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第9話 手紙を待つ人
しおりを挟む本堅田駅で隆を見送ってから数日が経ち、千佳は相変わらずのもんぺ姿で家事に野良仕事に精を出していた。結婚したとはいえ、千佳の暮らしはほとんど変わらない。婿取りで生家にそのまま留まるのだから、変わる方がおかしい。
だが、一点だけ今までと明確に違った物があった。
洗濯物を干しながら、千佳の目は自然と家の前の道に向く。道と言っても舗装のされていない田舎道だが、今にも郵便の自転車がその田舎道を走って手紙を届けに来るのではないかと気が気ではない。
何か一つ動作を終える度にチラチラと郵便局のある方に目を向ける。そして、期待した郵便屋さんが見えないと勝手にがっかりしてため息を吐く。ここ数日はその繰り返しだった。
――馬鹿みたいだ
自分でもそう思わずには居られないが、抑えようとしても抑えきれないのだから仕方がない。昨日郵便屋さんが届けてきた手紙は、大阪に出て商売をしている親戚から父に宛てた物だった。
期待に胸を膨らませながら手紙を受け取った千佳は、差出人と宛名を見てつい落胆の表情を面に出してしまう。真面目に仕事に励んでいるだけなのに勝手に期待されて勝手に落胆されてしまう郵便屋さんこそいい迷惑だった。
今にして思い返せば、あの数日はまるで夢のようだったと思う。千佳に触れた隆の手の感触がまだ背中に残り、隆の腕にぎゅっと抱きしめられている妄想をしてついつい頬がにやけてしまう。傍から見れば立派な不審者だ。
「何をニヤニヤと笑っとるんだ」
父の新次郎からはそう言って気味悪がられたが、それくらいで抑えられるような物でもない。洗濯をしてはニヤけ、食事をしながらニヤけ、風呂に入ってはニヤけてを繰り返す。まるで壊れた玩具のようだった。
ここ数日で千佳が一番熱心に手伝ったのはスイカの世話だ。夏に帰って来た隆にとびきりおいしいスイカを食べさせてあげたい。不思議なもので、そう思って世話をしていると嫌だった畑仕事も楽しくてたまらない物に感じる。もはや重症としか言いようが無かった。
そしてさらに数日後、とうとう待望の手紙が届いた。宛名には整った字で「秋川千佳様」と書かれてある。汚い破れ方をしないように丁寧に封書を開け、中の手紙を取り出して食い入るように読んだ。
手紙には突然の訪問を改めて詫び、これから上海へ向かうと記してあった。軍事機密ゆえか、何のために上海へ行くのかは一言も書かれていない。
――上海かぁ。どんな所だろう。
千佳は気になって新次郎に聞くが、新次郎も行ったことが無いために具体的な話は出来ない。やむを得ず新聞を読むが、記事には金解禁だとか不景気を徹底させよなどと言った難しい言葉が並んでいて千佳には何のことかさっぱり分からない。
「困ったモンや。今年は米の値が上がるとええけどな」
同じく新聞を読んだ父はそう言ってため息をついている。
恐慌とは強度のデフレ不況であり、物価は大きく下落する傾向が強い。昭和恐慌においても物価が大きく下落したため、サラリーマンの中には生活がしやすくなったと歓迎する者も居た。
だが、それは同時に企業の体力を奪い、倒産が相次ぐ結果を招き、結局は安穏と物価安を楽しんでいたサラリーマンにも失業という強烈なしっぺ返しをもたらした。
秋川家は米作農家であり、基本的には米が高く売れれば生活が豊かになる。だが、昨年の米価は一昨年の六割ほどだった。つまり、秋川家では収入の四割が減ったということだ。
今のところ蓄えた金で収入の不足分を賄えているし、今年の米も生育状況は決して悪くない。だが、このまま米価が低迷し続ければいずれは先行きが苦しくなる。新次郎が新聞を見てため息を吐くのは、そうした理由だった。
だが、千佳が目を惹かれたのは新聞の広告欄だ。舶来品の白玉石鹸の広告には、色鮮やかなチャイナドレスに身を包んだ美しい女性達のイラストが添えられている。大胆なスリットで足を露わにしたチャイナドレス姿の女性は蠱惑的な雰囲気で、まるで大陸の踊り子のようだ。
――こんな所なんだ
