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第31話 戦勝ムード
しおりを挟む年が明け、昭和十七年になった。
昨年の十二月初頭に行われた真珠湾攻撃とマレー半島での勝利が報道されるや、日本は戦勝に湧いた。年が明けてからもその興奮は冷めやらずで、正月が過ぎて二月に入っても日本中至る所で万歳の声が聞こえた。
そんな中、千佳は新次郎と共に堅田の町に来ていた。
町は戦勝ムードに沸き立ち、町中どこもかしこもお祭り騒ぎだ。二月の寒さも忘れたように人々は喜び合い、大声を張り上げている。
大勢の男達が通りで騒ぐ中、千佳は紙袋一杯の荷物を持って衣料品店から出て来た。町の喧騒とは裏腹にすっかり寂しくなった商店の棚にため息を吐きながら、なんとか手に入るだけの衣類を調達してきた。
考えることは皆同じのようで、今も商店の中ではおばさん達が商品の奪い合いを演じている。
「おおーい、千佳。買えたか?」
酒瓶と醤油瓶を抱えた新次郎が通りの向こうからやって来た。ゴムや油は以前から配給に変わっていたが、近頃では米や味噌、醤油、酒と言った食料品まで配給制に変わっていた。
この二月からは衣類も切符配給制に変わると聞き、慌てて買い出しに出て来たのだ。
「うん。何とかこれだけ」
千佳は新次郎に走り寄り、紙袋の中から靴下を取り出して見せた。他には布の切れ端を多めに買ってある。
シャツやもんぺは布地があれば作ることもできるが、靴下だけは素人の針仕事では難しい。似たような形は作れるが、履いてみるとどうも履き心地が悪く、清などはちょくちょく靴下を嫌がって脱ぎ散らかしていた。
足の冷えは体の芯まで響く。何度「風邪をひくから」と言っても靴下を履こうとしない清に千佳も新次郎もほとほと手を焼いていた。
「本当はもっと厚手のやつが欲しかったけど」
「なに、贅沢は言えん。今はどこもかしこも我慢、我慢や」
「戦争には勝ってるのに、なかなか楽にならんね」
千佳はそう言って新次郎の抱えている酒瓶に目を落とした。
新次郎や隆が好きだったビールは、品薄続きで今やほとんど手に入らない。清酒ならば配給で多少は手に入るので、新次郎も近頃では清酒を飲むようになっていた。元々新次郎は大酒を飲む方ではないので、清酒ならば湯呑二杯分くらいで済む。
「しょうがないな。兵隊さんが使う分が先や」
「そうやね……いつになったら戦争が終わるんかなぁ」
「こら、滅多な事言うもんやない」
新次郎はそう言って用心深く周囲を見回す。
千佳の方はと言えば、何が駄目なのかが分からないという顔をしていた。キョトンとする千佳に対し、新次郎は顔を近付けて声をひそめた。
「戦争に反対するような物言いすれば、憲兵に何言われるかわからん。家の外では、滅多なことは言うたらあかんぞ」
「反対してるわけやなくて、早く終わらんかなって言うただけや」
「取りようによっては、戦争を続ける軍を批判してるようにも聞こえる。憲兵はどうとでも理屈を付けてしょっ引いて行くんや。女やとて容赦はしてくれんぞ」
新次郎がそう言った時、遠くで憲兵と何やらひそひそ話している男が目に入った。さっきまで新次郎の後ろに居た男に似ている気がする。
千佳がじっと見ていると、途端に二人の憲兵が駆け寄って来た。憲兵の目にはこちらを威圧するような色がある。
「貴様ら、今お国に文句を言っていたのか?」
「と、とんでもない! ワシらはそんな大それたことは何一つ言うておりません!」
新次郎が慌てて否定するが、憲兵は蛇のような目で千佳と新次郎を睨みつけた。その目には強い猜疑心が宿っている。千佳は負けじと強気に憲兵を見返したが、恐怖で膝が震えている。本音を言えば、今すぐに逃げ出したいほど怖かった。
その時、もう一人の憲兵が千佳の顔を見て何かに気付いた。
続けて二人がヒソヒソと小声で何かを話している。聞き取りにくいが、「何?海軍少佐?」と聞こえた気がした。どうやら相手は千佳の身元を知っているようだ。
密談を終えた二人は、改めて新次郎に向き直る。先ほどの憲兵も千佳からは意識的に目を逸らしていた。
「あまり疑われるようなことをするなよ。次に見かけたら容赦せんぞ」
