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第四章 蒲生定秀編 三好長慶の乱

第52話 撤兵

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主要登城人物別名

左兵衛大夫… 蒲生定秀 六角家臣
弾正… 六角定頼 六角家当主

筑前守… 三好長慶 細川晴元家臣だが反旗を翻す
宗三… 三好政長 細川晴元家臣

右京大夫… 細川晴元 細川京兆家当主
右馬頭… 細川氏綱 細川晴元に反旗を翻す

――――――――

 
「何?既に三好宗三の軍は壊滅しただと?」

 上鳥羽の蒲生陣では総大将の六角義賢からの使者を迎えていた。六角軍は京での一色とのいざこざを収め、この日に大山崎から上鳥羽一帯にかけて布陣し終えたばかりだ。
 明日朝から摂津への総攻撃を開始するとの下知を受けて慌ただしく出陣の準備を整えている最中のことだった。

「ハッ!左兵衛大夫様にはすぐに摂津出陣の準備を中止し、撤兵の用意を整えつつ次の下知を待てとのことにございます」
「わかった。陣を払う用意を整えておくとお伝えせよ」

 使番が駆けて行くと、定秀は賢秀を陣内に呼んだ。

「父上。明日の出陣は中止と聞きましたが」
「うむ。昨日に三好宗三の軍が壊滅したらしい。我らはあくまでも宗三殿への援軍だ。我ら単独で三好筑前守と戦をする理由は無い」

 正確に言えば大義が無かった。今回の出陣の理由としては今のうちに三好長慶を叩いてしまいたいというのが定頼の本音だ。だが、いくら戦国時代とはいえ何の名分も無く戦をすることは出来ない。
 三好政長の援軍要請こそが大義名分だったが、肝心の三好政長が討死した以上は六角単独で戦を仕掛ける名分は無くなった。

 ―――宗三はそれほどに弱い武将だったか?

 定秀の頭にも疑問が残る。まさか息子を助けるために見境を失って自ら死地に飛び込んだとは想像もできない。世上では色々言われるが、定秀は三好政長が決して戦下手ではないことを見抜いていた。

「ともあれ、これ以上我らが出張る理由が無くなった以上は軍を退かねばならん。三好筑前の狙いはあくまでも宗三だ。右京大夫様や公方様を攻めると宣言したわけではないからな」
「……わかりました。撤収の準備にかかります」

 不承不承と言った様子で下がって行く賢秀に苦笑しつつ、定秀も本陣の撤収準備を始めた。
 賢秀はこれで二度出陣しながら二度とも戦闘を行う機会が無かったことになる。本人は少しでも早く戦を経験したいと言っていたが、肝心の戦の方が賢秀を避けているようにも見えた。

 ―――つくづく合戦に縁の無い息子だ

 本来は戦を経験せずに生きていければいいのだが、情勢はそれを許してくれそうにない。南北朝の動乱以後、室町体制にあって戦は武士にとって日常と言える。
 いずれは経験しなければいけないのなら、自分の目の黒いうちに色々と経験させておきたいというのが定秀の親心だった。



 ※   ※   ※



 足利義晴・義藤親子は三好政長が敗死し、細川晴元も敗走してきたことで京から坂本に落ちていた。
 義晴の義理の兄である近衛稙家や久我晴通などの公家も義晴と共に坂本へ来ている。近衛や久我は義晴に近すぎた為に三好長慶の不興を買うことを恐れたためだ。

「口惜しや……よもや三好筑前によって京を落ちることになろうとは……」

 上座で大御所足利義晴がはらはらと涙を流す。下座に控える六角義賢や蒲生定秀にも返す言葉が無かった。

「間もなく父弾正も坂本に参ります。それに、三好筑前守は上洛したとはいえすぐに摂津に戻り、足場固めをしております。我が六角軍も今回の戦で一兵たりとも損じてはおりませぬ故、いずれは三好筑前守より京を奪還することもあたいましょう」
「うむ。そこもとらを頼りにしておる。何としても三好から京を奪還してくれ」
「ハッ!」

