近江の轍

藤瀬 慶久

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十一代 甚五郎の章

第90話 青年実業家

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 1885年(明治十八年) 三月  滋賀県坂田郡 丹生村



 西川貞二郎は丹生にう村の渓谷の中に立っていた。
 目の前には川からの流れを引きこんだ池が広がり、水の出入り口には網が張られている。

 貞二郎は池の縁にしゃがみ込んで水面を覗いた。
 水の中では黒い影が素早く動き、時たま太陽の光を反射してキラキラと光る。清流の流れる音と相まって、いつまでも眺めていたくなるような安らぎを感じた。

「美しいでしょう」
「ええ、とても。これを一つの産業にしようというのだから、中井さんも面白い事を考えますね」

 ニコニコと声をかけて来た滋賀県勧業課の職員の言葉に貞二郎も頷いて笑った。
 今回貞二郎は滋賀県知事の中井弘から声をかけられ、丹生養魚場の払い下げを受けていた。


 古くから琵琶湖の水産物を主な産物の一つとしてきた滋賀県だが、明治に入ってフランスでのサケ・マスの人工ふ化の研究成果を輸入し、明治十二年から琵琶湖のマスを丹生養魚場で養殖する事業を興していた。
 ある程度安定して養殖が可能となった事で、県知事の中井弘は本格的に滋賀県の産物として養魚場を払い下げる事を決定し、旧知の間柄だった西川貞二郎にまず打診していた。

 職員がたも網を水中に差し入れると、五~六匹のマスが網にすくわれてピチピチと動いている。

「折角ですから、塩焼きでも召し上がりませんか」
 職員の言葉に貞二郎も満面の笑顔になり、炭火で焼いたマスを三匹も平らげた。


 貞二郎は丹生養魚場を買い取ると、渓谷に橋を架け、馬車道を整備して国鉄東海道本線の米原駅までの輸送路を確保した。
 さらに十八個の養魚池を増設し、新型の人工ふ化器を導入して事業体を強化していく。
 後に醒ケ井さめがい養魚場と改名された丹生養魚場の養殖魚は、内国博覧会で二等の評価を受け、宮内省大膳係から御用達の命を受けるまでになる。



 1885年(明治十八年) 五月  滋賀県蒲生郡八幡町



 西川貞二郎は西川甚五郎と共に八幡銀行の役員室で話し込んでいた。
 いつものように貞二郎は楽しそうに話し、甚五郎は渋面を作って聞いている。

「…ですから、せっかく丹生の養魚場もある事ですしここでもう一つ輸出用の産業を興すのも楽しいと思いませんか?」
「しかしだな… 缶詰など八幡町でも誰もやったことがない。訳の分からんものに手を出して損失を出せば、八幡銀行にも傷が残るぞ」
「かぁ~相変わらず頭が固いなぁ、甚五郎さんは。誰もやったことがないからこそ、やる価値があるんじゃないですか」
「それで失敗したらどうすると言ってるんだ。新しい事を始める事に反対はせんが、最悪の場合を想定して動かないと痛い目を見ると言っているんだよ」
「そんな事言っていたら何もできないじゃないですか」

 喧々諤々けんけんがくがくの議論をする二人の前には滋賀県勧業課から出された缶詰工場新設を奨励する文書が所在なげに置かれていた。
 テーブルの上には行員が出してくれたお茶も置かれていたが、蓋を閉じたままで既にだいぶ温くなってしまっている。

「缶詰事業なんて面白そうじゃないですか。滋賀県には魚だけじゃなく山の幸もあるし、西宿村では昔から肉牛の飼育も盛んです。
 牛肉の煮付けとか魚の煮付けとかを缶詰にすれば、きっと海外でも高い評価を受けますよ」
「だから、それそのものに反対しているわけじゃない。今この時にどれだけのカネを突っ込むのかと聞いているんだよ。来年には中一商会の立ち上げも迫っている。肥料に十万円、缶詰に十万円、一体どれだけ投資すれば気が済むんだ。
 缶詰は再来年以降に回してもいいんじゃないのか?」

 話は平行線を辿りそうな気配だったが、二人共一歩も譲らない姿勢を見せて議論を進める。
 やがて一息ついた貞二郎が温くなったお茶を一口すすると、つられて甚五郎も湯飲みを口に運んだ。

 甚五郎はあまりに必死に話している自分達二人になんだかおかしくなり、不意にふっと笑う。
 釣られて貞二郎も笑うと、やがて二人は一緒に声を上げて笑い出した。

「まあ、中井さんの言う事もわかる。缶詰事業は貞二郎の好きなようにすればいい」
「本当ですか!」
「ああ。だが、本当にここまでだからな。次に事業を興したいと言っても来年以降に回す事だ。わかったな」
「わかりました!賛同してくれてありがとうございます!」

 甚五郎は一つため息を吐くと、勧業課からの文書の横に添えられていた融資承認の書類に判を付いた。
 缶詰事業は貞二郎の西川傳右衛門家の資産を主に充てるが、八幡銀行からの融資金も初期投資の一部に充てる計画だった。
 取締役の甚五郎の同意を得た事で八幡銀行の稟議決裁は完了し、晴れて八幡缶詰工場が動き出す。

