もどろきさん

藤瀬 慶久

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第10話 憧れのパリ

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 昨年開業したばかりの神戸駅は、明治初期に開業した初代から数えて三代目の駅舎になる。真新しい赤レンガ造りの壁がどこか日本離れした風景を作り出し、港町の明るい日差しも相まって異国情緒に溢れていた。
 駅前には明るい色のワンピースや可愛らしいフリルの付いたブラウスを着て歩く若い女性達が目に付く。そんな中で、千佳の袴姿はいかにも野暮ったく、古臭いと感じてしまう。
 目に映るこれが都会のファッションなのだと思うと、何となく居たたまれない気持ちになった。

 千佳から見れば本堅田の駅前も充分な都会だったが、その本堅田駅ですら神戸駅と比べれば滋賀県の片田舎に過ぎないと痛感する。それほどに神戸という町はお洒落で垢ぬけた雰囲気に満ち満ちていた。

 千佳が落ち着きなくソワソワしていると、港の方から神戸駅に向かって真っすぐに歩いて来る隆の姿が目に入った。
 隆は以前に見た黒の軍服では無く、白の夏服を着用していた。肩に縫い付けた階級章の金糸が陽光を受けてキラリと輝き、汚れ一つ無い真っ白な軍服は、港町神戸によく映えた。
 駅に近付くにつれて隆がキョロキョロと辺りを見回す。千佳の周囲に居た女性達も思わず足を止めてその姿に魅入り、頬に手を当ててため息を漏らしていた。

 千佳は隆に向かって手を振ろうとしたが、途中で手を止めた。

「ね、誰かしら?」
「さあ……でも、素敵な方ね」

 そう言ってヒソヒソと囁く声が千佳の耳にまで届いたからだ。以前に感じた優越感と劣等感の入り混じった感情が蘇って来る。

 ――こんな田舎臭い女がお相手だと思われたら迷惑かな。

 母に借りた袴は上等な物ではあったが、今の千佳の年齢では地味で野暮ったい印象を与えてしまう。電車に乗っている間は特に何も思わなかったが、神戸駅にり立った千佳は周囲の涼やかで可愛らしい女性達を目の当たりにして萎縮してしまっていた。

 千佳が上げかけた手をおずおずと下ろすと、その姿が逆に目を引いたのか、隆の方も千佳を見つけて手を振って来た。

 千佳の隣にいた女性は自分に向かって手を振ったと思ったのか、口元に手をやって頬を紅潮させている。近付いて来る隆の姿に女性は見る見る顔を赤らめたが、隆がその女性の横を通り過ぎて千佳の前に立つと、今度は羞恥で顔を赤くした。

「お待たせしました。船の到着が遅れてしまい、申し訳ない。暑かったでしょう」

 隆はそう言って千佳を気遣ってくれたが、千佳の方は先ほどの女性が気になって仕方がない。隆に無視された女性は、羞恥と怒りで千佳の顔をキッと睨みつけていた。口には出さねど、その顔には「この田舎娘が」と書いてある。

「千佳さん?」
「あ、はい」

 隆の声に我に返った千佳は、女性から視線を外して隆の顔を見る。だが、視界の端では先ほどの女性の姿を追っていた。

「一体どうしたんです?」

 千佳の視線が後ろの女性に注がれていることにようやく気付いた隆は、前触れ無しに突然振り返った。先ほどの女性はもう背を向けて歩きだしていたが、しばし女性の後姿を見つめていた隆は、やがて千佳の方に向き直るとニッコリと笑った。

「千佳さん。観劇の前に大丸へ行きましょうか」

 大丸百貨店は元々京都の呉服商『大文字屋』から発展した百貨店であり、それだけに服飾の品ぞろえが豊富だった。ちなみに、大文字屋は丸の中に『大』の一文字をあしらった屋号を使用したために『大丸屋』と呼ばれるようになったことから、この時には『株式会社大丸』という社名を使用していた。

