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十一代 甚五郎の章
第83話 円の誕生
しおりを挟む1869年(明治二年) 七月 東京府日本橋町 旧山形屋日本橋店
「よし!看板の掛け替えも終わった。これから我が『西川商店』も商売を建て直していくぞ!」
店員たちを前に西川甚五郎が意気を上げる。明治維新によって幕府が倒れ、大名貸しや幕府御用金・武士への売掛金なども全て没収となり、山形屋も前途多難の時期を迎えていた。
しかし、ともあれ戦争は終わった。江戸は無血開城となり、店員たちも全員無事で改めて商売ができる。
そのことが甚五郎には何よりも喜ばしいことだった。
甚五郎は旧来の屋号である『山形屋』を『西川商店』へと改め、旦那・奉公人という呼称も店主・店員と変えた。
まずは意識から御一新に合わせて近代化をしていこうという心構えだった。
「旦那様…いえ、店主。まずは商品を江戸… 東京に運ぶ仕組みを作らねばなりませんね」
西川商店の東京支配人である山口宗助が溌溂とした顔で言い添える。
改称したとはいえ、まだまだ慣れるには時間がかかった。
「ああ。十組問屋も解散し、株仲間も全て解散となった。今まで商品を運んでくれていた廻船もそれぞれ独自の商船へと変わっていくだろう。
我が西川商店も独自の物流を模索していかなければな…」
明治維新によって旧来の株仲間特権は全て解散となり、時代は再び自由商業の世の中へと変わっていった。
岩崎弥太郎のように新たな商売を志す者も出て来た。
幕末から導入が始まった蒸気機関車も具体的な敷設計画が発表され、物流も新たな時代の息吹を感じさせていた。
「我ら西川商店も生糸の扱いを始めますか?」
横浜を中心に、今利益を上げている多くは海外への生糸輸出業が主だった。新しく海外という市場を得た商人達は、欣喜雀躍として商売に精を出し始める。
折しも、明治政府からは富国強兵と殖産興業の政策が示され、今は外貨を稼ぐ事は正義となっている世の中になっていた。
「いや、我らはまずは祖業である蚊帳と畳表をしっかりと再興しよう。海外との取引も大切だが、あくまで我らの志は日本の人々を豊かにすることだ」
「承知しました。我らは国内販売に注力いたしましょう」
宗助は甚五郎の答えにうれしくなった。当節誰も彼もが海外市場を求めて事業を興す。
だが、日本の民が豊かにならなければ意味がない。
人々の生活を向上させ、豊かな日本を描く事こそ西川商店の目標だった。
1870年(明治三年) 六月 近江国長浜県 汽船乗り場
「初めて乗ったが、汽船とはすばらしい物だな」
十三歳になった『住吉屋』西川貞二郎は蒸気船の乗り心地に喜びはしゃいだ。
この前年の明治二年に民間の蒸気輸送船が各地で就航し、近江でも琵琶湖の長浜・八幡・大津を繋ぐ湖上汽船が営業を開始していた。
長浜はこの頃にはすでに蚊帳の一大産地となっており、福井県産の蚊帳と合わせて大津に大量の蚊帳を出荷している。
また汽船は客船も兼ねており、物珍しさに乗客が引きも切らずだった。
貞二郎は近江での行儀見習いを終え、祖業の地である北海道へと向かった。
西川貞二郎は四代目傳右衛門昌福から別れた井狩只七の子で、跡継ぎの途絶えた傳右衛門家に婿養子として迎えられ、九代目の娘つやとの婚姻が決まっていた。
婚姻の前にまずは住吉屋の祖業をしっかりと理解させるため、一般の奉公人と同じく丁稚奉公から始めるべしという七代目の妻であり、つやの祖母でもあるいくの方針だった。
八幡から汽船に乗って長浜まで出た貞二郎は、敦賀で住吉屋の持ち船に乗り変えて一路松前を目指した。
松前に到着すると、他の奉公人と同様に丁稚奉公から始めていた。
だが、松前の支配人岸部惣吉は、本家の女帝いくからの指示によって貞二郎に一般の奉公人の業務に加えて事業主としての帝王学を叩き込んだ。
若い貞二郎は真綿が水を吸収するように物事を学び取り、やがて松前の生活にも慣れていった。
1871年(明治四年) 三月 北海道松前町 住吉屋
「そこまで!大場の勝ち」
「くそう!もう一番だ!」
西川貞二郎は同年代の丁稚や手代達と相撲を取っていた。
生来負けず嫌いの貞二郎は、年上で体の大きい手代達とも相撲を取り、負ければもう一番と勝つまで続けた。
今日は大場庄兵衛がその標的となった。
「貞二郎。もう勘弁してくれ」
うんざりした顔の大場庄兵衛が肩で息をしながら追い払う。大場は貞二郎の三歳上で、体も大きく貞二郎に勝てる相手ではなかった。