 六角義賢にも忸怩たる思いがある。
 確かに江口で三好政長が敗死したと報せを受けた時は兵を退くのが最善であったと今でも思う。だが、細川晴元がここまで頼りにならないとは思わなかった。義賢は三好政長の働きを軽視しており、三好政長が敗れたとしてもそれで細川晴元までもが総崩れになるとは夢にも思わなかった。

 三好長慶の本軍は摂津に残る伊丹親興の伊丹城を攻略するために芥川城に戻っていたが、京の東口に当たる山科七郷や上三栖庄などの荘園は松永甚介や十河一存によって横領されていた。
 山科郷を領有する山科言継などは横領された荘園を返して欲しいと芥川城に文を送っていたが、長慶の返事はにべもないものだ。この三好長慶の横領により、京周辺でわずかに残っていた公家や宮家の荘園も完全に武士の領地となった。


 宿所に戻った六角義賢以下の六角家武将は早速軍議に入る。言うまでも無くどうやって京を奪還するかという軍議だ。

「まずは山科郷や三栖庄に残る松永・十河らの軍勢を追い払う必要がありましょう。幸いにして三好筑前守は摂津に敵を残したままの上洛であり、今の京には右馬頭の軍勢くらいしか残っておりません」
「しかし、我らが京に攻め上ればすぐさま取って返して来るでしょう。今や三好筑前は右京大夫様をも追い落とし、旭日の勢いがある。相手を侮れば宗三殿の二の舞になりますぞ」
「何、我らとて軍勢はただの一兵も損じておらぬ。正面からぶつかれば数に勝る我が方が有利です」

 家臣達のやり取りに耳を傾けつつ、義賢は蒲生定秀の顔を眺めていた。この軍議では長老と言える立ち位置にいる定秀の考えを聞きたいと思う。

「左兵衛大夫はどうだ?意見はないか?」
「左様……。鉄砲に対する防備を考えた方が良いかと考えます」
「鉄砲……?」

 定秀の言葉に一座がキョトンとした顔をする。六角定頼自身が鉄砲をそれほど重視していないために六角家中には鉄砲に関する知識は不足していた。中には鉄砲という物を見たことがない者も居る。

「先だって御屋形様より我が日野で生産してみてはどうかと鉄砲を下されました。日野の鍛冶に渡してあれこれと試作をしておる所ですが、なかなかどうして、その威力は目を見張る物があります」
「しかし、鉄砲などという代物がそれほど頼りになるものでしょうか?御屋形様が見向きもされなかった代物でございましょう」

 進藤賢盛から疑問の声があがる。だが定秀の顔に迷いの色は見えなかった。

「確かに弓矢の方が強いのは事実でしょう。御屋形様も実戦では弓矢の方が使えると仰せでした。ですが、鉄砲も数を揃えればかなりの威力になります。最初の一撃を鉄砲で与え、その後に弓矢にて矢戦をする。
 轟音を放つ鉄砲は馬や兵の士気を挫くのにも一役買いましょう。決して侮るべきではない」

 定秀の言葉を受けて各将が様々に議論を交わす。軍議の席は一時騒然となった。

「わかった。左兵衛大夫は今軽々に軍を進めるべきではないということだな?」
「いかにも。鉄砲は南蛮より堺にもたらされているとのこと。三好筑前の本拠は堺に近うござれば、今回の戦でもいくらかは揃えておりましょう。もしやすると宗三殿が敗れたのは鉄砲のせいもあったのではないかと」

 これは当たらずと言えども遠からずといった部分があった。
 三好長慶はこの新兵器を三十丁ほど所有しており、当時としてはそれなりの数と言えた。もっとも今はまだ三好長慶も鉄砲の扱いを始めておらず、実戦に投入されてはいなかった。

「よし、では左兵衛大夫の言を容れて今は父上の援軍を待つことにする。いくら鉄砲が脅威になろうと、三万の軍で攻めかかれば京の奪還は可能だろう」

 義賢の言葉に一座の全員が頭を下げる。結果的に見ればやや慎重すぎる作戦ではあったが、ともあれ軍勢という点では三好軍よりも六角軍の方が多い。より確実に勝つためには悪くない作戦と言えた。

