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序章 蒲生藤十郎

第5話 黒橋口の合戦

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主要登場人物別名

藤兵衛尉・藤兵衛… 蒲生秀紀 蒲生家当主 定秀の従兄弟
左兵衛太夫… 蒲生高郷 定秀の父

――――――――

 

「中々に堅い城だのぉ」
 定頼は陣幕の外に出て目前にそびえる小谷城の威容に歓声を上げていた。

「申し訳もございません。今少し引き付けるべきでございました」
 隣で蒲生高郷が面目なさげに頭を垂れる。
 自軍の被害に目を瞑ってでも、もう少し深く針を飲み込ませなければいけなかったと反省しきりだった。

「なに、どのみち最初から逃げる心づもりだったのだろう。逃げの一手に回られれば、追い詰めるのは難しい」
 定頼は気にした様子も無く、いつもの笑顔で対応していた。
 顔戸で浅井勢を打ち破った六角勢は、ほとんど被害を出さぬままに小谷城の包囲戦に移っていた。
 もっとも、京極家の内紛に乗じての出兵だったので浅井も充分には抵抗できなかったのだろう。

 陣中で日差しは日毎に熱を帯び、気が付けば五月の出陣から二か月以上が経っていた。

「しかし妙ですな… 籠城したとて援軍の当てもなし。
 我らが諦めて軍を引くのを期待しておるのでしょうか?」
 進藤貞治が首を捻りながら定頼に問いかける。
 六角軍の主力は百姓兵で、農繁期には大軍を維持するのは難しい。
 京極領の米を刈り取れば補給は賄えるが、秋になれば軍を退くというのは暗黙の了解でもあった。

「さて… 浅井備前守は所詮その程度なのか、それとも我らが察知し得ぬ策を巡らせておるのか…」
「しかし、援軍と言っても越前は我らに味方して出陣しておりますし、美濃は内紛でそれどころでは…」
 この年の六月には美濃の守護・土岐頼武に対して弟の土岐頼芸が反旗を翻し、小守護代の長井長弘や西村勘九郎らに支えられ、優勢を占めていた。

 朽木も六角方として参陣しているし、あと考えられる援軍と言えば若狭の武田くらいだったが、若狭武田も六角と縁が深い家だ。
 こちらも援軍というなら六角の援軍になるだろう。
 打つ手が無いまま籠城しているとすれば、無益な事だった。


「まあ、ともあれ小谷はあと一月も持つまい。何を画策していようと、じっくりとお手並みを拝見しようではないか」
 定頼は相変わらず呑気に言い放ってのけた。
 多少百姓兵を帰村させたところで、援軍が無ければ包囲を解かずに年を越せるという自信があった。


 ※   ※   ※



 一方、日野中野城の留守居を命じられた藤十郎は、外池弥七の示した書状を前に言葉を失くしていた。

「……真に、これを藤兵衛尉とうひょうえのじょうが?」
 ようやく掠れた声で弥七に問うと、弥七も悲痛な面持ちで頷いた。
 書状の宛先は蒲生宗家の重臣・町野将監で、差出人は実権の無い当主秀紀だった。

「御屋形様ご不在の観音寺城を、伊庭いば久里くのりの残党が攻め寄せると…」
「町野殿から内密に渡され申した。手引きしたのは藤兵衛様でございます。
 これは明確に、謀反でございますぞ」
 藤十郎は書状を投げ捨てて頭を抱えた。

 観音寺城は西に対しては比較的防備が薄くなっている。
 もはや京にまで影響力を及ぼす六角家にとって、湖東・湖南地域は安全地帯に近い認識だった。

「中野城ですぐに集められる手勢はいかほどか?」
「およそ二百でございます。半分以上は殿に従って御屋形様に同行しております」
「すぐに陣触れを出せ!宗家の不始末は、一命を持って償う!」
「しかし、それでは中野城の守りが…」
「観音寺城を落とされれば、どのみち中野城は孤軍になるのだ。今更帰る所など心配している場合ではない!」
「……ハッ!」

 藤十郎は急いで事の次第を文に書き、定頼と高郷へ届けるように手配した。
 城内・城下には半鐘の音と法螺貝の音がうるさく響き渡る。
 各村に住する地侍に参集を告げる騎馬が一斉に走り出した。

 伊庭・九里の残党は、甲賀から野洲河原を経て八幡山の麓へ進出するという。甲賀の山中で秀紀が匿っていたそうだ。
 密書には、蒲生家も合力して六角を打倒すると景気の良い事が書かれてあった。

 ―――馬鹿が!今六角を裏切ったとて、京極や細川の風下に立つだけだと何故わからん!

