もどろきさん

藤瀬 慶久

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第24話 日中全面衝突

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 日中の緊張の高まりは、昭和十二年の七月に至ってついに臨界に達した。盧溝橋事件を皮切りに郎坊事件、広安門事件が相次いで勃発。華北において日中両軍は本格的な戦争状態に入った。
 華北の事変に呼応して上海でも日中両軍の緊張が高まり、八月十三日に至ってついに中国軍が日本軍に向かって砲撃を開始。日本海軍の上海特別陸戦隊はこれに応戦する。
 第二次上海事変と呼ばれたこの事変は、七月の北支事変と合わせて『支那事変』へと戦火を拡大していく。

 お互いに宣戦布告こそ出さなかったが、これが事実上『日中戦争』の幕開けとなった。

 上海に対する中国軍の攻撃に対し、隆の乗船する駆逐艦『栃』にも防衛の為の陸戦命令が下った。
 とはいえ、艦長を陸戦に出すわけにはいかない。二等駆逐艦程度の乗員では海兵を率いる専任の分隊指揮官も居ない。そのため、栃から出す陸戦隊は隆が率いることになった。
 栃から上海防衛に回った陸戦隊は、隆を含めてほんの十人だ。

 隆は上陸すると、空を見上げた。
 どんよりとした雲の下、生暖かい風が吹いて来る。嵐の前触れだ。

「台風が来るな」

 隆がポツリと呟くと、栃の陸戦隊員に緊張が走る。
 今上海に駐屯する陸戦隊は五千人に満たず、対する中華民国軍は前線に展開するだけでおよそ二万人。後詰の軍団を含めれば、中華民国軍の総数は二十万とも三十万とも言われている。この上、日本本土からの援軍の到着が遅れれば、陸戦隊は為すすべなく揉み潰されることになる。
 隊員たちが不安になるのも無理は無かった。

 その時、隆の耳に航空機の轟音が耳に届いた。
 日本の艦艇を狙った中華民国の空軍による爆撃だ。

「伏せろ!」

 全員が咄嗟に頭を下げる。
 幸い民国軍の爆弾は大きく目標を外れ、海上に落下した。即座に立ち上がった隆は、陸戦隊の面々に声をかけた。

「ともかく、味方の陣地に合流する! 各員、遅れるな!」

 そう言うと隆は駆け、隊員がそれに続く。一団が黄浦江に差し掛かった時、再び民国軍の爆撃が起こった。

「伏せろ!」

 隆の耳に爆弾が投下された唸り声が響く。さっきよりも近い。隆たちが伏せていると、爆弾はやがて共同租界目掛けて落下した。轟音と共に人々の絶叫がこだまする。
 隊員の一人が驚いたように声を上げた。

「馬鹿な! 支那は欧米に攻撃を仕掛けるつもりか!?」
「いや、恐らく誤爆だ」
「支那人が間違って爆弾を落としたというのですか!?」
「追加の爆撃が来ない。支那が本気で欧米とケンカするつもりなら、次々に爆弾の雨を降らせるはずだ」

 隆の言う通り、共同租界に落ちた爆弾は一発だけで追加の爆撃が行われている様子はない。
 だが、ほんの目と鼻の先には悲鳴を上げるアメリカ人やイギリス人の姿が目に入った。阿鼻叫喚とはこのことだ。

 隆の脳裏に第一次上海事変での出来事が浮かんだ。
 当時、隆は民間人をスパイと信じて撃ち殺した。その罪悪感は今も胸に残っている。軍人は民間人を守るべき存在であり、そこに国籍など関係ない。
 そう思った時、隆は既に駆けだしていた。

「彼らを救助するぞ!」
「副長! 本気ですか! 奴らは米英の――」
「戦場で民間人を守るのは軍人の役目だ! 日本も米英も関係ない!」

 そう言い捨てた隆は、今まさに黄浦江に飛び込もうとしているイギリス人女性を抱きかかえて建物の影に引っ張り込んだ。
 燃えた衣服に自分の手拭いを叩きつけ、衣服についた火を消す。

