もどろきさん

藤瀬 慶久

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第27話 写し鏡の世の中

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 ある日、千佳は学校から帰って来た真知子の異変に気がついた。
 顔に涙の跡があり、目元も赤く腫れている。

「真知子。どうしたの? 学校で何かあった?」
「別に……なんもない」

 そう言って真知子が千佳の横を通り過ぎようとするが、千佳には真知子の言葉をそのまま受け取ることは出来なかった。
 こんなに目を腫らして、何も無かったはずがない。

 千佳は真知子の肩に両手を置き、正面から真知子の目を見た。

「本当に? ちゃんとお母さんの目を見て言うて」
「……」

 見る見る真知子の目に涙が溜まって行く。
 そのうちに泣きべそをかき始めた真知子が、か細い声で呟いた。

「……お父さん、いつまで家に居るの?」
「どうして? お父さんが家に居たら嫌?」
「……」

 千佳は真知子の反応に戸惑いを隠せなかった。
 明確に返答はしなかったものの、真知子の様子はまるで隆に早く戦争に行って欲しいというような態度だったからだ。
 そう言えば、ここの所真知子が隆に近付くことは少なくなっている。真知子も八歳になって父親に甘えるのが恥ずかしい年頃になって来たのかと思っていたが、どうもそうではなさそうだ。

「真知子は、お父さんが戦争で死んでしまってもいいの?」
「……それは、嫌……」
「じゃあ、何でそんなことを言うの?」
「学校で……男の子らに虐められる。
 ……真知子のお父さんは臆病者やって。兵隊さんは皆戦争に行くのに、真知子のお父さんは臆病やからいつまでも家に居るんやって」

 千佳は見えない何かに頬を引っぱたかれたような気がした。
 これは恐らく、子供達自身が言っているのではない。子供達は家で大人が言っていたことを聞きかじり、それを学校でそのまま口に出しているに過ぎない。

 何も言えなくなった千佳は、静かに泣く真知子をきつく抱いた。
 真知子も真知子なりに葛藤を抱えてきたのだろう。自慢の父親だった隆が、いつの間にか世間で臆病者とそしられる父親になってしまった。
 その現実に抗い、ずっと黙っていた。それが今、不意にあふれ出したのだ。

 その時勝手口の戸が開き、隆が台所に入って来た。

 野良仕事の休憩なのか、隆は水瓶に溜めた水をひしゃくで汲み、ゴクゴクと喉を鳴らして飲む。
 千佳の背中越しに隆の姿を見た真知子は、隆と顔を合わせないようにさっと身をひるがえして奥の部屋へ行った。

「どうした?」

 水を飲み、汗を拭った隆が千佳に問いかける。
 何と言えばいいのか分からず、千佳は咄嗟に「なんでもありません」と誤魔化した。だが、その挙動には明らかに不自然さが混ざった。

 しばし千佳の様子を見ていた隆は、ポツリと呟いた。

「今は事情があって俺を呼び戻せないそうだ」

 ――聞かれていた

 千佳はそう直観した。驚きと後ろめたさで、千佳の呼吸が荒くなる。
 千佳の内心を知ってか知らずか、隆はそのままの調子で続けた。

「心配しなくても、いずれ俺にも召集がかかる。蒲生さんが必ず呼び戻すと、そう言った」

 家に戻ってからの隆は、野良仕事や青年学校教官の傍らで己の肉体の鍛錬も欠かさなかった。山道を走り、庭の木にぶら下がって腕だけで体を持ち上げる。そうした訓練をただの一日も休んだことは無い。
 それは、再び戦争に行くことを予期していたからなのだろう。

 今や千佳も狼狽を隠せなくなっている。
 これではまるで、千佳や真知子が隆を追い出しているようではないか。隆に戦争に行って欲しいなどとは少しも思っていない。いつまでもここに居て欲しいと心から願っている。だが、それをどう言葉にすればいいのかが分からない。

「お前たちにも辛い思いをさせてしまって、すまない」
「ち、違います。違うんです!」

 突然千佳が叫んだことで、隆は口を噤んだ。
 千佳の目からは、大粒の涙がこぼれた。

「あなたがここに居て、辛いことなど何もありません。ずっと居てください。ここは、あなたの故郷なんです」

 自分の言葉が支離滅裂になっているのは自覚していた。
 上手く言葉にできないとしても、とにかく何か言葉にしなければならない。この時の千佳を突き動かしていたのは、そうした感情だ。

 隆にとって、今の秋川家は居心地の良い場所では無くなってしまった。家に居るだけで周囲に陰口を叩かれ、妻や子はいわれの無いいじめを受けている。
 繊細な隆がそのことに気付かなかったはずがないのだ。

 いつか聞いた少年時代のことを思い出す。息を潜め、自分の本心を隠して生きていたという日々。
 今の生活を隆が窮屈に感じているならば、次に隆が出て行ったら、もう二度とここには帰ってこないのではないかと思った。
 兵学校に入学して京都の実家を飛び出した、あの時と同じように……。

 帰って来て欲しい。ここに戻って来ると言って欲しい。

 だが千佳が期待した言葉が隆の口から出ることはなく、隆は少し困った顔で笑うだけだった。

「ありがとう」

 それだけ言い残すと、隆は再び野良仕事へと出て行った。

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