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―― 本編 ――
第20話 山登との再会
しおりを挟む翌年の三月、山縣は米国と欧州を経由して、露西亜の地を踏んだ。
ニコライ二世の戴冠式へと出席したのだ。
その傍らで、忙しなく露西亜と協議を重ね、帰国後の六月九日に、山縣・ロバノフ協定という対等の関係を、露西亜と結んだ。日清戦争で病魔に襲われた山縣に対する世間の目は、信用に溢れ、威厳が回復していた。山縣は強い、民衆は新聞を通してそのように感じていた。政府内の同僚達も、同じように考えている。
紫陽花が咲く季節になっていた。もうすぐ梅雨が訪れるだろうという、春の終わり。
山縣は、中山の誘いで彼の邸宅へと向かい、そこで山登と再会した。
山登は紫陽花を愛でながら、庭に佇んでいた。
相変わらず儚く思える容貌を目にし、山縣は少し困ったように眉を下げてから、わざと落ちていた桜の葉を、音を立てて踏んだ。山縣の来訪に気づいて、山登が視線を上げる。
「中山に呼ばれてきたんだが――その、久しいな」
山縣が声をかけると、山登が何度か瞬きをした。
「中山様は、山縣様がおいでになるから接待をしておくようにと、私《わたくし》に申し付けて、朝から外出しておられます」
「何だと?」
呆れた思いで山縣が肩を落とした時、山登が邸宅の中へと山縣を誘った。
誘われて家に入り、応接間へと足を踏み入れる。
そこへ女中がお茶を運んできた。すっかりと西洋の香りが、家々に広がっていて、出てきたのは紅茶だった。静かにカップを傾けた山縣は、改めて山登を見る。
「籠の外は、どうだ?」
「――代わりません。このお屋敷から、出る事は無いのですもの」
それを聞くと、カップを置いた山縣は腕を組んだ。
「中山は良くしてくれないのか?」
「中山様は、山縣様が私を迎えに来るからと繰り返すばかりです」
思わず山縣は咽せた。まさか中山が、本気でそのように考えているとは思ってもいなかったからである。
「山登は、俺の所に来たいのか?」
「分かりませぬ。たった二度しか、本日で三度しか、お話をした事も無いのですから」
「その見解は正しい。やめておけ。俺のような年嵩の男は。それに俺には、愛する相手がいるんだ。もう亡いが、きっと一生、俺は愛し続けると思う」
山登が、山縣の声に顔を上げた。
「亡くなられたのですか? 不躾ですが……」
「ああ。病気で妻を失ってな。子も大勢失った」
「それは、清国との戦争で?」
「いいや、皆病死だ。元気なのは、山登と年の近い、娘一人きりだ」
その娘も、嫁に行ってしまって、今は静かだ。寂しくないと言えば、嘘になる。使用人達がいくらいようとも、山縣の家族は、皆いなくなってしまったような心地になる。気軽に話が出来たお倉も、今では大磯に行かなければ会えない。富貴楼に、お倉は不在だ。
「あまり、無理をするなよ」
友子を重ね、そして娘を慈しむように、その上でお倉に対するような気楽さで、山縣は山登に声をかけた。そこに漂う大人の余裕を見て取り、山登は胸が疼いた気がした。手にできなかった父からの愛情をそこに重ね、同時に山縣の眼差しに鼓動がドクンと一度脈打った。
「無理はしておりません。ただ……」
「ただ?」
「私は、山縣様ともっとお話をしてみたいと思いました」
「理由は?」
「――山縣様の瞳が、とても暗く、闇を孕んでおられるように、寂しげだからです。その、私に出来る事ならば、笑わせてあげたいと思って……」
その言葉に、山縣は驚いた。まさか同じ事を考えているとは思ってもいなかったし、自分がそんな顔をしているという自覚が無かったからだ。
この日を境に、山縣は何度か、中山の誘いで邸宅を訪れたが、彼はいつも不在だった。気を利かせているらしい。その内に、自発的に出かけるようになった。
