黒薔薇の刻印

猫宮乾

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【五十八】夢の恐怖と導き手Ⅰ

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 当初は受け入れがたいと思ったが、その内に俺は、ストンと納得した。

「じゃあ……全部俺が、自分で手放してきたという事か」
「その理解で限りなく正しいだろうな」

 結局、ミネスの手を離したのと、それは同じ事なのだろうと、俺は理解すると決めた。

「今が平穏で幸せだというのだから、それを甘受すれば良い」
「そうだな。結局、俺が間違って――手を離したのが、全ての始まりで、原因は俺だ」
「気に病む必要は無い。自分の人生に責任を持つことは重要だが、本人の力ではどうにもならない事もある」

 エガルが二杯目のお茶を淹れてくれた。それを味わいながら、小さく俺は頷いた。それから、気を取り直して尋ねた。

「脳を支配するという力は、俺の自由には行使出来ないのか?」
「それは……可能だろうな。お前もまた神の代理なのだから」
「ならば、全員が幸福だと感じる世界を、視せる事も出来るんだろうか」
「……大多数の人間が幸福だと感じる世界という意味か?」
「いいや、全員だ」

 俺の言葉に、エガルがじっとカップの中を見た。

「例えばそれぞれに、幸せだと感じる夢を見せて、永遠の眠りにつかせてしまえば、ある意味でそれは叶うだろう。しかしそれは幻想を視ているだけに過ぎず、実際の肉体的な幸福は伴わない」

 そう述べてから、エガルは小首を傾げた。

「それよりよほど簡単なのは、全ての人間が幸福になったという夢を、自分に視せて、眠ってしまう事ではないかな」
「……俺が眠る……そう言われると、死との区別が曖昧で、やる気が失せるな」
「馬鹿な事は考えるな。生きていれば、辛い事もあるんだ」
「今日のエガルは説教が好きだな」
「ネルスこそ、不穏な冗談は止めろ。心臓に悪い」

 苦笑した俺は、それから静かに目を伏せる。

「俺は自分を被害者だと思っていた。だが、違うんだな」
「いいや? 確かにネルスは被害者だっただろう。けれどな、今は解放されたんだ。もう忘れると良い」
「忘れない。それでも俺は、愛していたと思っているからな。例え俺に宿る力が、魔王を屠ったのだとしても、それでもな」

 頷きながら俺が語ると、エガルが複雑そうな色を瞳に浮かべた。

「確かに愛に理屈は無いし、きれい事だけが全てではないが……もっと幸せな未来を見据えてはどうだ? 次の恋を見つけても、きっと魔王は咎めないと思うぞ?」
「黄泉の国からは、見通せるらしいからな。俺は浮気はしないんだ」

 体の熱さえ無ければ、それは実に簡単な事だった。今、俺は収入も、魔法薬作りで得ている。少しずつ、エガルから魔術や薬学を習ったのだ。魔王の魔力を注がれた俺には、ある程度の魔力が戻っていて、手の甲には青い魔法陣も再び浮かんでいる。

「このように想われているのだから、魔王も幸せだろう」
「どうだろうな。今でも、愛など俺の錯覚だとして、嘲笑しながらこちらを見ているかもしれない。ただな、それでも良いんだ。俺は、信じるから」

 自分の導出した答えに、俺は満足した。それから、カップの中身を飲み干して、静かに立ち上がる。

「少し、外の風に当たってくる」
「そうか」

 頷いてエガルが見送ってくれた。既に慣れた廊下を進み、玄関から外に出る。

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