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―― 第一章 ――

【十六】ただいまのキス

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「ただいまのキスは? 《してくれ》」
「……はい」

 夕暮れ時、クライヴ殿下が帰宅した。エントランスで出迎えた僕は、顔を傾けて、また少し背伸びをする。僕の腰を抱き寄せて、クライヴ殿下は唇を重ねた。

 そこからは二人で夕食をとる食堂まで歩く。クライヴ殿下はいつも僕の腰に腕を回し、僕の歩幅に合わせてゆったりと歩いてくれる。

 僕はこの優しさに触れる度に、もう一つ申し訳なく思う事がある。
 すっかり笑い方を忘れてしまった僕の表情筋は、無表情のまま動かない。嬉しいと、最近では確かに感じるのに、笑う事が出来ない。そんな僕を、いやな顔一つせずに、クライヴ殿下は促した。

 本日の夕食は、サーモンのムニエルだ。まだ、僕達はサンドイッチを食べには出かけていない。いつかその約束は果たされるのだろうかと考えながら、僕はナイフとフォークを手にする。最近、少しずつ僕は食べる量が増えてきた。胃が食事を受け付けるように変化したようで、まだまだ平均的な体躯に比べれば貧相なのだろうが、少しだけ体重も増えた。

 執事が葡萄酒を注いでくれる。この赤いワインの味にも、僕は慣れ始めた。全て教えてくれたのは、クライヴ殿下だ。

「今日は、祝祭の会場の、湖の前にある広場を見てきたんだ」

 微笑しているクライブ殿下は、そう述べると、ワイングラスを傾ける。頷きながら、僕はその話を聞いていた。フォークで口に運んだ魚は美味だ。食事を楽しめるように変わった事も、僕はクライヴ殿下のおかげだと思っている。

「子供達が舞をして祈りを捧げる予定なんだ。恒例の行事だが、圧巻なんだ。その練習風景を視察してきたが、皆明るく笑っていたよ」
「そうですか」
「ルイスは、今日一日はどうだった?」

 クライヴ殿下の采配で仕事が出来たから、僕にも語れる日々の内容が生まれている。

「大広間のカーテンの色は、白いレースと、紺色の厚手のものがよいかと考えていました」
「そうか。任せる。ルイスが選んだものでこの城が彩られるのは心地良いな」
「……」

 果たしてそうなのだろうか?
 僕にはまだ、実感がない。生活には随分と慣れてきたが、自信がつく事はまだないからだ。僕はまだ、クライヴ殿下の優しさにも怯えている。信じきる事が出来ないでいる。

「ルイスと共に、様々なものを成したいから、君の手が加わる事が俺は嬉しいんだ」
「……ありがとうございます。他には、冬の準備物の確認をしていました」
「意外と様々なものが必要で驚いただろう?」
「ええ。正直、驚きました」
「貴族の暮らしからは想像もできないだろう? 俺は直接民の暮らしに触れる事は大切だと思っているから、少しずつルイスにも慣れてもらえたら嬉しい」

 穏やかな声音を放ってから、クライヴ殿下はワイングラスを置いた。
 僕は小さく頷いて、本当に優しい方なのだなと考える。僕に対しても優しいが、民を思うクライヴ殿下は、あるいは皆に優しいのかもしれない。城の使用人達もクライヴ殿下がいると温かい目をする。時折、本当に僕はここにいていいのだろうかと、思い悩むほどだ。この空間に自分が迎え入れられた事が、まだ夢のようで信じられない。

 穏やかな夕食の時間は、そのようにして流れていく。
 その後、食べ終えてから、僕は湯浴みをした後、寝室へと向かった。
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