千佳にとって、隆が任務で赴いた上海のイメージはチャイナドレスのイメージになった。真面目な隆のことだから忠実に任務をこなしていくだろうが、町を歩けばこうした魅力的な女性達が目に入ることもあるだろう。
堅田駅ですらもあれだけ人の噂になったのだ。きっと上海でも多くの女性達が色目を使って来るに違いない。
一瞬、千佳の脳裏に見知らぬチャイナドレス美人と楽し気に町を歩く隆の姿がよぎった。ブンブンと首を振ってその想像を否定し、改めて隆が帰って来た時のことに思いを馳せる。そして、一日も早く帰って来てくれるようにと、もどろき神社へ足繁く通うのだった。
入道雲の広がる青空の下、千佳は大きな籠を背負ってスイカ畑へ赴いた。もうだいぶ実が大きくなっていて、充分に食べごろと言っていい。だが、そのスイカを食べさせたい相手はまだ上海の空の下だ。
――早く帰って来んと、傷んでしまいますよーだ
少し意地悪い気持ちになって心の中で舌を出した。今週には帰国する予定になっていたはずだが、今に至るもまだ隆からの連絡は無い。食べごろを外せば、スイカはすが入って美味しくなくなる。モタモタしていると一番おいしい状態を逃してしまう。
これまで丹精込めて育てて来たスイカだからこそ、隆には一番おいしいスイカを食べて欲しかった。
一つため息を吐くと、千佳はしゃがんで雑草取りを始めた。ここまで育ってくると多少雑草が生えたところで収穫に大した差は無いのだが、何かしていなければ落ち着かない気持ちになってついつい草を引き抜く。一通りスイカ畑の世話を終えると、実っていたトウモロコシやトマト、キュウリ、ナスなどを収穫した。
秋川家は基本的に米作農家として生計を立てているが、こうした季節の野菜を青果店に卸すこともある。特に米の収入が減った今では、毎日のように収穫した野菜を堅田まで持ち下っていた。
日差しは暑く、すぐに玉のような汗が額に浮かぶ。だが、明日の売り物を今日中に収穫してしまわなければならない。収穫した野菜を洗って籠に入れ、いつでも大八車に乗せられるように準備を済ませておく。
いつもならば父や母と一緒にやる仕事だが、あいにく今は父も母も野菜を売りに出ている。家での仕事は千佳が済まさねばならなかった。
いつの間にか千佳も無心になって農作業に没頭していた。背中の籠が一杯になると、家に戻っていくつかの籠に分け、小川に行って綺麗に洗った。
たちまちのうちに大きな野菜籠が玄関にいくつも並び、広々としていた空間が手狭になる。千佳が一息ついた頃には、既に日は夕暮れに近くなっていた。
「おおーい」
遠くで父の声がした。玄関を開けると、遠くから汗だくで大八車を引いて来る父の姿が見える。千佳も思わず手を振った。
「おかえりー!」
「手紙が来とったぞー!」
手紙と聞いて千佳はすぐに駆けだした。何故父が手紙を持っているのかなど疑問はあったが、この際どうでもいい。差出人の心当たりは一人しかいない。
「ほれ、隆さんから――」
父の言葉が終わらないうちに手紙をひったくると、走って来た時と同じ速さで千佳は家まで駆け戻った。一刻も早く手紙を開封したいという一念だ。
家に戻ると、仏間に入って封を開いた。中から手紙と共に鉄道の切符が転がり出てくる。本堅田駅から大津駅を経由して神戸までの切符だ。
添えられていた手紙を読み、そこに書かれた内容を見て千佳は仰天した。
『来週には半舷上陸が許可されます。最近話題の宝塚少女歌劇という物を一緒に観に行きませんか? 汽車の切符を同封しますので、神戸駅で落ち合いましょう』
その後ろに待ち合わせの日時が書かれていた。半舷上陸ならば今回もこちらに居られるのは三日ほどだから、現地で待ち合わせようということらしい。
世間知らずの千佳でも宝塚少女歌劇の『モン・パリ』は知っていた。二年前に発表された『モン・パリ』は空前の大ヒットを記録し、ラジオで聞かない日は無いほどだった。千佳もまだ見ぬパリの景色を想像しながらラジオにかじりついて聞いたものだ。まさかその宝塚少女歌劇をこの目で見ることができるとは。
先ほどまでの不機嫌はたちまちに吹き飛び、それから約束の日までの間、千佳の頭は隆と歩く神戸の町並みで一杯になった。
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