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十一代 甚五郎の章
第74話 黒船前夜
しおりを挟む1852年(嘉永5年) 夏 江戸城本丸 溜間(たまりのま)
江戸城の将軍執務室である中奥の黒書院の一室『溜間』では、将軍への謁見を待つ譜代大名が所狭しと詰めていた。
老中首座の阿部正弘は、襖を引き開けると諸侯が何事かと見上げる視線を一身に浴びながら上座に座り、懐から一通の書状を取り出した。
「今から皆様に長崎のオランダ商館からもたらされた風説書を回覧させていただきます。
くれぐれも申し上げますが、この話はこの場限りとし、決して外には漏らさぬようお願いいたします」
諸侯がざわつく。阿部も厳しい顔つきをしていた。が、事ここに至っては諸侯に秘密にしておく方が混乱を招くと思い定めていた。
最初に受け取った彦根藩主井伊直弼が、書面に目を通すと驚きの声を上げた。
次々に回覧される書状に対して、目を通した者が一様に驚きの声を上げる。
「なんと…」
「これは!」
「これは容易ならざる事態だ…」
回覧が済み、阿部の元に書状が返って来た時におもむろに阿部が口を開いた。
「御覧いただいたように、来年に北アメリカ共和国から我が国へ使節が派遣される見込みであるという情報を受け取り申した。
目的は我が国との交易、日本人漂流民の送還、そして長距離航海に伴う補給の為、石炭の貯蔵庫を建造したいと。その為に我が国の二十三の港を開いてもらいたいとの事でござる」
「しかし、わが国は三代家光公の御世より代々交易は長崎港のみと定めております。その法を破るおつもりで?」
「今は家光公の御世とは違い申す。ご存知のように、蝦夷ではロシアの船が一時乱暴狼藉を働く事もあり申した。さらにはかの大清国も海禁を解いてイギリスに国を開いたとの由」
諸侯がお互いに顔を見合わせる。
阿片戦争については詳細に知る大名も居れば、ほとんど情報を持っていない大名も居て情報の濃淡が大きかった。
良く知る大名からは厳しい顔が返ってくる。
「改めて申し上げるが、清国は事実上、イギリスの軍門に降ったのでござる。このまま国法だからと座しておれば、イギリスは次に我が国へ戦を仕掛け、領土の割譲を求めて来るやもしれませぬ」
「なんの!寛政の頃より江戸には大砲を据え、異国船を打ち払う防備は備えております!イギリスなど何するものぞ!」
片隅から上がった威勢のいい声に、阿部は眉をしかめる。
「事はそう単純ではありません!
今江戸の民は大坂から運ばれる廻船によって多くの物を手に入れております。イギリスが大型軍船を用いて江戸湾を封鎖すれば、たちまち江戸は物不足の大混乱に陥る事は必定。
暴れる民を抱えてまともに戦が出来るとは思えませぬ」
「むぅ…」
「実は皆様方には内密にしておりましたが、以前にもアメリカから使節は来航しております」
一座に今までとは違ったざわめきが広がる。
「その時は交渉はせぬと突っぱね、アメリカ側もそれに一旦は納得して引き上げました。
我が国と戦をしようという気配は見えませんでした」
「しかし、それではご老中は…」
阿部が一つ頷くと、一座を見回してひと際大きな声で宣言する。
「我が国は、アメリカと正式に条約を結ぶべしと愚考いたしまするっ」
今までとは一転して、シインとした静寂が一座を包んだ。
