にあがり、掛け布団を手に取る。
「早く横になってくださいませ」
「あ、ああ」
妻以外と隣に寝た記憶は、ほとんど無い。あるのは戦乱の時期に、男同士で雑魚寝をした記憶ばかりだ。山縣が素直に横になると、お倉は柔らかな掛け布団を手にして、己も横になり、二人が入る形とした。枕は山縣の分しかない。
その時、お倉が山縣の胸元に手で触れた。普段ならばドキリとしたかもしれないが、この時の山縣は眠気に思考を絡め取られていた。だからいつも妻にするように、腕を伸ばして、お倉の首を脇の上に乗せ、腕枕をする。その腕と、お倉が己の胸に置いた手からは、温もりが確かに伝わってきた。安心感が一気に沸き起こる。
「陸軍卿」
「なんだ?」
「貴方様は、一人ではないのですよ」
染み入るようなその声を耳にした瞬間、心がスっと楽になっていった。同時にまぶたも落ちてくる。
――この日、今までが嘘のように、山縣が深い眠りに落ちたのだった。
お倉と添い寝をした翌日、目を開けた山縣は、自信がお倉を抱きしめて眠っていたものだから、動揺した。妻への罪悪感も募ってくる。
「お目覚めですか?」
お倉はとっくに起きていたようで、山縣をじっと見据えていた。透き通るような瞳を見ながら、己の寝顔を見られていた事に、山縣は羞恥を覚える。
「何もない夜、ただ温もりだけがある宵は、いかがでしたか?」
「――妻に申し訳が立たないと思った」
慌ててお倉から手を離しながら、起き上がって山縣は布団の上に座り直す。するとお倉が吹き出した。
「何もなかったのですから、お気になさる事はないでしょう?」
「……そういうものか?」
「山縣様は純粋ですのね」
照れくさくなって、山縣は目を閉じた。
これが、最初で最後の、二人の添い寝であった。
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