 大丸の店頭には舶来の化粧品や宝飾品が並び、艶《あで》やかな婚礼衣装を展示しているスペースもあった。文化の粋を集めたような売り場は華やかだったが、その分値札には千佳が仰天するほどの値が付けられている。

 隆は戸惑う千佳の手を引いて店内を進み、婦人服売り場へと向かった。売り場には先ほどの女性達が着ていたような涼やかなワンピースがいくつも並べられている。

「せっかくだから、夏服を買いましょう」

 どうやら、隆は千佳が先ほどの女性の服をうらやましそうに見ていたと勘違いしたようで、千佳にもああいった服を買ってやろうと思ってくれたようだ。
 千佳は隆の勘違いに気付いたが、それを否定すれば隆が先ほどの女性に恥をかかせたことも話さねばならなくなる。もとより隆には何の責任も無い話だが、それでも千佳はそれを隆に告げることに抵抗があった。
 女心とはそうした難しさがあるものだ。

 結局、隆に勧められるままに花柄のワンピースを買ってもらった。千佳はデザインよりも値札が気になり、出来るだけ高くない物を選んだが、それでも千佳の小麦色の肌にヒマワリの柄をあしらったワンピースは良く似合った。

 神戸駅の近くに宿を取ると、千佳は早速買ってもらったワンピースに着替えた。妙な成り行きで買ってもらった物だが、それでも隆から初めてもらったプレゼントだと思うと気持ちが浮き立った。この服を着て隆と神戸の町を歩けると思うだけでさっきまでの気恥ずかしさはどこかへ吹き飛び、まるで銀幕の中の女優のような気分になった。

「よく似合ってますよ」

 隆にそう言われると千佳も満更では無く、宝塚に向かう間は堂々と隆の隣を歩いた。道行く人からはやはり隆はよく振り向かれたが、隣に立つ自分も決して田舎臭い女ではないはずだと自信を持てた。
 服一つでこれだけ気持ちが変わるのだから、女とは単純なものだとも思う。それでも、嬉しい物は嬉しい。
 女心とは、そうした単純さも持ち合わせているものだ。

 宝塚劇場ではちょうど白井鐵造の演出による『ローズ・パリ』の初演が行われていた。白井鐵造はレヴューの王様と謳われたレヴュー演劇の第一人者で、千佳がラジオにかじりついて聞いた『モン・パリ』の振付も担当していた。その他にも『おお宝塚』や『すみれの花咲く頃』といった宝塚歌劇を代表する音楽も作曲している。

 その白井鐵造の新作とあって、劇場は立ち見席も満員になるほどの大盛況だった。千佳も隆と共に立ち見席で見ていたが、周囲の人ごみに押されて自然と隆と寄り添う体勢になった。隣の人に押されて隆に体を寄せると、隆の手が千佳の肩に回り、周囲から守るように抱きかかえてくれた。さすがに千佳も恥ずかしいと思ったが、周囲は人の壁でとても隆から離れることができない。

「すみません。思った以上に混雑していましたね」

 隆はそう言って詫びたが、千佳はむしろそれだけ人気のある演目に連れて来てくれたことに感謝した。
 公演が始まると、千佳はその迫力に圧倒された。

 舞台上では華やかな衣装に身を包んだ少女たちが優雅に踊り、オーケストラの生演奏に合わせて見事な歌声を披露している。背景にはパリの町並みを模した大道具が用いられ、知らず知らずの内に舞台の中の世界に引き込まれた。

 特にこの『ローズ・パリ』は、白井の発案で『銀橋』という舞台装置が用いられた初めての演目だった。通常の演劇では舞台と客席の間にオーケストラピットがあるが、銀橋はそのオーケストラピットの前までせり出した特殊な構造の舞台であり、演者はその銀橋まで出て来て演じる。そのため、誇張では無く本当に目の前で演じているような迫力がある。

 すり切れたレコードを聴きながら頭の中で何度も思い描いてきたパリは、まさに今、千佳の目の前にあった。
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