富貴楼と元老

猫宮乾

文字の大きさ
上 下
4 / 32
―― 本編 ――

第4話 収穫の有無

しおりを挟む

 結局、収穫の無い夜を過ごし、翌日山縣は布団の中で目を覚ました。誰に起こされるでもなかったが、いつもの通り、朝の六時に自然と目が開いた。槍の鍛錬が出来ない事を寂しく思いながら、寝巻きとして身につけていた浴衣の帯に触れる。

 自宅以外で目を覚ます事自体には、山縣は慣れていた。

 奇兵隊の生活においても、新政府の仕事の関連であっても、泊まりで出る事は多かった。ただ、そのいずれの時とも異なり、妙に熟睡できた気がする。その感覚は、過ごしやすさは、家に近い。

「休日だからか……?」

 思えば、槍の稽古をしない休日の朝などというものは、山縣にはこれまで存在しなかった。そもそも、休日など無い。職場に赴かない日であっても、山縣邸に指示を仰ぐ来客は絶えない。仕事・仕事・仕事。それが日課であるから、逆にこのように、完全に仕事から切り離され、穏やかな朝を迎えると不思議な気分になる。

「……やる事が無い朝、か」

 呟いた声は、霞んで天井に消えた。
 朝食は、別室で伊藤と共に食べる事になっている。
 着替えながら、山縣は嘆息した。

「何を考えているんだか。呑気なもんだな」

 こうして支度を終えて部屋を移動すると、そこには既に伊藤の姿があった。目の下にうっすらと赤い隈がある。寝ていないのがよく分かる。朝まで遊んでいたのは、容易に想像がついた。

「いただきます」

 食事の前で山縣は手を合わせた。ほぼ同時に伊藤も手を合わせる。それから箸を持った伊藤が聞いた。

「よく眠れた?」
「ああ。不思議とな」
「狂介――休むのも仕事なんだよ」
「分かったような口をきく前に、俺の仕事量が減るよう、お前はもっと働いてくれ」

 山縣はそう告げながら、煮物の皿を見た。あまり胃腸が強い方では無かったから、食べ物には気を使っているのだ。病弱であるからこそ、健康になる努力を怠るべきではない。これが山縣の信念である。

「僕はね、これでも狂介が眠ってから、大いに働いたんだよ?」
「どういう事だ?」
「あの後は、糸平君――天下の相場師、田中平八氏のお座敷に移って飲んできた」
「それで?」
「聞多ともよく飲むと聞いてきたよ」

 それを聞いて、山縣は井上馨の顔を思い出した。聞多とは、井上馨の事だ。田中平八という名前にも心当たりがあった。糸屋という屋号の両替商であるが、密偵が何度か名前を出した事があった。

 ――現在、政府には莫大な借金がある。

 というのも、戊辰戦争までの幕末の動乱期に、鉄砲等を購入するために、各藩は外国の商館から借金をした。それらを、廃藩置県により藩が無くなったので、政府が肩代わりしているのである。

 井上馨はその関連で奔走していた、というのは、山縣も聞いていた。だが直接的には、山縣はそれらに関わってはいなかった。しかしいつも概要は聞いていた。その件で密偵と話していた時に、『天下の糸平』と呼ばれている人物について名前を聞いたのである。

「収穫はあったのか?」
「昨日の一番の収穫は、この店の名前を高める事だから、大成功だよ。狂介のおかげでね」
「高めてどうするんだ?」
「みんながこの店で、重要なお喋りをするようになれば、いつ誰が来たかはすぐに分かるから随分と楽になると思ってね」
「……」

 そんなものは密偵で事足りる――と、言いかけて山縣は止めた。後ろめたさがあったというのが大きい。伊藤があまり暗い事に手を出したりはしないと知っていたのもある。

「それにね、店の評判というのは、馬鹿にならない」
「評判?」
「職場だけじゃ見えてこない、上辺だけでは分からない、人柄――と、でもいうのかな」
「それは遊んできた体験談か?」
「無論、それもあるよ。店で悪評が立てば、一気に噂になるからねぇ」

