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第三章 蒲生定秀編 木沢長政の乱

第32話 戦国大名

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主要登場人物別名

弾正… 六角定頼 六角家当主

公方… 足利義晴 十二代足利将軍

――――――――

 
「これにて、某は近江に帰国いたしまする」

 朽木植綱は幕臣側の席に座りながら、六角定頼の挨拶をぼんやりと聞いた。定頼は室町第に出仕して将軍義晴に帰国の挨拶を述べている。
 既に季節は夏を過ぎ、間もなく収穫の季節になる。軍勢として動員している兵達も村に帰って稲刈りに精を出さねばならない。
 朽木谷でも今頃は収穫作業の準備を始めているだろうと考えると、植綱の脳裏には懐かしい朽木の景色が蘇って来た。

「うむ。此度の戦は弾正の功多きは余人の認める所である。今後とも公方様御為に働くように」

 将軍側近の大舘尚氏が大げさに返事を返す。言葉とは裏腹に、定頼に気を使っていることは植綱にも充分過ぎるほど伝わって来た。

 定頼の後ろには六角家の重臣たちが控え、定頼の弟の大原高保は再び将軍側衆として幕臣側に座っている。
 気付けば全て元通りだった。
 ただ一つ違うのは、以前よりも定頼の存在感が桁違いに大きくなっていることだ。
 今や幕府の受ける訴訟申し立てですら、定頼の同意が無ければ満足に裁けない。天下を差配しているのが定頼であることはこの場の誰もが知っていた。

「恐れ入りまする。公方様にはお心を安らかにお持ち下さり、何事もこの弾正めにお任せ下さいますようお願い申し上げます」
「うむ……」

 義晴はやや浮かない顔をして頷く。ここの所気分の落ち込みが激しく、今回の席も直前まで出たくないと駄々をこねていた。

 ―――困ったものだ

 植綱は内心ため息を吐く。ここの所、将軍義晴の気分の浮き沈みが激しい。
 数日ふさぎ込んでいたかと思うと、突然やる気を出してあれこれと指図をしていく。だが、義晴直々の案件は全て定頼によって判決を覆されていた。
 植綱の目から見ても、定頼の言うことの方が妥当に見えるからどうしようもない。そういうことが続き、結局はまた義晴がふさぎ込んでしまう。これでは将軍親政など望むべくもなかった。

 ―――わしも一度朽木に帰るかな……

 最近では植綱もそう思うことがちょくちょくある。定頼の勢威の強さをまざまざと見せつけられるのも業腹だし、随分と長い間朽木谷へも帰っていない。
 望郷の念というほどでもないが、懐かしい故郷の姿をもう一度見たかった。


 天文六年(1537年)九月
 六角定頼は天文法華の乱の後始末を終えて帰国する。
 北近江でまたぞろ浅井が動き出したという噂もあり、定頼もいつまでも京でのんびりしても居られなくなった為だ。
 この年の八月十日には定頼は正式に
 それまでの定頼は、公式には近江守護ですらなかった。
 戦国大名と守護大名という区分けを用いるならば、六角定頼は守護大名家出身でありながら紛れもなく戦国大名の一人であった。



 ※   ※   ※




「お帰りなさいませ」
「うむ。留守中何事も無かったか?」
「はい。鶴千代も元気にしております」

 観音寺城下の蒲生屋敷では、一年ぶりに帰国した夫を辰が出迎えていた。
 鶴千代も伴って日野から出迎えに来ており、久方ぶりの家族団らんに辰の心も弾んでいた。

「ちちうえー!」
「おう!鶴千代も大きくなったな」

 そう言って定秀が走り寄った鶴千代を抱きかかえる。五歳になった鶴千代は、やんちゃ盛りで侍女たちの手を焼かせることもしばしばだった。

「一年会わぬ間にまた重くなったのではないか?」
「そうですね。今では私の手元でも大人しくはしてくれません」
「そうかそうか。鶴千代、かか様を困らせてはならんぞ」
「はい!」

 返事だけははっきりと返す鶴千代に、辰も困り顔で笑った。

 ―――この幸せが長く続きますように

 城下では北近江がまたキナ臭くなっているという噂で持ち切りだ。どうやら小谷城周辺で一向一揆が起こっているという噂があった。
 帰国して早々、また定秀が戦に出かけてしまうのではないかと心配ばかりが募る。

「どうした?暗い顔をして」
「……いいえ。なんでもありませんよ」

 辰は暗い思いを振り払うように笑ったが、なおも定秀は心配そうに見つめていた。

 ―――心配させてはいけない。殿の不在の間は私がしっかりしなければ……



※   ※   ※




 定秀はじっと辰の顔を見ていた。
 まさか雪の事を勘付いて暗い顔をしているのかと不安を覚える。辰の勘働きは志野ほどではないが、それでもさすがに女の勘というものの鋭さを備えている。
 自身にやましい気持ちがあるから余計に落ち着かない。

「殿。今日はゆっくりなさるのでしょう?」
「ああ、しばらくは戦はないだろうからな。北近江に再出兵するという噂もあるが、少なくとも俺は御屋形様からは聞いていない」
「そうですか」

 辰の顔があからさまに明るくなる。それを心配していたのかと思うと定秀はほっとした。

 ―――今日は久しぶりに辰を抱こうか

 罪滅ぼしというわけではないが、鶴千代が産まれてからはしばらく控えている。肌を合せれば辰の気も紛れるだろう。
 それに、久々に辰の顔を見るとやはり愛おしさが込み上げて来る。男とは勝手なものだと自虐的な気持ちも覚えるが、それでもそういう気になるのだから仕方がない。
 子が出来れば辰も余計な事に目を向けなくなるかもしれないという期待もあった。