 ―――鉄砲か。左兵衛大夫がそれほどに言うのならば警戒すべきかもしれん

 六角義賢は幼少の頃より日置吉田流の弓術を学び、奥義の伝授を受けるほどの腕前だった。そのため定頼以上に弓矢の強さを知っている。
 鉄砲伝来以前は六角弓隊こそが天下最強の飛び道具だったが、新たな技術はそうした戦術を転換させる力を持つ。六角家はいよいよ時代の波に取り残されようとしていた。



 ※   ※   ※



 坂本に到着した六角定頼は足利義晴と今後の対応策を検討した。軍議の場には足利義藤、細川晴元、六角義賢、進藤貞治、蒲生定秀など六角家中の重臣たちが顔を並べている。

「まず、此度の筑前守の叛乱は某の失態でもあります。大御所様、公方様には深くお詫び申す。その上で申し上げる。かくなる上は一旦観音寺城に落ち延びて頂き、再起を図るが上策かと愚考いたします」

 定頼の言葉に足利義晴や細川晴元の顔が強張る。細川晴元は定頼さえ出陣すれば三好など粉砕できると思っていた。

「義父上、しかし今は三好筑前も摂津の伊丹城に手こずっております。京を回復するには絶好の機ではありませんか?」
「婿殿。潔く認めよう。我らは三好と遊佐のに敗れたのだ。戦の勢いは向こうにある。今は軽々に当たるべきではない」
「一度負けたくらいで大人しく引き下がれと仰せになる。義父上はいつからそのような腑抜けになられたのか」

 定頼は尚も噛みついて来る細川晴元に険しい視線を送った。
 元々は細川晴元が三好長慶を散々に冷遇したツケが回ってきただけのこと。いかに三条との縁もあって親子の縁を切るわけにいかないとは言え、定頼にはこれ以上細川晴元の都合で軍を動かす気は無かった。

「此度は今までの状況とは違う。何よりも宗三が居らぬ以上、摂津でこれ以上の戦は出来まい。好ましい男ではないが、宗三の兵糧や軍兵の手配りは見事だった。そのことを誰よりも実感しておるのは婿殿であろう」
「それは……」

 細川晴元にも言葉が無い。三好政長が死んだことでこうもあっさりと兵站が崩壊するとは思わなかった。今になって細川晴元はどれだけ三好政長の手腕に助けられていたかを思い知ったと言える。

「今は三好筑前と戦を整える準備をし、万端の用意を済ませた上で戦をせねばならん。中途半端な援軍の用意だけで戦い抜ける戦ではない」
「父上、しかし右京大夫様の仰せにも一理ありまする。我らはこの地で京の奪還を目指したく思いますが……」
「四郎。お主はまだわからんか。戦をするには兵糧・軍馬・矢の用意が欠かせぬ。遠征軍であれば尚のことだ。今は京を回復したとしても維持できるだけの物資を用意できぬと言っている」

 息子の義賢の言葉にも定頼は首を縦に振らない。三好長慶と正面切って敵対するには兵站が不足していると見ていた。

「ともかく、軽々に戦端を開くことは堅く慎むべきであろう。儂は今保内衆と共に物資の手配を整えている。その準備が整うまでしばし待つが良い」

 義賢が悔しそうな顔をしながら俯く。義賢には今回の敗戦を己の失態と責める気持ちがある。

「大御所様、公方様にも今しばらく御辛抱願います。来年には戦を出来るだけの用意を整えて坂本に戻って参りましょう」
「せっかくだが、余はこの地で反撃の時を待つことにする」

 大御所義晴の言葉に定頼は再び険しい顔を向ける。

「弾正。分かってくれ。今は少しでも京に近い場所で機会を待ちたいのだ」
「……承知いたしました。某はすぐに観音寺城に取って返し、戦の用意を整えまする。四郎は大御所様、公方様と共にこの地に留まり、警護の任に当たるが良い」
「ハッ!」

 軍議が終わると定頼は再び観音寺城に取って返した。


 天文十八年(1549年)八月
 六角軍と足利義晴・義藤親子は坂本に留まって山科郷の松永甚介・十河一存の軍勢とにらみ合いに入る。松永・十河も京の横領した荘園からの年貢徴収によって軍備を整えなければ戦える状況ではなかった。こうして天文十八年は睨み合ったまま暮れてゆく。京に立ち上る戦の気配はまだ消えるどころか濃厚さを増していた。
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