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―― 本編 ――
第10話 先達の死
しおりを挟む木戸孝允の訃報を山縣が受け取ったのは、五月も末の事である。
西南戦争の舞台が、宮崎へと変わろうとしている時分に、その報せを受け取った。
「……」
体調不良は聞いていた。今紫とは、最初に顔を合わせて以降、何度か富貴楼で顔を合わせ、その度に、密偵ですら探れなかった木戸の体調を逐一耳に入れていたのだ。しかしそれは、決して死を願っての事ではない。彼の失脚を願ったものでもない。純粋に山縣は、今紫がもたらす情報が、真実なのか気になっていただけだ。同時に、真実であるならば、何故それを己に教えてくれるのかも思案していた。
――結果として、真実だったという事なのだろう。
どこか乖離した理性でそう考えながらも、言い知れぬ喪失感で、電報を手にしたまま山縣は立ち竦んでいた。夏の風が、山縣の髪を乱す。
その後西南戦争は、九月に城山で、決戦の時を迎えた。
山縣はこの日、目を赤くしながら、筆を手に取っていた。寝不足と、時に堪えた涙の両方が、彼の目を充血させていた。精神的疲労から、赤い隈も消えない。
西郷隆盛宛に、山縣は書簡を記していた。
――自決を勧める手紙だ。
恩人に、自ら死ねと説く、苦痛。胃が重く痛み、全身に錘をつけられた気分に陥る。本心を言うのであれば、西郷隆盛の命を助けたい。その想いから、書き直しても上手く書簡をまとめられない。何度も何度も紙を無駄にしてから、山縣は手紙を仕上げた。
西郷隆盛の首が、山縣の元へと届けられたのは、その翌日の事だった。
「っ」
山縣は崩折れそうになった。息を飲んで堪え、片手で唇を覆う。両目から涙が溢れそうになったから、上を向いて誤魔化した。その後、一度きつく目を閉じてから、山縣は遺体の検分へと向かう事になった。
泣いてどうなるものでもない。しかし、泣かずにはいられない。けれどそれを誰かに見せるわけには行かない。そんな想いで、山縣はひたすら涙をこらえたまま、無表情で仕事に当たった。だが、山縣の目が赤い事には、周囲の多くが気がついていた。山縣同様、西郷の死を悼んでいる者は非常に多かった。
この明治十年という年は、このようにして、木戸孝允と西郷隆盛という大きな存在を二つ失った、一つの境目でもある。
「おかえりなさいませ」
東京へと戻った山縣を、安心したような顔で、友子が出迎えた。思わず山縣は、友子を抱きしめる。柔らかなその感触を確かめながら、それでも山縣は泣けなかった。妻には、涙を見せたくない。
「ご無事で何よりです」
友子が柔らかく笑うと、山縣はぎこちなく唇の片端を持ち上げた。久方ぶりに顔を合わせた二人は、真っ直ぐに居室へと向かう。そこで畳の上に座り、山縣は指を組んで、肘を卓についた。額にその指先を当てる。頭痛がした。
友子は、西南の役の詳細については、敢えて触れない。山縣も語らない。結果、二人は長女の話をする事になった。
「夜泣きをするんです、そこも元気で可愛いんですけど……たまに参ってしまいそうになるの」
「あまり無理をするな」
妻を労う声をかけながらも、山縣は、西郷隆盛の死と、改めて木戸の死について考えていた。
――山縣が富貴楼を自発的に訪れたのは、その翌々週の土曜日の事だった。伊藤を伴わず、一人で山縣が顔を出すのは初めての事である。先に電報を使いの者に打たせて、宿泊したい旨を伝えた。己で手続きをするのは、初めての事だ。それまでは、伊藤任せだったのである。決して自発的に訪れていたとは言い難い。しかし今回は別だった。
「これはこれは、山縣様」
出迎えたのは、お倉だった。一人きりだ。山縣の来訪が急だった事もあり、今紫は詣でていないし、三津菜は他のお座敷に出ている。だが他の芸妓もいる中で、お倉は真っ先に顔を出した。山縣単独での来訪が珍しかったというのもあるが、山縣の安否が気になっていたのは事実だ。見知ったお客様の事は、相応に心配する。お倉は、その部分で、山縣に近い。人当たりの良さは伊藤に似ているが、面倒見の良さは山縣に似ているのが、お倉という女性だった。
「どうぞ」
山縣をお座敷に促してすぐに、お倉は酒を勧めた。山縣の表情は、どこか硬い。硬いというよりも、冷えている。雪のような空気を感じて、お倉はゆっくりと瞬きをした。
「山縣様がご無事で何よりです」
「……ああ。別に俺は、前線で銃を撃っていたわけでは無いからな」
参謀というのは、そういうものだ。それでも身近で戦争の気配を感じたのは、間違いない。軍服で訪れた山縣を見て、お倉は少し遠くから見つめるように、視線を下げた。
「山縣様」
「何だ?」
「山縣様は、お休みになるのが下手ですが、泣くのも下手なのですか?」
「どうやって泣いたら良い?」
淡々と言った山縣は、表情も眼差しも既に泣いているというのに、唇でだけは弧を描き、既に乾いてしまった涙の事など忘れようとしている風だった。
「富貴楼は――この夜の店は、静かに偲んで泣く場所も提供しているんですよ」
