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三代 利助の章
第41話 最古の帳簿
しおりを挟む1679年(延宝7年) 春 江戸本町一丁目 越後屋
「申し訳ありません。越後屋さんにはお世話になっていますが、私たちも針仕事が減ってしまっては食べていく事ができません」
武士の奥方と思しき四十がらみの女性が深々と頭を下げる
「……やむを得ませんな。今お願いしている仕立ては最後までお願いできますか?」
「はい。それは責任持って納めさせていただきます」
頭を下げながら帰っていく女性を見送りながら越後屋江戸支配人三井高富は暗澹たる心持だった
手代の徳右衛門が横に立って話しかけてくる
「またですか…」
「ああ、越後屋の仕事を請けるなら他の呉服屋からの仕事は回さぬと脅されたそうだ」
「今の方は武家のご内儀で?」
「うむ。以前はどこぞのお大名に仕える百石取りの武士の奥方だったそうだが、主家が改易されて今は浪々の身の上だそうだ
ご主人は近郷の子供達に読み書きを教え、奥方は針仕事で日銭を稼いでいる
針仕事が途絶えれば死活問題なのだからやむを得んだろう…」
この時期の江戸では珍しい光景ではなかった
武士と言えど食わねばならない
食わねど高楊枝が出来るのは物語の中の武士だけだ
「しかし、困りましたな…」
「うむ… 針子がおらねばお客様に迷惑を掛けることになってしまう。どうしたものか…」
一昨年から古参の呉服商達による嫌がらせは、ついに越後屋の針子を狙い撃つ営業妨害に発展していた
卑怯な振る舞いと憤ってみてもどうにもならない
針子が居なければ反物を買ってもらっても仕立てができないのだ
「伊勢の父上と京の兄上に文を書こう。一度お出でいただいて善後策を練らねばならん」
1679年(延宝7年) 夏 江戸本町一丁目 越後屋
文を受け取った高利はすぐに江戸へ飛んできた
京の高平も三日遅れで江戸に入った
「これほどまでに嫌がらせがひどくなっているとは知らなかったが、これは由々しき問題だな」
高利が一座を見回しながら厳しい顔つきで話し出す
高利を筆頭に長男高平、次男高富、手代の徳右衛門、理右衛門の五人が一室で額を寄せ合った
「まず、今の針仕事はどうなっている?」
「僅かですが、呉服仲間の妨害にもめげずに我が越後屋の針仕事を請けてくれている針子が居りまする
彼女らのおかげでなんとか回っております」
「そうか… 彼女らに越後屋の仕事だけをしてもらうことは可能か?つまり、それだけ安定して仕事を回す必要があるが…」
「今はまだ難しゅうございます。越後屋の売上も通年で安定したものとは言えませぬ
どうしても回す仕事の増減があって手すきの時間が出来てしまいます
その間彼女らも銭を稼がねばなりません…」
高利は唸った
自分がすぐに思いつくことは高富もすでに考えていた
その上で現状があるのだ
「一つ存念がありますが、よろしいでしょうか?」
「遠慮はいらぬ。申してみよ」
理右衛門が高利を見据えて話し出した
「回す仕事が不足しているゆえに針仕事が途絶えてしまう事は今日明日にどうこうできる事ではありません
ですので、彼女たち針子を我が越後屋の手代として専属雇用してはいかがかと…
もちろん、通常の手代と違って給金は月払いあるいはその日払いで『店預かり』などは出来ません
その分越後屋の経営を圧迫する原因にもなってくる可能性がありますし、越後屋の責任もひと際重くなりますが…」
高利の覚悟を見定めようという鋭い視線だった
―――やはりそれしかないか…
高利も専属雇用は考えぬではなかったが、正直な所万一の時の恐怖が拭えなかった
専属雇用をするということは彼女たちの生活に責任を持つということだ
彼女たちの針仕事によって口を賄っている家族も居るだろう
失敗した時に無責任に『店を畳みます』では済まされなくなってしまう
「それしか道がないのであれば、覚悟を決めて進んで参りましょう
京の仕入れは今まで以上に値下がり品や値打ちの物を中心に行い、費えを始末してゆきます
越後屋一同で必ずやこの難局を乗り切りましょう」
高平の一言でそう決まった
高利は長男の成長した姿に頼もしさを覚えた
肚も据わっている。もう越後屋の総帥として十分にやっていけるだろう