 伊藤はそう言うと、箸を動かしてから、改めて山縣を見た。

「僕なんて、とっても評判が良いよ」
「それは何よりだな」
「狂介も、もうちょっと、周囲に目を向けてみたら?」

 くすりと笑ってから、伊藤は味噌汁の椀を手に取った。山縣は鮭を口に運びながら、『周囲』という語を、脳裏で反芻する。

「男はさ、遊びに行くだろう?」
「全ての男をお前と一緒にするな」
「狂介の方が、このご時世じゃ例外的だと思うけどね。本当に、奥さんが大好きらしい」
「……」

 昨日散々からかわれた事を思い出して、山縣は俯いた。すると伊藤が小さく吹き出した。

「まぁ、行くわけだよ。行くわけですよ、夜の蝶のもとに」
「で? だとして、何だ?」
「夜の蝶はさぁ、お仕事で、僕達の相手をするわけだけど、やっぱり嫌な客かどうかってあるわけでさ」
「当然だろうな」
「仕事だからその場では丁寧に対応をしたとしても、後ろ側では罵詈雑言」
「想像しただけで鳥肌が立つ」

 山縣は深々と溜息をついた。己の場合も、悪評を立てられる側である気がする。

「そう言う噂の一つ一つがね、この店には集まってるんだよ。お倉は顔が広いから、新橋や日本橋――吉原の方面から、富貴楼詣でに、色んな女将や連れられて芸妓が来るらしい。結果、僕が知る限りこの店が一番、そう言った噂に精通している場所になっていたんだ」
「ほう」
「僕は更にそれが集約される事を期待して、この店の名前を広めようと思ってね」

 伊藤の言葉に、山縣は顔を上げると、仏頂面で小さく頷いた。つまり、己の側には言葉としては重要な収穫は無かったが、伊藤の計画を助けたという意味で、ここにいるだけで価値はあったらしいと判断する事に決める。

「他にもね、今は華族制度でも色々話し合いがなされているようで――あちらは、華族だけのサロンを創りたいという希望があるらしい。僕達のような『政治家』にも、そう言った場所があっても良いかなって考えているんだ」

 山縣はご飯茶碗を手にしながら、『政治家』という言葉を聞いて、視線を下げた。山縣自身は、『一介の武弁』のつもりである。気づけば、政治の道に足を踏み入れるようになっていた、という部分が、まだ抜けきらない。

 戦い、勝利する事は、終わりでは無かったのだ。そこからが始まりであり、動乱の後始末が待っていたのである。生々しい会津での記憶を思い出しそうになり、慌てて山縣は目を伏せる。

「最後の一番肝心な収穫はねぇ」
「何だ?」
「狂介を休ませてあげる事だよ。ちょっと心配になっちゃったよ。最近――西郷さんと木戸さんの間で、板挟みになってない?」

 伊藤の声に、双眸を開けながら、山縣は僅かに眉を顰めた。
 それは、事実だった。

 征韓論を推す西郷の姿勢自体は、山縣は適切だとは考えていない。現地で会津戦争を見た記憶が色濃く、更にはまだまだ不安定な政府を考えた時にも、外敵を仮想する事は有用かも知れないとは感じるが、血を見たいと思わないのが本心だった。

 しかし西郷は、山縣にとって恩人でもある。その為、西郷を直接的には支持しないものの、否定もしない山縣を、木戸が快く思っていない事は、山縣自身も理解していた。

「それに、山田君と不仲だという話が聞こえてくる」

 陸軍の山田顕義少将と険悪なのも事実だった。

「少し、休んだ方が良いというのは、誰から見ても明らかだったよ。山縣、眉間に皺を刻みすぎてる」
「……そうか」

 気遣いは有難いと、山縣は思った。だが、年下の伊藤に、更に言うならば自分より後から政府に明確に参画するようになった相手に、このように口出しされるのは――正直、冷ややかな気持ちにもなる。自身に対する不甲斐なさと同時に、このように心配りが出来る伊藤への劣等感のようなものが沸き上がってくる。厚意を、素直に受け止められない。

「狂介、何か難しく考えてないかい?」
「別に」
「本当に真面目というかなんというか。僕は本心から、単純に、心配しただけだよ」
「わかっちょる」

 不貞腐れたように山縣が答えるのを、苦笑しながら伊藤は見ていた。そうしてお味噌汁を飲み干した。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】奔波の先に~井上聞多と伊藤俊輔~幕末から維新の物語

瑞野明青
歴史・時代
「奔波の先に~聞多と俊輔~」は、幕末から明治初期にかけての日本の歴史を描いた小説です。物語は、山口湯田温泉で生まれた志道聞多(後の井上馨)と、彼の盟友である伊藤俊輔(後の伊藤博文)を中心に展開します。二人は、尊王攘夷の思想に共鳴し、高杉晋作や桂小五郎といった同志と共に、幕末の動乱を駆け抜けます。そして、新しい国造りに向けて走り続ける姿が描かれています。 小説は、聞多と俊輔の出会いから始まり、彼らが長州藩の若き志士として成長し、幕府の圧制に立ち向かい、明治維新へと導くための奔走を続ける様子が描かれています。友情と信念を深めながら、国の行く末をより良くしていくために奮闘する二人の姿が、読者に感動を与えます。 この小説は、歴史的事実に基づきつつも、登場人物たちの内面の葛藤や、時代の変革に伴う人々の生活の変化など、幕末から明治にかけての日本の姿をリアルに描き出しています。読者は、この小説を通じて、日本の歴史の一端を垣間見ることができるでしょう。 Copilotによる要約

