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十一代 甚五郎の章
第88話 真の維新
しおりを挟む1881年(明治十四年) 六月 滋賀県滋賀郡大津町 日本国有鉄道 大津駅
「すごいすごい!本当に大津まで汽車が走るようになったんですね!」
西川貞二郎は黒煙を上げる汽車を前に子供のように興奮していた。傍らでは西川甚五郎がやれやれという顔で呆れている。
この前年、明治十三年の七月に神戸―京都間を走っていた国有鉄道が大津まで延伸されていた。開業当初の国鉄大津駅は大津港の目の前にあり、現在の京阪電鉄浜大津駅の場所にあった。
貞二郎達は八幡から船で大津に出て、大津から神戸まで汽車に乗り、神戸から横浜まで汽船に乗って横浜から東京まで再び汽車で移動する手はずになっている。
現代に比べて乗り継ぎなどの手間はまだまだ多いが、それでも基本的に歩き旅だった江戸時代に比べれば格段に移動がしやすくなっていた。
汽車に乗り込むと、貞二郎はニコニコしながら包みを取り出した。
笹の葉の包みを開くと中には大きな握り飯が二つ入っており、漬物が添えられている。
「いつのまにそんな物買ったんだ…」
甚五郎は相変わらずの呑気さに呆れた。
「さっきそこで近所の人が売りに来ていたんで。甚五郎さんも一つ食べます?」
「いらん。俺はまだ腹は減っていない」
「相変わらず心配性ですねぇ。伊庭さんも住友に入った事ですし、また三人一緒に商売する事もできるじゃないですか。もっと明るくいきましょ」
甚五郎は貞次郎には答えずに窓の外を見てため息を吐いた。車窓の景色は逢坂山トンネルを抜けて山科の田園風景に変わっている。
西川吉輔の元で貞二郎・甚五郎と一緒に学んだ伊庭貞剛は、京都の刑法官を皮切りに長崎・箱館と裁判官の道を歩み、明治九年からは大阪上等裁判所(今で言う高等裁判所)に勤めていたが、政争を繰り返す官界に嫌気が差して明治十一年に官職を辞した。
その後叔父の広瀬宰平に声をかけられて住友に入社し、五代友厚らと共に大阪商業学校を創立するなど大阪商業の復興を志していた。
伊庭貞剛を住友に誘った広瀬宰平こそ、江戸時代以来の別子銅山を近代化し、住友を一躍明治の大財閥に押し上げた初代総代理人であり、広瀬の跡を継いで二代総代理人となったのが伊庭貞剛その人だった。
後に『三井に三野村利左衛門・益田孝があれば、住友には広瀬宰平・伊庭貞剛がある』と言われるほどの業績をあげる事となる。
―――今度は却下される事はあるまいが、結局無限責任になってしまった…
甚五郎は窓の外をぼんやりと眺めながら銀行について考えを巡らせていた。
貞二郎と甚五郎はこの三日前に大津県庁に出向いている。先だって却下された国立銀行設立願いに代わり、私立銀行の設立願いを提出する為だ。
西川貞二郎を筆頭に、西川甚五郎、森五郎兵衛、市田清兵衛など八幡町の有志十名の共同出資の形を取り、資本金は金十万円を計上した。
八幡町の八幡商人による八幡町民のための銀行
銀行名を『八幡銀行』と名付けた。
この銀行設立願いは明治十四年の十二月に正式に認可される。初代の頭取は西川貞二郎が就任し、甚五郎は取締役となった。
しかし、国立銀行のように株式出資による有限責任会社と違い、出資者による無限責任会社となってしまった。
有限責任とは、例え会社が倒産したとしても株式が紙くずになる以上のリスクを負わない事を言う。
それに対して無限責任の場合は出した損失全てを出資者がかぶる必要があった。
貞二郎は成功すると確信しているようだが、甚五郎は万一の場合を考えぬわけにはいかなかった。
1881年(明治十四年) 八月 東京府伊藤博文私邸
「困った事になったな…」
内務卿として事実上明治政府の実権を握る伊藤博文は、机の上に数部の新聞を並べながら嘆息していた。
新聞紙上には北海道開拓使の黒田清隆が開拓使の設置期限が切れるのに合わせ、五代友厚らに官有物の払い下げを行おうとしていると書かれている。
問題は、その払い下げ価格が安すぎるという事だった。
時代は折しも自由民権運動が過熱し、早晩日本でも憲法を発布して国会を開設すべく政府内で検討を重ねている最中にある。
そんな中で大隈重信を中心とした大蔵省は払い下げ価格が安すぎると公然と批判し、払い下げの中止を主張し始める。政治と金を巡るスキャンダルに日本中が怒りを露わにしていたが、大隈の態度はその尻馬に乗って憲法制定の主導権を握ろうとするパフォーマンスに近かった。
「大隈さんの発言は政府の権威にいたずらに傷を与える物です。このまま放置しては…」
伊藤の正面には井上馨が真剣な顔で向き合っていた。
「わかっている。大隈さんには政治の場から降りてもらうとしよう」
伊藤の目にも静かな怒りが満ちていた。
大隈は憲法制定に当たってイギリス式の立憲君主制を採用すべしと主張していた。一方の井上馨や井上毅、岩倉具視らはドイツ式の君主主義国家を目指すべきと主張していた。
憲法制定に対する議論は中立を貫いていた伊藤だったが、政府の威厳を損ない、いたずらに天皇陛下の権威に傷をつける大隈の行動には激怒していた。
この『明治十四年の政変』によって大隈重信と慶應義塾門下生達は政治の場から退く事になる。
あわせて十月には国会開設の詔勅も発せられ、十年後の明治二十三年を期して国会を召集する事が決定された。