「いいや!勝つまでやるぞ!もう一番だ!」
「もう限界だ。勘弁してくれ」
「逃げるのか!逃げれば俺の勝ちだぞ」
「……ようし、やってやらぁ!」
貞二郎の挑発に大場ももう一番と貞二郎の前に立つ。大場も大場で逃げたと言われるのはシャクに触った。
お互いに肩で息をしながら組み合う二人を周りの奉公人達も囃し立てる。
北海道にはまだ雪が残っていたが、二人は体から湯気を上げ、大汗をかきながら上半身をはだけて体をぶつけあった。
「貞二郎は上手く皆と溶け込んでいるようだな」
「ええ、いずれは旦那様としてこの住吉屋を継ぐお方ですからね。皆の心もしっかりと掴んでいます。
将来が楽しみですね」
支配人の岸部惣吉は年かさの手代と離れた所から微笑ましく眺めていた。
あと一月もすればニシン漁が始まる。皆で心を一つにして網を引く大変な仕事だ。
主な働き手は東北各地からの出稼ぎとアイヌ民族だとはいえ、店員たちも心を一つにして働かねばならない。
皆の心を掴んでいるのは喜ばしい事だった。
「しかし、随分と汗をかいて… 若いというのはうらやましいな」
既に四十を超えた岸部には貞二郎達の若さが眩しく映る。戊辰戦争という困難を乗り切ったのは岸部の手腕によるところが大きかったが、なんとか伝統ある住吉屋を若い世代に引き継げそうだと感慨もひとしおだった。
1871年(明治四年) 三月 東京 三井大元方事務局
「三野村さん。本当に切って来られたのですか?」
三井組の重役である斎藤純蔵は、三野村利左衛門の頭を見て驚きの声を上げた。
昨日まで結い上げられていた髷が綺麗に切り落とされ、散切り頭に変わっている。
「ああ、斎藤もそんなもの切ってしまえ。朝晩に鬢の油を付ける必要もないし、髷を結って整える事もないからラクだぞ」
「はぁ…」
三井の大番頭である三野村は、皆にこうせよという時にはまず自分が率先して行う事を徹底していた。
髷を切って散切り頭に変える事もまずは三野村から始めた。
「確かにラクそうですね。私も明日切ってきます」
「おう!切れ切れ!もはや徳川の時代は終わったのだ。まずは見た目から変えていこうではないか」
数日のうちに三井の手代は全員が散切り頭に変わった。
しかし桜井徳兵衛という手代はどうしても髷を切り落とすことに抵抗があり、親類の床屋に頼んで『散切り頭のカツラ』を髷の上に被って出勤していた。
「失礼します」
桜井徳兵衛が三野村の執務室に入って来る。執務室と言っても畳の上に西洋式のテーブルを置いた急造のものだった。
「会計御用掛の大隈さんからお呼びだしが参っております。なんでもアメリカに行っておられる伊藤さんから建白書が提示されたと」
「例の『円』についてか… わかった。すぐに参る」
そう言って支度を整え始めた三野村は、下がろうとする桜井の頭にタコ糸のようなものが出ているのを見つけた。
「桜井、糸くずが頭についてるぞ」
そういって三野村が糸くずを取ると、桜井の頭がボロリと取れた。少なくとも三野村にはそう見えた。
「あ…あわわ…」
唖然とする三野村の前で桜井があわてて月代を隠す。カツラの下には昔ながらの髷が頭に乗っていた。
「ぶわーっはっはっはっは」
耐え切れずに三野村は大笑いした。カツラが取れて恥ずかしそうに顔を俯く四十男には妙な愛嬌があった。
「桜井。お前カツラを被っていたのか」
「面目次第もございません」
「はっはっは。まあ、気持ちはわからんでもない。だが、もう明治の御世なのだ。今日中に切れ」
「はい」
顔を赤くしてカツラを持って退出する桜井を見送りながら、三野村はなおも笑いをかみ殺した。
これから三井は一層忙しくなる。朝晩に髷を撫でつけるヒマも無くなるはずだ。
三野村の散切り令は彼なりの効率主義の表れだった。
1871年(明治四年) 三月 東京 大隈重信邸
呼び出されて大隈邸に参上した三野村は、大隈の私室に入ると他に二人の顔見知りを見つけた。
「ああ、井上さんと渋沢さんも来られていましたか」
大隈重信の他に、井上馨と渋沢栄一の姿もあった。明治政府の財政を預かる要人達と言っていい。
「おお、来た来た。座ってくれ」
西洋式の椅子を進められ、三野村が腰かける。三野村自身は効率重視で手代との打ち合わせなども立ったままやる事が多く、このように座っての打ち合わせは逆に落ち着かなかった。
「実はアメリカに行っている伊藤さんから建議書が届いてな」
「伺っております。例の『円』についてですね」
「その通りだ。今政府はオリエンタルバンクのロバートソンの提案に基づいて銀本位制を実施する事で動いているが、伊藤からはアメリカに倣って金本位制を採用すべきという建議が出された」