KAKIDAMISHI -The Ultimate Karate Battle-

ジェド
歴史・時代
1894年、東洋の島国・琉球王国が沖縄県となった明治時代―― 後の世で「空手」や「琉球古武術」と呼ばれることとなる武術は、琉球語で「ティー(手)」と呼ばれていた。 ティーの修業者たちにとって腕試しの場となるのは、自由組手形式の野試合「カキダミシ(掛け試し)」。 誇り高き武人たちは、時代に翻弄されながらも戦い続ける。 拳と思いが交錯する空手アクション歴史小説、ここに誕生! ・検索キーワード 空手道、琉球空手、沖縄空手、琉球古武道、剛柔流、上地流、小林流、少林寺流、少林流、松林流、和道流、松濤館流、糸東流、東恩流、劉衛流、極真会館、大山道場、芦原会館、正道会館、白蓮会館、国際FSA拳真館、大道塾空道

朝敵、まかり通る

伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖! 時は幕末。 薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。 江戸が焦土と化すまであと十日。 江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。 守るは、清水次郎長の子分たち。 迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。 ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

大奥~牡丹の綻び~

翔子
歴史・時代
*この話は、もしも江戸幕府が永久に続き、幕末の流血の争いが起こらず、平和な時代が続いたら……と想定して書かれたフィクションとなっております。 大正時代・昭和時代を省き、元号が「平成」になる前に候補とされてた元号を使用しています。 映像化された数ある大奥関連作品を敬愛し、踏襲して書いております。 リアルな大奥を再現するため、性的描写を用いております。苦手な方はご注意ください。 時は17代将軍の治世。 公家・鷹司家の姫宮、藤子は大奥に入り御台所となった。 京の都から、慣れない江戸での生活は驚き続きだったが、夫となった徳川家正とは仲睦まじく、百鬼繚乱な大奥において幸せな生活を送る。 ところが、時が経つにつれ、藤子に様々な困難が襲い掛かる。 祖母の死 鷹司家の断絶 実父の突然の死 嫁姑争い 姉妹間の軋轢 壮絶で波乱な人生が藤子に待ち構えていたのであった。 2023.01.13 修正加筆のため一括非公開 2023.04.20 修正加筆 完成 2023.04.23 推敲完成 再公開 2023.08.09 「小説家になろう」にも投稿開始。

明治仕舞屋顛末記

祐*
歴史・時代
大政奉還から十余年。年号が明治に変わってしばらく過ぎて、人々の移ろいとともに、動乱の傷跡まで忘れられようとしていた。 東京府と名を変えた江戸の片隅に、騒動を求めて動乱に留まる輩の吹き溜まり、寄場長屋が在る。 そこで、『仕舞屋』と呼ばれる裏稼業を営む一人の青年がいた。 彼の名は、手島隆二。またの名を、《鬼手》の隆二。 金払いさえ良ければ、鬼神のごとき強さで何にでも『仕舞』をつけてきた仕舞屋《鬼手》の元に舞い込んだ、やくざ者からの依頼。 破格の報酬に胸躍らせたのも束の間、調べを進めるにしたがって、その背景には旧時代の因縁が絡み合い、出会った志士《影虎》とともに、やがて《鬼手》は、己の過去に向き合いながら、新時代に生きる道を切り開いていく。 *明治初期、史実・実在した歴史上の人物を交えて描かれる 創 作 時代小説です *登場する実在の人物、出来事などは、筆者の見解や解釈も交えており、フィクションとしてお楽しみください

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

天下布武~必勝!桶狭間

斑鳩陽菜
歴史・時代
 永禄三年五月――、駿河国および遠江国を領する今川義元との緊張が続く尾張国。ついに尾張まで攻め上ってきたという報せに、若き織田信長は出陣する。世にいう桶狭間の戦いである。その軍勢の中に、信長と乳兄弟である重臣・池田恒興もいた。必勝祈願のために、熱田神宮参詣する織田軍。これは、若き織田信長が池田恒興と歩む、桶狭間の戦いに至るストーリーである

処理中です...