 翌明治十九年に八幡町の魚屋町うわいまちに工場を建設し、蒸気機関を据え付けて最新式の製缶機械を輸入し、缶詰事業をスタートさせた。
 工場の責任者には丹生養魚場主任の山本訓春を任命した。

 この当時米の値段が一升七~八銭に対して缶詰は一個二十銭以上もする高級品で、海外輸出の他は軍用の配給食料として陸軍省・海軍省が主な出荷先だった。
 庶民にはまだまだ缶詰は普及せず、八幡町の缶詰工場も主に海外輸出用に生産されるものだった。


 また、同じ明治十九年に貞二郎は中一商会を設立する。
 これは滋賀県知事の中井弘の要請を受けた農業用肥料を扱う為の商社だった。

 明治になって株仲間が解散されたことに伴い、農業用肥料も品質の粗悪な物が出回るようになってきた。また、肥料生産自体も供給不足の状態になりつつあり、粗悪品であってもやむを得ず肥料を買い求める農家も多かった。
 県内の農業生産力の落ち込みを危惧した中井弘は、古くから北海道開発に従事してニシン粕の生産を行っている住吉屋に目を付けた。

 自由競争の世の中になったとはいえ、江戸時代の商慣習はまだ生きており。住吉屋も北海道で生産した肥料を一旦は敦賀の肥料問屋に卸す事を常としていた。だが、上質な肥料を県内に安定して届けるために中一商会は独自の物流で北海道産のニシン粕を直接滋賀県内の肥料商に販売し始めた。
 これによって県内の農業生産、特に商品作物の栽培を促進し、生糸や綿などの繊維業を特産品の一つに加えようという試みだった。



 1886年(明治十九年) 八月  広島県広島町大道町



 西川甚五郎は猛暑の日差しの中を和服に帽子姿で歩いていた。
 広島には陸軍鎮台があり、道行く人達も軍服を着た逞しい男達が目に付く。噴き出した汗を手ぬぐいで拭いながら、目的の店まで向かっていた。
 山陽鉄道が広島まで延長されるのは三年後の明治二十一年の事だ。そのため、甚五郎は神戸から船に乗って宇品港に渡り、そこから大道町まで歩いて来ていた。

 目的の店に着くと、甚五郎は暖簾をくぐって中に声を掛ける。
「ごめんよ。和久君はいるかい?」
「ああ、店主。お待ちしておりました」

 店内の役職者らしき者が甚五郎の前まで来て腰を折る。西川商店では今年新たに広島に支店を出しており、挨拶に出て来た米田和久は新たに任じた広島支店の支配人だった。

「開店から二カ月ほどたったが、状況はどうかな?」
「まだまだ始めたばかりですので仕入れも販売も順調とは言えません。その代り遣り甲斐がありますよ」
 そういって和久は溌溂と笑った。

 店先の接客用スペースで話し込んでいると、女中がお茶を出してくれた。
 この暑いのに水ではなくお茶かと一瞬落胆した甚五郎だったが、出されたほうじ茶はほどよい温さで、しかも熱い日に飲むほうじ茶は香ばしく、喉の奥に爽やかな苦みを残していった。


 貞二郎に触発されたという訳でもないが、甚五郎の西川商店でもこの頃から積極的に山陽・九州方面に出店を行った。
 この年に広島支店を出すと、翌明治二十年には大分の臼杵に支店を出した。
 江戸時代以来商売を続けていた卸問屋達も松方デフレによる不況で多くが店じまいをしており、西川商店では九州産や備後産の畳表の買付に支障をきたしていた。

 松方正義の緊縮財政によって不換紙幣の回収はほぼ目途が付き、一時期紙幣発行額の8%程度だった日本の正金準備高も前年の明治十八年には40%にまで回復した。
 それを受けて、松方は日本国の正式な兌換紙幣である『日本銀行券』の発行を始め、緊縮財政に終わりを告げていた。
 明治維新以来の日本の財政的混乱に終止符を打ち、新たな統一国家日本としての正統な金融政策がようやく始まったのだった。


「この辺はやはり軍人さんが多いな。軍人さん向けの商売は何か考えているのか?」
「相手が軍人さんであろうと百姓であろうと、我らのすることは変わりません。地道に蚊帳と畳表を売って行くだけですよ」
「そうだな…」

 確かにそれがまずは第一だと甚五郎も思った。
 明治維新以来の混乱期やデフレ不況をなんとか乗り切れたのは、冒険をせずに堅実一手の商売を心がけて来たからだ。
 海外市場に積極的に乗り出す事もせず、ただひたすら祖業を守り抜く事を専一に行った。

 そのおかげで世間ではバタバタと倒産していく商店が多い中、西川商店は支店一つ閉める事無く現在まで経営を続けている。
 だが、貞二郎にはああ言ったものの、西川商店も新しい事業を興す必要があるのではないかという疑問はこの頃ようやく甚五郎の中の大きな部分を占めるようになってきていた。

 ―――多少の冒険は必要だ。だが、金になればなんでもいいというものでもない

 甚五郎の理想は商店が儲かると同時に人々も豊かになる商いだ。

『誠実』『親切』『共栄』という西川商店の店是は伊達や酔狂で掲げているわけではない。
 世間や従業員らと共に栄える事が出来ない商売では拡大する意味がないと思っていた。
 広島や臼杵で新たな商売の種が見つかる事を甚五郎は密かに期待していた。


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