「金を本位にですか。しかし、もうすでに一円銀貨を伊勢神宮に奉納されたのでしょう?」
「その通りだ」
いわゆる『新貨条例』だった。
香港にある英国東洋銀行(オリエンタルバンク)の支配人・ロバートソンは、日本の貨幣を銀本位制にするように進言していた。
これはアジアが主に銀貨を多用していたという地域的事情によると共に、銀貨はイギリスにおいて安い貨幣であり、つまりは日本の物価を安く済ませたいというイギリス側の事情も多分に含まれていた。
また、メキシコドルに変わってイギリスの発行する香港ドルをアジアの基軸通貨とするべく東洋銀行で貨幣の鋳造を行っていたが、結局メキシコドルの牙城を崩せずに銀貨の鋳造機が浮いていたという事情もある。
日本は英国東洋銀行から銀貨の造幣機を買い入れ、新たに一円銀貨を鋳造し、すでに伊勢神宮に奉納まで済ませていた。
しかし、アメリカに視察に行っていた伊藤博文からこの新貨条例に待ったがかかった。
アメリカでは金を本位貨幣とするべく下院での審議が行われている所だった。
世界の潮流は、間違いなく金本位制となっている。
その事を知った伊藤は、随行員だった吉田二郎を急遽帰国させてまで金本位制を政府首脳に訴えた。
「実際に貨幣を扱うのは三井を始めとした両替商になる。三野村さんの意見も聞いておきたいと思ってね」
大隈の言葉に三野村が考え込む。
「……そうですな。私としては銀貨を本位にすればドル貨との交換が煩雑になるかと思いますね」
「というと?」
「今は一ドルは三分で引き換える事になっていますが、新たに一円とするならそれは今までの何両と引き換えるべきか、ということです。
今の案では一両=一円となっていますが、それならば一ドルは何円と引き換えればよいのか…」
これが、日本が条例公布段階まで行っていながら銀本位制を採用しない――いや、出来ない理由だった。
幕末の一ドル=三分での交換規定はまだ生きている。そして一円=一両とするのであれば一ドル=四分の三円という極めて中途半端な交換になる。
だからと言って一円=四分の三両とすれば、今度は国内の物価が大きく混乱する。
今まで金一両を基準として値段を付けて来た物価は、突如降って湧いた『銀四分の三両』という通貨単位を強いられるからだ。
そして、日本の貨幣制度は四進法でありながら十進法への互換性を持っていた。
金銀両建制の中で銀貨を十進法として扱っていた為、事実上の金本位制へと移行した後も『銀目』という交換相場は生き続けた。
銀を本位にするということはこの互換性が機能しなくなる。
金と銀が両方価値の基準となれば、同じ『円』でありながら二種類の通貨が生まれるという事になる。
小判と丁銀の関係と同じように、金銀比価によって交換相場が大きく変動する。朱印船貿易時代と同じく、またぞろ金銀の海外流出などという事が起こらないとも限らない。
価値の基準は一つである方が望ましかった。
つまり、既に庶民生活にまで浸透した実質的な金本位制下にある日本にとっては、金本位制を採用する方が貨幣制度としては至極真っ当で自然だった。
新貨条例の制定に当たってようやく明治政府もその事を理解した。
「ふむ……わかった。では、早速次の評議で伊藤の建議を採用するように上申しよう」
この一言で日本は名実共に金本位制の道を歩み始めた。
幕末の混乱と明治の草創期にイギリスの口車に乗り、銀本位制から金銀複本位制と目まぐるしく変遷した新たな『日本円』は、最終的には落ち着くべきところへと落ち着いた。
同種同量の規定によって金貨一円は一ドルと等しいという条約規定となり、国内外での金貨・銀貨の交換はさほどの混乱も無く移行が完了した。
まだ人々の意識の中では両・分・朱という計算が残っていたが、それはそのまま円・銭・厘という単位に読み替える事が可能だった。
本来であれば国内に大きな混乱をもたらすはずの四進法から十進法への通貨の切り替えという難事業は、既に日本の中で二百年の時を掛けて完成していたものを明治政府によって『円』という呼称を与えられたに過ぎなかった。
明治四年の五月には正式に『新貨条例』が布告される。
だが、それは金銀複本位制を基準とした条例案であり、明治四年九月には改めて金本位制としての新貨条例に書き換えられる。
その改正新貨条例は旧条例布告の上から白紙の紙を貼って修正するという慌ただしい物だった。
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