「大丈夫だ! 落ち着いて!」

 悲鳴を上げる女性をそう言って落ち着かせると、部下達にも被害者を連れて来させた。

「誰か! 医者を探してくれ!」

 隆がそう叫ぶと、隊員の一人がすっ飛んで行って共同租界から逃げ出そうとしている人たちに大声で呼ばわった。元より英語を話せない隊員には日本語で呼びかける他無いが、幸いにも日本語を理解できるアメリカ人医師がその一団に混じっていた。

 十数人が苦しむ最中、駆け付けた医師は一瞬の躊躇の後に彼らの衣服をハサミで切り開いた。手提げかばんから消毒液や包帯、ガーゼを取り出し、手近な者から手当てを始めていく。
 ちょうどそこへ、隆が追加の怪我人を連れて来た。

「あんたは医者か!?」

 隆が英語で叫ぶ。兵学校では外国語教育も行っており、実際に外国で生活することもある。そうしたことから、隆も日常会話程度の英語を扱うことはできた。
 流暢な英語が聞こえたことで、医師の方も英語で返答してきた。

「ブライアン! アメリカ人だ!」
「分かった! 怪我人の手当ては任せる! 我々は怪我人を運んでくる!」
「引き受けた!」

 それだけの簡単な意思疎通を済ませると、隆は立ち上がって隊員に指示を出し始めた。
 隆が四度目に怪我人を連れて来た時、租界から逃げて来た人達も続々と怪我人を運び入れ、ブライアン医師の手伝いに入っているのが目に入った。
 もはや隆たちが手伝う必要はなさそうだ。

 怪我人の手当てをしていたブライアン医師に隆が怒鳴った。

「我々は敵を食い止めに行く! ここも危険だ! 怪我人が落ち着いたらもう少し後方へ下がってくれ!」
「分かった!」

 陸戦陣地に合流するため、隊員の点呼を始めた隆にブライアン医師が再び怒鳴った。

「あんたの名前は!?」
「秋川隆! 日本の軍人だ!」
「タカシ・アキカワ。彼らを助けてくれて、感謝する」

 隆は一つ頷くと、隊員を率いて再び走り出した。



 日本陣地に到着した隆達は、そのまま陣地防衛に参加した。
 土嚢を積んだ掩体は長く伸び、その内側で高射砲や速射砲などの重火器が防戦に当たっている。
 隆が上海の戦陣に加わってから既に丸一日が経った。日本軍も寡兵で踏ん張っているものの兵数の差は如何ともしがたく、中華民国軍は上海特別陸戦隊の本部正面にまで迫っていた。

 重火器を起点に市街戦を展開して日本軍もギリギリ踏ん張っているが、それにも限界がある。何よりも、敵の爆撃を止めなければどうしようもない。
 高射砲で威嚇してはいるものの、現状では有効打になっているとはとても言えない。
 何とかしなければと心だけが焦った。

 その時、隆の耳に再び航空機の轟音が飛び込んで来た。
 咄嗟に空を見上げると、そこには戦闘機と爆撃機が編隊を組んで飛行している姿が目に入った。
 胴体には、日の丸が描かれている

「味方の航空戦隊だ!」

 隆の言葉にその一帯の日本兵が歓声を上げる。
 日本の航空戦隊は空を飛び回る中華民国空軍を蹴散らすと、敵の陣地に向かって次々に爆弾を落とし始めた。
 よく訓練された正確な爆撃は次々に敵軍の拠点に命中し、その度に日本軍の士気があがる。
 隆も心を励まして小銃を構え、銃剣突撃の指揮を執った。

 やがて一週間が過ぎると日本本土からの増援軍が上海北部沿岸に上陸し、上海特別陸戦隊の本部正面まで押し込んでいた敵軍を蹴散らし始めた。
 だが、日本の反撃もそこまでであり、各地で攻勢に出つつも上海の戦況を覆すまでには至らない。一方で華北の日本陸軍が大攻勢に出たことで中華民国軍も兵を振り分ける必要に迫られた。

 お互いに局所戦を展開しつつ、上海の戦線は少しづつ膠着の度を増し始める。だが、現場で戦う陸戦隊にすれば毎日が死と隣り合わせなのは変わらなかった。

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