突然の事で、諸侯もどう反応していいかわからぬ。という風情だった。
一座の中からおずおずと会津藩主松平容保が立ち上がる。
容保はこの二月に家督を相続したばかりの十八歳の若者だったが、整った顔には強い意志の光が籠っていた。
「阿部様は、かの国を信ずるに値する者達と思っておられますか?」
しばし重苦しい沈黙の後、阿部が容保をひたと見据える。
三十三歳の阿部正弘は、若い容保の真っすぐな瞳を正面から見返した。
「いかにも。少なくともイギリスやロシアよりはよほどに信ずるに値する相手と思い定めております」
「なれば、多くは申しませぬ。上様の御為、国家の為になるのであれば従いましょう」
「有難い申し出に感謝いたします」
まるで舞台役者のやり取りのような展開に、集まった諸侯も言葉が無かった。
しかし、アメリカとの条約締結はまだこれから交渉が始まる段階であり、諸侯にも賛否を明確にすることは出来なかった。
1852年(嘉永5年) 秋 江戸 福山藩上屋敷
「此度はお運び頂きかたじけない」
「いや、突然のお召しに驚き入っておりますが、一体どのような…?」
老中首座の阿部正弘は、薩摩藩主島津斉彬を内密の話があるとした上で自邸に招いていた。
「実は、アメリカから我が国へ正式に使節が派遣されるという情報がオランダからもたらされ申した」
「なんと…」
突然の事に斉彬は言葉を失う。
唖然とする斉彬を尻目に、阿部は諄々と話し続けた。
「おそらく来航は来年の夏になろうかと存ずる。それまでに我が国として如何するか、方針を固めねばなりません。
しかしながら、閣内でも突然の事ゆえにどう対応すべきか中々に議論が決まらぬというのが実情です。
そこで、島津殿には琉球を通じて得られる情報を集めて頂けぬかと思いまして…」
薩摩藩は琉球を支配し、一般的な大名よりも余程に海外情報に詳しかった。
ペリー来航の事は初耳だったが、阿片戦争の始末や風雲急を告げるアジア情勢については幕府よりも詳しい情報を持っている事もあった。
阿部はその情報網を使わせて欲しいと願って来たのだ。
「イギリスではなく、アメリカと条約を結ぶお心積もりで?」
「はい。かの国ならば戦をせずとも話し合えるはずと思い定めております」
阿部正弘と島津斉彬は、しばし無言でお互いに視線を交わした。
室内には時ならぬ静寂が耳に痛いほどだった。
遠くで鳥が羽ばたく音が聞こえる。
真っすぐに見つめ返す阿部に、斉彬はふっと表情を崩すと笑顔で応じた。
「承知した。国元へ文を書きましょう」
「有難い。よろしくお願い申します」
「いや、確かに戦は避けられるものならば避けたいですからな」
斉彬は二年前に薩摩藩主を継いだが、藩主に就任するや否や洋式帆船の建造や溶鉱炉・反射炉・ガラス製品の製造に着手し、富国強兵と殖産興業を諸藩に先駆けて実施していた。
イギリスの脅威を誰よりも知り、国を守るために武力の強化は必要だと信じていた。
未だ成果を得るには至っていなかったが、海外の進んだ文明を熟知している者の一人だった。
1853年(嘉永6年) 夏 東シナ海洋上
アメリカ東インド艦隊の旗艦であるフリゲート艦『ミシシッピ号』の甲板の上に立ちながら、艦隊司令長官のマシュー・ペリーは遥か遠くの日本を思い浮かべていた。
海図を見れば、間もなく日本が見えて来るはずだ。
―――さて、日本はどう出るかな?