 もはや蒲生家がひと方の勢力で居られた時代は終わったのだ。六角家を喰らい尽くす程の力が無ければ、誰かの被官となるしかない。
 先の見通せぬ愚か者に対し、藤十郎は苛立ちが募った。
 叶うならば今すぐ鎌掛城に攻め寄せて斬り殺したい衝動に駆られる。
 しかし、それどころではなかった。


 翌日には軍備を整えて日野を出発すると、武佐の辺りで斥候からの報告があった。
「敵勢は仁保川を越えました!真っすぐに観音寺城を目指しております!
 その数、およそ二千!」
「十倍か… まともにやって勝ち目はないな」
 藤十郎が真剣な顔で独り言ちると、隣で外池兄弟が心配そうな顔を向けていた。
 まだ十八歳の藤十郎にはいかにも荷が重いと見えた。

 いざとなれば一身に代えても藤十郎を逃がし、高郷の元へ送り届けると打ち合わせている。
 兄弟は既に死を覚悟していた。

「観音寺城に使者を出せ!我らはこの地で敵勢を食い止める!その間に防備を固められよと」
「いかほどの時が稼げましょうか?」
「わからぬ。だが、夜陰に紛れて混乱させれば、明日の朝は軍勢を整える事に時を使わせられる。その後は一撃離脱で挑発して時を稼ごう。
 観音寺城が無事ならば、坂田郡から戻った御屋形様の軍勢が追い払われるだろう。
 一日時を稼ぐことは、百の首にも値する武功と心得よ!」
「ハハッ!」

 坂田郡からならば、急げば一日で観音寺城へは戻れる。
 方針を決めた藤十郎は、武佐の近くの若宮の杜に軍勢を隠した。
 小勢であったことも幸いし、敵勢からは完全に伏兵となっていた。

 夕暮れ近くになり、伊庭・久里勢は黒橋口の辺りで野営する構えを取る。
 黒橋口からは観音寺城はほんの一刻(二時間)ほどだ。
 翌早朝から攻め上る構えと見えた。

 真っ赤に染まった太陽を背中に、藤十郎が無言で上げた手を下ろすと総員徒歩となった軍勢が無言で進み始める。
 馬には枚を含ませて木々に繋いでおいた。
 まだかわたれ時には間がある。異様な緊張感に包まれた一団は、木々が切れる寸前で止まって弓に矢をつがえた。
 目前には野営の準備を進める一団が見える。

 再び藤十郎が手を振ると、およそ百本の矢が敵勢の一団に降り注いだ。

「一人三射したら戻れ!くれぐれも交戦するなよ!」
 敵方の悲鳴に紛れて指示を出すと、傍らから弥七と彦七が騎馬で駆け出して敵勢の中に向かって行く。
 旗指物は抜いてあった。

「敵襲だ!蒲生めが裏切ったぞ!」
「いいや、京からの新手だ!挟み撃ちにされるぞ!」
「間者が混じっているぞ!味方の陣から矢が射かけられた!」

 散々に流言を飛ばしながら外池兄弟が敵陣の中を駆けまわる。
 現場は大混乱で、誰も彼もが周りをオロオロと見回しては騒ぎ立てるだけだった。
 充分に混乱したことを見計らうと、外池兄弟は敵方の旗指物を奪って背に挿し、敵を追いかける様子を見せながら若宮の杜へと向かった。

 その後、夜にもう一度矢を射かけて混乱させると、翌朝には二百の軍勢を若宮の杜から進撃させた。



 ※   ※   ※



「なんだと!観音寺城が!」
 保内の伴庄衛門から極秘の使者が定頼の本陣に駆け込んでいた。
 見た目は商人の風体をしているが、諜報を専門にする男だった。

「伊庭・久里の残党らが西から攻め寄せる算段をしておると、甲賀の者から連絡がありました」
「……ご苦労。下がって休むがいい」
「ハッ!」
 隣で進藤が深刻な顔をして定頼を見る。
 久々に見る主君の余裕のない顔に、進藤の心もざわついた。

「浅井もなかなかに厄介な事を仕掛けて来るな」
「やはり浅井の策でございましょうか」
「わからん。そんな余裕など無かったかもしれん。だが、示し合わせて我らをここに釘付けにしておったのだとすれば、今回の籠城も合点がいく」

 小谷城の落城は目前に迫り、あと一日二日もあれば城方は降参するかに見えた。

 ―――まんまと餌に食いついたのはわしの方か… おのれ浅井備前!