「は、はい。それはもちろん」
それだけ言い捨てると、憲兵は人だかりをかき分けて去って行った。
千佳の口から思わず太い息が漏れる。
――隆さんに助けてもらった
千佳の内心は複雑だった。
戦争が始まって以来、隆が軍人であることを喜んだことは一度も無い。むしろ、隆が軍人でさえなければと何度も思って来た。
しかし、『海軍将校の妻』という肩書がこうして身を守ってくれていることも改めて実感する。それは、隆が軍人であるからこそだ。
とはいえ、憲兵らと正面切って諍いを起こせば隆の顔に泥を塗る事にもなりかねない。軍内部で秋川の悪名が立てば、恥をかくのは隆だ。
そういった意味では、『海軍将校の妻』という肩書は面倒でもあった。
「あんまり隆君の顔に泥を塗るようなことをしたらあかんぞ」
「……うん。ごめん」
自分の迂闊な言葉が招いた事態に、さすがの千佳も反省した。
もしも真知子や清を連れている時だったらと思うとぞっとする。町中はもちろん、近所の目だってあるのだ。
そうしたことを思うにつけ、余計に早く戦争が終わってほしいと思わずにはいられなかった。
六月に入ると、千佳は真知子を連れて公民館に集まった。周囲には老人や女性、それに子供の姿ばかりがある。
農村では、田植えと稲刈りは村落の共同作業だ。田植え機やコンバインといった農機具の無い時代では、田植えも稲刈りも全て手作業で行う。そのうえ、田植えや稲刈りは一日で終わらせる必要がある。同じ一枚の田の中で植える時期や収穫の時期にずれが生じれば、出来上がりの米の品質がまばらになってしまうからだ。
その為、田植えや稲刈りは村落総出の作業になる。今日はあっちの田、明日はこっちの田と言った具合に、誰の土地かは関係なく全ての田を村人総出で作業する。
以前はこうした村作業は主に男衆の仕事だった。秋川家でも昨年までは新次郎と隆がこうした村作業を受け持ってくれていた。
だが、今は隆は居ない。居ないからと言って作業の人手を出さないという訳にはいかない。その為、新次郎だけでなく千佳や真知子も動員されることになったというわけだ。
事情は近所の家も同じで、今まで村作業をこなしてくれていた男手が兵隊にとられたことで、出せる人手は老人と女・子供くらいになってしまっている。
中には赤子を背負った女性や、真知子よりも小さい子供も混じっていた。
「えー、皆さんご苦労様です。今年も山口さんの所から始めていきたいと思います。では、よろしくお願いします」
村役の掛け声で銘々が腰に下げた魚籠に苗を入れ、置かれた三角枠に沿って稲を植えていく。昔取った杵柄で千佳はすいすいと植えていくが、隣の真知子は若干モタついていた。
「ほら、こうして、こう」
千佳が真知子の領分にも体を乗り出して植え方を教える。何度か教えると、真知子も他の人に遅れないようになってきた。
「そうそう。上手い上手い」
少し調子に乗った真知子が、三角枠が来る前にほいほいと植えて行った。だが、先行した部分は明らかに植える場所からずれている。
「あれ? ずれてしもた」
「ちゃんと他の人を待たへんからよ。早くても遅くてもあかんの。皆で息を揃えて、一緒に進めていくんよ」
「うん」
そう言ったっきり、真知子は黙々と作業を続けた。千佳も口を閉じて作業に戻る。
二人が顔に泥を付けながら懸命に苗を植えていると、誰ともなく『田植え歌』を口ずさみ始めた。千佳ももちろん知っているし、真知子も学校で習って知っている。
誰かの歌に他の誰かが唱和し、やがては全員で苗を植えながら歌った。歌に合わせ、自然と全員の植えるリズムが揃う。
山間の狭い田んぼには、そうした女性達の歌声がこだましていた。
千佳たちが公民館に戻った時には、既に夕方に差し掛かっていた。千佳が手を洗っていると、突然ラジオを聞いていた何人かが手を叩いて喜び始める。
何事だろうかと思って近づくと、ラジオから勇ましい軍歌と共に臨時ニュースがもう一度読み上げられた。
それは、先日行われた太平洋のミッドウェー島を巡る戦いで日本が勝利したことを伝えるニュースだった。
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