以後、大隈重信や板垣退助たちは自由民権運動の渦中に身を投じ、日本国において『政党』という物が誕生するきっかけとなる。
真の明治維新はこの明治十四年を持って始まるという説もあるほど、この政変は強烈なインパクトを日本に与えた。何よりも近代国家の要件である『憲法』と『国会』というものが具体的に動き出したのがこの年だった。
1882年(明治十五年) 二月 滋賀県滋賀郡大津町
「やあ、すみません。遅くなりました」
北海道の支店の視察を終えて滋賀県に戻った西川貞二郎は、藤田伝三郎に呼び出されて大津町の茶屋に来ていた。
二十五歳になった貞二郎は、青年実業家として堂々たる風格を備えながらも、その言動の端々に初々しい危うさを残している。相対した者はその危うさに思わず頬が綻び、過ぎ去った少年の日を思い出した。
西川貞二郎は男好きのする男だった。
「いやいや、滋賀県に戻った早々申し訳なかったな。ところでその荷は?」
藤田は貞二郎の抱えた木箱に目をやる。貞二郎は一抱えもある大きな木箱を喜色満面で抱えていた。
「これですか。藤田さんに差し上げようと思いまして」
そう言って蓋を取ると、中には立派な塩鮭が藁にくるまれていた。丸々と太っていかにも脂の乗っていそうな旨そうな鮭だ。
「今年住吉屋で獲れた奴の中でも一番の上ものです。旨いですよ~」
そういっていかにも嬉しそうに笑う貞二郎に、知らず藤田の目尻も下がっていた。
「これは旨そうな… そうだ!折角だからここで焼いて食わせてもらおう」
藤田はそう言うと仲居を呼び、貞二郎からもらった鮭を調理してくれるように頼んだ。仲居も立派な鮭に目を白黒させながら板場へ下がって行ったが、しばらくするとおいしそうに湯気を上げる焼鮭と石狩鍋などが整えられた。
「ところで、今日は何の御用ですか?」
藤田と共に鮭料理と酒を堪能した後で、お茶をすすりながら貞二郎が不意に尋ねた。
今まで目尻を下げっぱなしだった藤田も顔つきを改め、おもむろに話だした。
「去年京都府知事に就任された北垣国道さんは知っているか?」
「ええ、名前だけは… 親しくお目に掛かった事はありませんが…」
「実は北垣さんは琵琶湖の水を京都へ引き込む事を計画しておってな。産業の衰えた京都に琵琶湖の水運と水車の力を取り込むことで、京都の産業を興そうとしている」
「へぇ… 素晴らしい考えですね」
良き思案とは思うが、貞次郎にとってはどこか他人事だった。郷里の八幡町や北海道の水運に関わる事ならば興味も湧くが、鉄道も出来た今、京都への海産物の運搬は船と汽車で十分賄える。
「藤田組ではその疎水の工事の受注を狙っていてな。ただ、疎水が出来たとしてもそれだけでは不十分だ。琵琶湖の水運を握ってこそ、疎水の利権が活きて来る」
「……」
退屈な顔をし始めた貞二郎に苦笑しながら、藤田は本題に入った。
「そこで、貞二郎君さえよければ『湖上汽船』を買い取る気はないかと思ってな。もちろん、ウチも出資させてもらう」
「!!」
明治二年以降琵琶湖の水運を担って来た湖上汽船会社も競争の激化とこの頃のデフレ景気で経営に苦しみ、買い取り先を探しているという噂は貞二郎にも聞こえてきていた。
織田信長の昔から、琵琶湖を制する者は近江を制する。
しかし、それよりも何よりも『汽船を自分の物にできる』という事に貞二郎は興奮していた。
初めて北海道に行った時に乗った湖上汽船の興奮は今もなお色あせる事なく貞二郎の心に沁みついている。あの感動を自分が人々に提供できるとなれば、貞二郎ならずとも商売人なら興味を示さずにはいられない。
「まずは琵琶湖の水運を抑え、ゆくゆくは大津から長浜まで鉄道を整備する。滋賀県に物流の拠点を…
聞いているか?」
「ええ!ええ!やりましょう!藤田さん!」
「 …まったく。まあ、貞二郎君ならばそう言うだろうと思ってはいたが…」
藤田はため息を吐きながらも、やると決めたら即決の貞二郎の潔さに感じ入った。
藤田伝三郎は元々高杉晋作に師事して奇兵隊に参加し、山縣有朋や井上馨らと親しく交わった。
維新後は大阪で商社を立ち上げ、西南戦争などの軍事物資の売買で利益を上げるが、貞二郎とはその頃に知り合った。
古くから商売を手掛ける八幡商人達は、同じく伝統ある商人集団である伊勢商人や大阪商人との繋がりも多かった。
藤田伝三郎の興した藤田組は、後に阪堺鉄道(後の南海電鉄)や山陽鉄道、宇治川電気(後の関西電力)北浜銀行(後の三和銀行)などの設立に主導的役割を担い、大阪毎日新聞も創設している。
藤田の創始した藤田財閥は、DOWAホールディングスとして現代まで経営を続けている。
貞二郎と藤田は湖上汽船を買収すると『太湖汽船会社』と命名し、湖上の輸送を一手に引き受ける汽船会社となる。
藤田は政府要人にも顔が利き、その縁で貞二郎を積極的に東京の実業家や政府要人に紹介した。
同年、松方正義によって設立された日本銀行にも貞二郎は出資者として参加した。
日本銀行の中央銀行としての機能を確立し、日清戦争においては財政・金融の維持に尽力し、『日銀の法王』と呼ばれた三代目日銀総裁の川田小一郎とは終生親しく交わった。
後に伊庭貞剛をして『近江商人の典型』と言わしめた偉大な青年実業家が、明治政府や東京の実業界に広く知られる事となった。
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