正直不安はあった。戦争をするつもりはないし、またその余裕もない。
だが、舐められるわけにもいかない。
今回で必ずや条約締結を前進させるという使命をフィルモア大統領から与えられていた。
ペリーはまだ見ぬ日本の姿を想像しながら、不安と期待に身を揉んでいた。
ペリー出航に先立つ1851年、アメリカは日本との条約交渉のため、時の東インド艦隊司令長官のオーリックをアジアに派遣していた。
1847年に終結した米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)のために新造したミシシッピ号だったが、完成を前に戦争は終結。莫大な予算を投入した『戦力』は無用の長物となっていた。
これを受けて、民衆の批判をかわすためアメリカ海軍省は太平洋航路の開拓を打ち出した。
捕鯨産業の黄金期にあたる1850年代は、アメリカ捕鯨船が太平洋に多く出航しており、難破などによって日本近海へ流れつくアメリカ人も徐々に増えていた。
国民の生命と財産を保護するため、太平洋を挟んだ反対側に領事館を設けて遭難者の保護を行う事はアメリカの国益にもかなった。
現状では日本に流れ着いたアメリカ人は、取り調べを受けた後に長崎に送られ、オランダ船によって香港を経由して返還されるという煩雑な外交ルートになっていた。
自然、遭難者の返還には莫大な経費がかかる。日本とアメリカが直接の国交を結べば、この経費負担を大きく軽減できる。
また、世界制覇の野望に燃えるイギリスが先に太平洋に補給線を結べば、アメリカにとってもイギリスの風下に立ち続ける事になるという事情もあった。
太平洋横断航路の権益はアメリカのものだという野心に燃えていた。
結局、オーリックは香港まで来たものの日本へは行く事無く帰国していた。
それを受けて、改めて日本との条約交渉の為にペリーが派遣されていた。
―――日本人も争いは好まないはずだ。かの国には我が国建国以前から高い文明がある
ペリーには内心に期するものがあった。
1851年には、オランダから日本にアメリカ人が抑留されていると連絡が入った。
長崎からのオランダ船の出航までに取り調べが終わらなかった為、香港まで連れて来られなかったらしい。
これを受けて東インド艦隊の一艦長であったグリンが、プレブル号に乗って日本へ迎えに来た。
グリンは母国人が日本で虐待されていると考え、『救出』の為に日本へ行くと理解していた。
だが、天保の薪水給与令下の日本では抑留者を丁重にもてなしており、当の抑留民からは長崎での待遇は捕鯨船よりも余程に手厚い物で、食事はもちろん夏冬の衣服も支給され、屋敷牢とはいえ運動をする自由も与えられていたと知らされた。
その上、グリン来航時には既に取り調べは終わっており、日本の長崎奉行からは『日本には送る船が無いから、貴官の船で連れて帰ってやって欲しい』と親切に船に補給までしてくれた。
振り上げた拳の下ろし先を無くしたグリンは、丁重に礼を言ってわずか二週間で日本を出航している。
この対応を見ても、日本が争いを望んでいるわけではないということはペリーにも理解できた。
そして、日本に居住していたシーボルトを通じて日本の歴史や文明の情報を得ていた。
シーボルト曰く、
『日本では古代以来多くの船舶を有し、中国人と同じく近隣諸国を往来し、その足跡は遥かベンガルにまで及んでいた』
と、朱印船時代の日本を描き、さらに
『ポルトガル人との接触時期には既に日本は高度な文明を有しており、キリスト教の平和的・禁欲的な教えの影響を受けずに到達しうる最高位の文明段階と言える』
と絶賛していた。
この高度な文明を有する民族は、厄介な事に西洋との交渉はオランダのみとするという国法を持っている。
この障壁を打ち破るには多少の威圧はやむを得ない。
十二隻の艦隊はその威圧だけを目的に組織された。
フィルモア大統領からは『発砲禁止』を厳重に申し渡されている。
当時のアメリカに、太平洋を挟んで戦争をする余力などどこにもなかった。
―――礼砲ならば、問題あるまい
ペリーは威圧の一環として礼砲を鳴らして相手を威圧する方法を考えた。
まずは相手を交渉のテーブルに付けなければ話が始まらない。
まさか、当の幕府首脳がアメリカと前のめりに交渉する気で居るとは露ほども思わなかった。
『この特異な民族が自らに張り巡らせている障壁を打ち砕き、我々の望む商業国の仲間入りをさせる第一歩。その友好・通商条約を結ばせる任務が、もっとも若き国の民たる自分に残されている』
ペリーの書き残した言葉には、最古の国日本に最も若い国の自分が挑戦するという気概が溢れていた。
「あと二時間ほどで琉球が見えてくるはずです!間もなく日本です!」
航海士からの言葉にうなずくと、ペリーは艦長室へ戻って行った。
大統領親書を確認し、大きく深呼吸をする。
―――さあ、交渉開始だ!
ペリーの顔には裂帛の気合が込められていた。
――――――――
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