いつもより優しい声で、お倉が言った。すると山縣が俯く。
お倉には分かっていた。山縣が泣きに来たのだと。
その通りであり、声もなく山縣が涙で頬を濡らし始めた。温水が筋を作っていく。
――妻には決して見せられないが、一人で背負って泣くのは辛すぎた。
お倉は、泣いている山縣のそばに、ただ静かに座っている。山縣の肩が震え、その内に小さく嗚咽が混じり始めた。
思う存分、悲しみを顕にする事もまた、衝動の解放だ。
この夜、お倉はずっと山縣についていたし、山縣は静かに泣いていた。
朝方になって、山縣は浴衣に着替えると、布団に入る前にお倉を見た。
「そうだ――以前顔を合わせた、今紫という芸妓と話がしたいんだ」
「今日は珍しい事尽くめですね」
「人前で、それも女の前で泣くなど、どうかしていたとは思う」
決まりが悪そうに山縣が言うと、真剣な顔でお倉が首を振った。
「女の前だからこそ、素直に泣いて良いのですよ。ここは殿方だけの、腹の探り合いをするような、戦いの場では無いのですから。一夜の安らぎを売る場所です」
「……そうか」
「珍しいというのは、その場所に山縣様が富貴楼を選んで下さった事で、嬉しい驚きでしたよ」
穏やかな声でそう告げてから、お倉が小さく首を傾げた。
「今紫にはお取り次ぎ致しますが、どのようなご要件です? 普通であれば、聞くのは野暮なものですが、山縣様に限っては色事には思えませんもので。と言いますよりも、閨をお求めでしたら、今紫のいるお見世に、吉原に直接お出かけになる方が宜しいでしょうから」
お倉が続けると、山縣が小さく唇の端を持ち上げた。苦笑しているように見える。
「ああ、体を買いたいわけでは無い。ただ、時間を買いたい。少し話を聞きたくてな」
「ようございますよ、今紫も喜ぶでしょう」
その後、山縣が横になるのを見守ってから、お倉はお座敷を後にした。
山縣と今紫が顔を合わせたのは、その月の終わりの事だった。季節は初冬で、この日は霜が降りていた。火鉢で温まりながら山縣が富貴楼の二階の座敷で待っていると、少ししてから、お倉に連れられて今紫が顔を出した。お倉が挨拶をすると、それまで部屋にいた三津菜が立ち上がり、今紫を残して、女性二人は部屋から出ていく。
そこで改めて、山縣は今紫に向き合った。
「今紫」
「覚えて頂いて光栄です」
「聞きたい事があってな」
山縣はそう言うと、一度俯いてから、ゆっくりと顔を上げた。そしてじっくりと今紫を見る。今紫は紫色の打掛姿で、山縣の前に座っている。
「――木戸さんの、桂さんの最後は、どのようなものだったんだ?」
「最後、ですか?」
「ああ……苦しんでいないと良いなと……思ってな……」
大久保からも話は聞いていたが、これまでの経験から、今紫にはまた違った伝わり方がしているのでは無いかと考えた。今紫は、政敵という間柄としてではなく、大切な先達として、山縣が木戸について追想しているのだと悟り、その優しさに笑みを浮かべる。どこか慈愛に満ちた瞳で山縣を見ると、遊郭に来た客から聞いた、木戸の最後を語った。
「そうか……」
木戸は、西郷隆盛と政府の事を、憂慮し、心配しながら亡くなったのだという。結局、西郷隆盛を助ける事は出来なかったが、西郷の気持ちも痛いほど分かるように思う山縣は、この未来しか、無かったのだろうと内心で考えた。
すると今紫がするりと立ち上がり、ごく自然な仕草で山縣に歩み寄った。そして隣に腰を下ろすと、山縣の右手を、両手で握る。繊細な美を誇る、今紫の女性らしい指先の感触に、驚いたように山縣が顔を上げた。
「お泣きになって」
「……」
「お心が泣いておられるのが、伝わって来るようで、見ている私が辛いのです」
今紫の瞳は、強い感情が滲んでいるように、山縣には見えた。憐憫と同情に似ているのだが、もっと――優しく温かい色だった。しかし山縣はその表情を見て、苦笑してから首を振る。
「大丈夫だ。俺はもう、泣く事は覚えたし、既に涙は乾いたんだ。心配してくれたのか。悪いな」
「誰の前で泣いたのです? 私の前でもお泣きになれば良いのに」
「――一度泣けば、十分だ。そうだ、話してくれた礼をしなければな」
山縣がそう言うと、今紫が目を丸くした。それから呆れたように吹き出す。
「礼を盾にすれば、抱いて頂けるので?」
「悪いがそれは出来ない」
「私も一通りのものは持っておりますので、そう欲する物は無いのですが……」
山縣から手を話した今紫は、袖を揺らしながら、頬に白い指を添える。
「そうですねぇ……新富座あたりに、芝居茶屋を買いたいのです」
「芝居茶屋?」
「ええ。私も、富貴楼とはまた少し違った様式ですが、お茶屋を開きたいのですよ」
そう言って微笑んだ今紫は、あくまでも『無理な注文』のつもりで、夢を語った。
――しかし山縣は生真面目である。間に受けた。
その後少ししてから、山縣は、西南戦争の報奨金で予定より大きな土地を目白台に正式に購入し造園に励むのだが、同時期に三州屋という芝居茶屋を購入し今紫を援助する。
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