近江の轍

藤瀬 慶久

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十一代 甚五郎の章

第84話 バンク・オブ・ジャパン

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 1871年(明治四年) 九月  東京府 大久保邸



 三井の大番頭である三野村利左衛門は、大蔵卿を務める大久保利通に招かれて私邸を訪れていた。

「お招きにより参上しました。御用の向きはなんでしょう?」
 和装から洋装に変え、散切り頭に帽子をかぶった三野村は、だいぶ埃にまみれた帽子を脱ぐとペコリと一礼した。
 対面には同じく洋装になった大久保利通と井上馨が座っている。

「ああ、わざわざ来てもらって済まない」

 大久保らも三野村も、洋装ではあってもその衣服はボロボロに擦り切れていた。
 洋服は古着を輸入し、できるだけ質素倹約に勤めている。政府要人と言えども現代からすればみすぼらしい身なりで働いていた。


「実は、新貨条例に合わせて日本でも『バンク』を設立するように井上君から提案があってね。
 カネに関わることなら三井・小野・島田の三組を置いて話は出来ないだろうという事で来てもらった」
「バンク… ですか」
「そう。『銀行』だ」
「銀行…」

 三野村はオウム返しのように言葉を反芻するだけだった。
 バンクというのはフランスに行ったことのある渋沢栄一からその概念を聞かされている。
 両替商のようでありながら両替商とは少し違う。何よりも、店主の自己資金だけではなく複数の資本を合わせて事業を行うという所に西洋式の特徴があった。

 ちなみに、金本位制である日本ではバンクを訳するなら『金行』が相応しいはずだったが、銀は庶民の暮らしに密着している通貨であり、また最初は銀本位制を志して始まった円貨の制度だったために『銀行』という訳が当てられ、それが現在までバンクの日本語訳として定着している。


「ただ、今我々が心配しているのは呉服店の事だ」
 三野村は少し表情を曇らせた。言われるまでも無く三井呉服店は幕末からこちら業績が芳しくない。
 それどころか赤字になる店も少なくなかった。
 輸出品として人気があるのは生糸が圧倒的であり、その次に茶・蚕種・昆布などの海産物と続く。
 当時の輸出品の実に80%が生糸だった。

 必然、呉服の材料である生糸は高騰し、原料高と製品の販売不振は深刻になっていた。


「はっきり言おう。呉服店を分離したまえ。このままでは三井に銀行を任せる事が出来ないと思っている」
「呉服業を… ですか。しかし、我が三井にとって呉服業は家祖高利様以来の大切な産業です。
 業績不振とはいえ切り捨てるわけには…」
「銀行と資本を分ければ良いと渋沢は言っているがね」
 大蔵少輔の井上馨が横から口を挟む。西洋に留学経験のある渋沢は資本の分離と株式会社化というものに造詣が深かった。

「要するに、呉服業は呉服業。銀行業は銀行業と切り分けて運営してもらいたいのだ」
「経営権を手放せというわけではないのですね?」
「ああ。そこは我々も理解しているつもりだ。要するに新たに命じる銀行業務に支障が無いようにしてもらいたい」
「承知しました」

 この大久保からの要請を受けて、三井高利以来の家業である呉服業を分離し、新たに『三越家』という架空の家を作ってそこに呉服店を相続させた。
 後屋を略したものだ。
 これによって以後の三井呉服店は『三越』と改称される事になった。


 翌明治五年八月に『国立銀行条例』が裁可されると、三井組・小野組が共同出資する『三井小野組合銀行』が設立される。
 明治四年の廃藩置県と地租改正によって生じた公金取扱の役目を担わせるための機関だった。
 三井は江戸時代と同じく時の政権の為替御用を務める事で日本国の財政政策と深く関わりを持ち続けた。



 1874年(明治七年) 三月  滋賀県蒲生郡八幡町



 西川貞二郎は松前での修行を順調にこなし、初登として八幡町へ帰ってきた。
「只今戻りました!」
「婿殿。よく戻りました」
 養祖母のいくは厳しい顔つきを崩さずに貞二郎を迎えた。
 十七歳になった貞二郎は、いよいよつやと結婚し、正式に西川傳右衛門家の家督を継ぐ事となっていた。

「北海道の事業はどうでした?」
「芳しくありませんね。まずもって松前から忍路・高島への行き帰りに日にちがかかり過ぎています。
 色々と改善すべきところが見えてきました」
「おやまあ、それは頼もしい」
 いくの表情が初めて緩む。伝統ある住吉屋を継ぐ身として頼もしく思った。

 いくにとっては父祖伝来の松前の事業を継続していく事が肝要であり、その為に貞二郎には厳しく育てたつもりだった。
 事実、衰退していく八幡商人達を尻目に住吉屋は経営を拡大し、多くの両浜組商人が北海道から撤退していく中で未だに漁場を確保しているのは住吉屋と恵比須屋くらいなものだった。

「北の漁場ではロシア船が相変わらずラッコ猟などをしております。我らも遠洋に漕ぎ出せる船を作り、遠くの漁場まで開発できるように励まねばなりません」
「頼もしい事ですね。その調子でしっかりと務めなさい」
「はい」


 この年、貞二郎は住吉屋を相続するが、翌年に生まれた子供は生後二日で亡くなった。
 産後の肥立ちが悪かった妻のつやも、後を追うように十九歳という若さでこの世を去る。
 慌てたいくは明治十年に末の妹のすえを改めて貞二郎に嫁がせた。