――山登が、小石川に越してきたのは、それからほどなくしての事だった。山縣が家を用意したと聞いた時、笑顔で中山は送り出した。第二次山縣内閣の時期である。
山登が、貞子という本名を名乗り、椿山荘で暮らすようになったのは、山縣が六十一歳になった頃の事である。貞子は、二十八歳になっていた。この年、山縣は終身軍人として、元帥の称号を賜った。富貴楼が閉店したのも、この年の事である。
二人の間にあるのは、男女の情愛とは、少し違う形の、心の繋がりだった。
誰を愛しているかと問われたならば、今でも山縣は友子の名前を挙げる。迷いは無い。しかし――瞳と記憶、胸の内に、自嘲と闇を共に孕んでいる山縣と貞子は、いつしか互いの存在に、慰められるようになっていった。
この頃、内務省や陸軍、貴族院では――山縣閥というべき派閥が形成されていった。それは長州閥とは異なる。面倒見の良い山縣を慕う者達が、その土台を築いていった。
政治の局面でも、外交でも、例えば義和団事件など、その後の山縣の仕事は多忙を極めた。様々な制度の導入を試みるなど、具体的・現実的な政治の仕事に、どんどん山縣は囚われていく。既に、一介の武弁の域を超えつつあった。それでも、毎朝槍を揮う習慣は変わらない。
明治三十三年の、春、山縣は一区切りしたという時流を感じ取った。様々な想いに動かされたが、辞任を決意した。しかし天皇陛下に留任を求められ、それから銀杏が色づくまでの間、山縣は首相の座にいた。
伊藤がふらりと椿山荘を訪れたのは、そんなある日の事だった。
「ねぇ、山縣」
狂介よりも、山縣と呼ばれてばかりに変わった。もう既に、狂介を名乗っていた時代よりも、有朋と名乗ってきた期間の方が長くなっていた。
「新党の結成をさ、そろそろ認めたらどうかな?」
山縣は、第二次山縣内閣が樹立する前、大隈重信が首相となり政党内閣が生まれた時、それを『明治政府の落城』として、嘆いた事がある。山縣から見ると、自由民権運動の香りを出す政党が政を司る事は、幕府を転覆させた過去を彷彿とさせたからだ。しかし、これもまた、時代の変遷だと、頭では理解していた。だから微苦笑してから伊藤に言った。
「お前が次の首相をやるんならな」
こうして、第四次伊藤内閣が生まれる事になる。
しかし――山縣本人というよりも、山縣閥というべき大きな流れを作り出している者達が、伊藤内閣を快く思わなかった。
山縣自信も、邪魔や妨害はしないが、伊藤の手助けをするわけではない。これは、若い頃から変わらない姿勢だった。
所で、義和団事件では、日本の評価が高まった。その折に活躍したのは、柴五郎という会津出身の陸軍将校だった。
若かりし頃ほど、山縣は、会津を同胞を殺めた仇だとは思わなくなりつつあった。山縣閥は、繰り返すが長州閥では無い。会津出身ではあったが、山縣のお膝元の陸軍にいた柴もまた、山縣閥に加わっていたと言える。
柴五郎もまた、西郷隆盛や木戸孝允について、その死を歓迎する程度には、薩長を恨んでいた。悲惨な斗南藩での、幼少時の記憶も持っていた。
陸軍の中でも、会津の出身というだけで、辛い思いをする事も多かった。しかし山縣が彼に目をかけるようになり、そして彼が義和団事件で活躍し、それが日英同盟の契機になる頃には、陰湿な藩閥の対応は消えた。
表面的にではなく、間接的に、それとなく山縣が在り方を変えようとした結果である。だが、山縣閥はどんどん肥大化していく。よって山縣が力で成長を促す事が出来た、目立つ事柄は、その些細な対応の変化くらいだったのかもしれない。
山縣自信でも抑えられないほどに、山縣閥は大きくなっていく。制御するために、山縣は何度も努力を重ねた。
そんな仕事での疲労を、そばにいて癒してくれたのは――紛れもなく、貞子だった。
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