 手が白くなるほど強く握った。小谷城を見上げる目はいつもの笑顔ではなく、鬼気迫る形相だった。

「手勢をまとめよ。蒲生・後藤・三井それと梅戸の軍勢、合わせて二千を救援に送る」
「御屋形様は動かれませぬので?」
「わしが動けば、ここぞとばかりに追撃して来よう。浅井の狙いは南北からの挟撃だ」
「むぅ…」

 進藤にも返す言葉が無かった。定頼ならば、恐らくそうするだろう…

「それに…」
 主君の言葉に進藤が顔を上げると、定頼の口元には笑みが浮かんでいた。
「折角自ら餌になってくれたのだ。遠慮なく食らい尽くしてくれよう」
 不敵に笑う定頼の目からは、浅井を小馬鹿にする色合いは綺麗に無くなっていた。

 指令を受けた各軍は、夜陰に紛れて密かに小谷城から南へ向かった。


 ※   ※   ※



「ひと当てしたら観音寺城に駆けよ!御城方と合力して敵を防ぐのだ!」
「オウ!」
 藤十郎の下知に全員が声を揃えると、今度は正面から黒橋口に向かった。
 既に正体不明の軍に対して備えを固めていた伊庭・久里勢は、『対い鶴』の旗を見るとすぐさま矢を射かけて来た。
 かまわず前進すると、相手方の足軽も槍先を揃えてひたひたと進んでくる。その後ろに騎馬が待機し、いつでも突撃にかかれる態勢を作っていた。

「防ぐな!駆けよ!」
 言いさすと先頭に立って藤十郎が駆ける。
 死なせてなるかと外池兄弟が藤十郎の前を駆けた。

 後ろから蒲生勢二百も突撃の態勢に移り、打って変わって伊庭・久里勢は防備の陣形に移ると共に、騎馬が左右に分かれて包囲の形勢を取った。

 ―――南無三!

 敵の槍衾に正面から突撃した藤十郎の一団は、防壁に穴を開けるとそこに後ろから徒歩兵が取りつき、綻びを広げていく。
 だが、後ろからすぐに後詰が来ては槍を繰り出し、押し包まれて徐々に蒲生勢は数を減らしていった。

 たまらず後退すると、それ以上追って来る様子はない。適当に追い払われているのが藤十郎にも分かった。
 手負いの数を確認し、残った手勢百三十をまとめると再び突撃に移る。
 しかし先程の再現のように包囲の態勢を作られ、少ない蒲生勢は見る見る討ち取られ、『対い鶴』はどんどんと地に落ちて行った。

「道を切り開きます!若殿はお城へ!」
「待て!彦七!」
 制止する間もなく彦七が敵中に突撃すると、歩兵が次々とその一点に取りついて行った。

 ―――道が開けた!

「でかしたぞ彦七! 続け!」
 藤十郎の下知に、捨て身の一団は敵中を突破して黒橋を抜け、香庄の辺りで隊を整えた。
 観音寺城を背にした蒲生勢は、そのまま徐々に下がりながら撤退戦を演じた。


 ※   ※   ※



「ええい!敵は小勢だ!一気に押し込んで観音寺城まで攻め上れ!」
 伊庭軍の先手を任された西川又次郎が太刀を突き出すと、左右から騎馬が蒲生軍へ突撃を開始する。
 逃げに徹する敵勢は、西川の目にはあと一押しで崩れるかに見えた。

「長柄隊!突撃だ!」
 徒歩足軽の突撃にたまらず敵が下がると、その分だけ西川隊が前進する。
 観音寺城を背にしてからの敵軍は、力を入れるとするりと躱し、こちらが隊列を整えると再び陣形を整えるという小賢しさを見せていた。
 すでに日が西に移り始め、今日中に城攻めを始めるのは難しくなりそうな形勢だった。

「進めー!進めー!」

 西川隊の前進に合わせて伊庭勢全体がひたひたと観音寺城に押し寄せる。
 手間取ったが、予定より一日遅れで明日には城攻めに移れるだろう。

 ―――小癪な奴らめ!一息に飲み込んでくれる!

 小賢しい戦闘で時間稼ぎをする蒲生勢を何としても壊滅させようと、西川隊は本隊から徐々に離れて突出し始めた。
 夕方近くになって安土山を視界に捉えた。
 今一息と兵を休ませる事無く、西川は最後の突撃命令を出した。

 と、先頭を駆けた騎馬が吹き飛ばされるのが見えた。

 ―――なんだ!?

 前線を見ると、敵勢の向こうに大きな立ち姿の『むかつる』の馬印が見える。

「何事だ!」
「新手です!六角の増援です!」
 慌てる西川の耳に野太い大音声が聞こえた。


「ここを通りたくばわしを倒してゆけい!六角随一の猛将、蒲生左兵衛太夫とはわしの事だっ!」


 ―――くそっ!ここまでかっ

「退け!黒橋口まで退け!」
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