 すえはつやと同じく十九歳であり、貞二郎を住吉屋の血縁に繋ぎとめようとするいくの執念によるものだった。
 逆に言えば、まだ年端も行かぬ貞二郎をそこまで見込んでいたという事だろう。


 ―――船か… 日本でも汽船がだいぶ多くなってきたな

 琵琶湖水運の汽船を始め、瀬戸内海を航行する海運業者も続々と汽船を導入し、明治初年のこの頃は海運業が活発化していた。
 大阪においても菱屋・播磨屋・鴻池組・三菱商会などが西洋帆船と汽船を投入して東京―大阪間の航路を次々に開業し、海運業において群雄割拠の様相を呈していた。

 貞二郎は北海道に下った時に乗った汽船を思い出し、いつかは自分も汽船を商売にしたいと考えていた。



 1874年(明治七年) 六月  東京府東京市駿河町 三井組ハウス



「松島。至急香港行きの船便を手配してくれ」
「三野村さん。それはやはり例の国立第一銀行の件で?」
「そうだ。英国東洋銀行(オリンタルバンク)から融資を引き出してくる」

 明治六年 国立銀行条例の発布に伴って三井組は小野組と共に銀行を設立。後に第一国立銀行と改名され、兌換紙幣である日本円札の発行に当たった。
 総監役には井上馨の懐刀だった渋沢栄一が当たり、頭取は三井八郎右衛門と小野善助、支配人には三野村利左衛門が就任した。

 政府はこの十月に三井・小野に対して公金を取り扱う為の抵当物の増額を指示する事になるが、三野村は持ち前の社交術と交渉術によって事前にその動きを察知していた。

「小野組はおそらくこの抵当増額に対応できない。第一国立銀行を三井のものにするチャンスだ」
「しかし、過大な借入は我が三井組にとっても負担になります。それに、東洋銀行からの借入となれば、下手をすれば三井はイギリス資本の傘下に入らざるを得なくなります。危険すぎはしませんか?」
「それを差し引いても余りあるほどの見返りがある。日本の富を生み出すのは我が三井になるのだ。
 日本の富国を支えるのは三井組の使命だと思え」
「……は!至急手配します」


 紙幣の発券銀行として第一国立銀行の国有化を狙う政府にとって、民間資本である三井・小野はこの時期には邪魔になってくる。
 抵当の増額は、明治七年十月二十二日に両組に通達され、同十二月十五日を期限とされた。それによって民間資本を排除しようとする明治政府の策謀だった。
 しかし、三野村はそれを逆手にとって三井組の国立第一銀行独占を狙った。

 重役の松島吉十郎を伴って英国東洋銀行に出向いた三野村は、多額の抵当を設定した上で百万ドルの融資を引き出す事に成功する。
 三野村の商売への嗅覚は人並み外れていた。



 1874年(明治七年) 十二月  東京府東京市駿河町 三井組ハウス



「くそ… どうしても八郎右衛門様の実印が必要だというのに…」
 政府から指示された抵当の増額に当たって、公債で不足する分を東京の地券によって確保する事に成功した三野村だったが、肝心の抵当設定と地券名義の書き換えの為に必要な三井八郎右衛門の実印を手に入れられなかった。
 京都の大元方重役の中井三平が東京に実印を送る事を断固として認めなかった。

「このままでは公金の返済によって、三井組は破綻する」
 公金取扱を下ろされれば、預かった公金を返済しなければならない。一度に多額の現金を支払えばいかな三井とて破綻するしかない。
 日本の富の源泉を自負する三野村にとって、何としても避けたい事だった。

「どうしますか?かくなる上は京都へ参って事情を説明してくるしか…」
「今から行っても期限に間に合わん。京都まで何日かかると思っている」

 三井組重役の平尾賛平が爪を噛む。もはや万策尽きたと思った。

「仕方ない。印判屋を呼んでくれ」
「印判屋を…? まさか!」
 同じく重役の松島吉十郎が驚きの声を上げる。だが三野村は平然と松島を見返した。
「そうだ。八郎右衛門様の実印を作る。それしか、三井組を守る方法がない」

 平尾と松島は絶句した。
 まさか三野村がそこまでするとは思っていなかった。

「そんな事がもしも露見したら三野村さんは…」
「それゆえ、他言無用だ。そしてこの事は私の一存で行う」

 三野村の断固たる言葉に二人共それ以上言い返すことができなかった。
 結局実印を偽造した三野村の決断によって三井は増額抵当を整える事に成功した。
 三井と覇を競っていた小野組・島田組は増額に応えられずに破綻する。三井組は唯一の公金取扱銀行の地位を得た。
 全ては三野村の目論見通りだった。


 しかし、懸命の努力にも関わらず国立第一銀行は大蔵省によって接収され、三井の銀行設立願い書は却下される。
 日本の富を生み出すのは国有銀行でなければならないという大蔵省の意向に屈さざるを得なかった。

 それでも三野村は諦める事無く銀行設立の願い書を提出する。

 そして、二年後の明治九年七月一日
 日本初の私立銀行として純粋な民間資本運営によって『三井銀行』が発足した。
 総長に三井八郎右衛門 総長代理副長に三野村利左衛門が就任した。

 あらゆる産業の心臓部である銀行を得たことで、三井組は経営の多角化に乗り出す。
 日本一の大財閥が動き始めた瞬間だった。
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