 ―――本当に、男とはどうしようもない生き物だな



 ※   ※   ※



 保内商人の内池甚太郎は千草街道を伊勢に向かっていた。
 最近では日野の塗椀の評判が良く、伊勢に持って行けば飛ぶように売れた。その為、従来の八風街道ではなく日野を経由して千草街道から桑名に行くことが多かった。

「ここを通るならば一駄につき五十文だ」

 街道沿いの関所では千草氏の兵が道行く人から関銭を徴収している。前の人が次々に銭を払って関を通って行き、次は甚太郎の番になった。

「一駄五十文だ。……ん?またお主か」
「へい。毎度お世話になります」
「お主ならば一駄三十文に負けてやろう。ただし……」
「へへっ。もちろん持ってきておりますよ」

 そう言って甚太郎は荷物から京で買い付けて来た扇を取り出す。兵達も雅な装飾を施された扇を見て”おお”と顔を綻ばせる。いつも千草街道を利用する甚太郎は、兵達の手懐け方も心得たものだった。

「いつも済まんな。よし、五駄で百五十文だな。通って良し!」
「いつもありがとうございます」

 甚太郎は千草氏の兵にも積極的に顔を売っており、京の文物や時には酒や米などを献上する事で便宜を図ってもらっていた。
 商人としての如才の無さは保内衆の中でも指折りのものだ。

 そもそも八風街道を通れば梅戸氏の関所は保内衆というだけで通してもらえるのだが、その為に遠回りする経費を考えれば多少の銭を払ってでも千草街道を越えた方が商売としては良かった。
 どのみち払った分の銭は日野椀の売値に上乗せしているだけだから、甚太郎にも損は無い。

 ―――千草街道も六角様の威光が届けばいいのだがなぁ

 千草氏はまだこの頃は独立勢力として強い力を持っており、六角家に対しても中立の立場を崩していない。そもそも北伊勢は小さな国人衆がひしめき合っており、街道を通るにはいくつもの関を抜ける必要があった。
 最近ではそれらの国人衆の中にも一向宗へ宗門を変える者が出てきていると聞く。
 一向宗の頭を抑えた定頼ならば、伊勢の国人衆に対しても影響力を発揮できるのではないかという期待があった。

 ―――京の東口の関はすでに六角様が抑えたのだ。次は伊勢をお願いしたいものだ

 京の東口には公家の山科家の設けた関があり、山科家の貴重な収入源になっている。だが、定頼配下の保内商人は関銭を免除されていた。
 定頼の威令が京洛に響いたことによるものだ。
 保内商人は定頼の諜報機関を務める事で大きくなった。定頼の勢力が伸びる事はそのまま保内商人の勢力が伸びる事に繋がる。
 八風街道は抑えているから、次は千草街道を六角氏が抑えれば伊勢との通商は益々やりやすくなる。

 ―――できれば、物の値は下がったほうがいい

 商売人として、考える事はそれだけだった。
 甚太郎にも利益を追求する商人の本能はもちろん備わっている。だが、物には適正な値というものがある。
 安すぎてもいけないが、高すぎてもいけない。
 関銭という出費は、物の値をいたずらに引き上げることにつながる。物の値が上がれば、それを買う民にとっても良いことではない。

 例えば日野椀などは高級品であるから問題はないが、伊勢から持ち帰る塩や魚介類などは庶民の暮らしに密着する物だ。それらの値が上がれば、それだけ人々の生活は苦しくなる。
 人々の暮らしが苦しくなれば、その分だけ商人が抱える市場も縮小せざるを得ない。結局、無闇に高値で売れば自分達が苦しくなるだけだということを保内商人は身に染みて知っていた。

 ―――最近では呉服商売も木綿に押されて充分な値で買い取れていないしなぁ。一度お頭に相談してみるか

 近江では昔から麻とイグサの栽培が盛んで、特に麻呉服は保内商人と横関商人の独占状態にある。
 麻呉服の値が下がれば、副業でそれを作っている百姓の収入も下がる事になる。
 儲からないからと麻呉服作りをやめてしまえば、それだけ扱う商品が少なくならざるを得ず、結果として商人の損失につながる。
 物の値を維持するということは、結局は商人自身の為に必要な事だった。作ってくれる者が居てこその商人だ。


 とつおいつ思案しながら歩いていると、やがて桑名の町が見えた。
 やはり桑名は繁華な湊町で、山からはいくつもの帆が見える。甚太郎の足取りも思わず軽くなった。

 ―――戦などなければ、天下が全てこのように豊かになるだろうに……

 考えても栓無き事ながら、甚太郎はそういう思いを抱かずにはいられない。
 桑名には様々な物が溢れ、店の売り声と買い求める客達の声でいつも活気に溢れている。ただその場に居るだけで豊かさを実感できる場所だった。それは全て、桑名では戦が無いという暗黙の了解の元に維持されている繁栄だ。

 保内商人だけに限らず、桑名の市場掟で『喧嘩をする者は出入り禁止』という掟が定められていた。
 武家は相続を巡って争うが、その考え方が甚太郎には理解できない。商人は相続を巡って争うくらいなら、新たに自分で商売を立ち上げることを考える。そして、喧嘩をすることはどこの市でも厳しく制限するのが普通だ。
 なぜ上つ方々にはそれが出来ないのかという思いはあった。
 戦国時代の商人とは、平和であることの価値をある意味誰よりも理解している者達だった。


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