以後越後屋では専属の針子として針仕事の女性たちを雇用した
彼女たちには毎日当番制で店に来てもらい、その日の針仕事を回していった
給金は決して高くはなかったが、仕立ての仕事があろうがなかろうが規定通りの給金を渡すという契約だった為彼女たちの生活はむしろ安定した
幸いというべきか、呉服仲間の妨害で請けてくれる針子の数は少なかったので、希望する者全員を雇用できた
1680年(延宝8年) 秋 江戸城西の丸
「面をあげよ」
「ハッ!」
勘定方の荻原彦次郎重秀はこの七月に家綱の跡を継いだ五代将軍綱吉に謁見していた
「その方が萩原か。先年の検地では辣腕を振るったと聞いておる
今後も忠勤を励め」
「ハハッ!早速ではございますが、御進言致したき事がございまする」
「これ、御前であるぞ」
老中の堀田正俊がたしなめる
「良い。申してみよ」
「では、畏れながら
先年の五畿内の検地において各地で世襲しておる代官による諸々の妨害がございました
土地の百姓や町人と結託し、石高を実際よりも少なく見積もる手助けをしておったとの由。これは代々世襲によって地縁が複雑に絡み合い、代官の利害が必ずしもご公儀の利害と一致しておらなんだ事が原因として挙げられます
代官は土地の百姓から独自に賄いを受けて公儀の検見高は減免すると言った汚職も行っておると報告が出ております
言うまでもなく百姓・町民は検地を嫌がりまするが、さりとてご公儀にも無尽蔵に金銀が残っているわけでもございません
検地による歳入の増加は必須にございます
そこでご公儀より代官を任期ごとに派遣し、ご公儀の意向を各村の隅々まで行き渡らせることが肝要かと存じまする」
「ふふっ… 身も蓋もない物言いよの」
可笑しそうに綱吉が笑う
居並ぶ幕閣達が冷や汗をかく傍ら、当の重秀はむっつりと生真面目な顔で相対していた
「よかろう。そちの言を容れよう。正式に文書にして老中に諮るが良い」
「はっ!ありがとうございまする」
重秀は思ったよりもすんなりと綱吉が提案を容れてくれた事に少し意外な気がした
同時に、歳入改善という喫緊の課題をご公儀の長たる将軍が理解してくれていることに頼もしさを覚えた
―――ご公儀の財政は必ず改善させて見せる
この決意を元に萩原は勘定方として幕府財政の再建に全力を尽くすことになる
全国の金銀山はこの頃すでに枯渇しており、貨幣不足によるデフレ圧力は幕府財政すらも強く圧迫していた
先年の延宝五年には荻原は太閤検地以来八十年ぶりに、『延宝検地』と呼ばれる五畿内の実測検地を行ったが、これは農村各地からの激しい抵抗があった
太閤検地で使われた検地竿は六尺三寸(約190㎝)を一間とするものだったが、この時使われた検地竿は六尺一分(約182㎝)を一間とした
一坪の面積は一間×一間で算出されるので、太閤検地では3.61㎡ 延宝検地では3.31㎡となる
つまり、同じ田畑でも延宝検地竿ではおよそ一割増しの地積となる
具体的には10%の増税ということだった
各地で抵抗があったのは当然だろう
土地の代官はそれまでは世襲制で、代々その土地に住居を構えていた
これだと、幕府の意向よりも地元の意向を優先してしまうズブズブの関係になるのもやむを得ない
萩原はそのために代官を使わず、周辺の諸大名を動員して検地に当たらせた
太閤検地以来の伝統とでも言うのだろうか、近江の特に湖東地域は検地を行う時には真っ先にターゲットにされる場所だった
実際、秀吉も天正十三年に八日市、つまり保内商人の本拠地である『得珍保』周辺から検地を開始している
信長の時代から近江には一国を領有する統一した領主は置かれなかったが、江戸期に入っても各地の大名・旗本の飛び地や天領などで細かく分割されて統治された
そのため、各郷で組織だった抵抗が出来ずにいわば弱い立場で検地を迎えざるを得なかった
慶長期近江の石高は一国で東北地方五カ国合算に次ぐ全国二位の石高を設定されている
元禄郷帳でも近畿トップの全国五位に入っている
近江が物成が豊かだったのは事実だろうが、検地によって高い石高を設定されやすかったという側面もあるだろう
石高が高いということは、すなわち税が高いということだ
五代将軍綱吉は荻原重秀の献言を容れて代官を官僚化し、幕府天領の中央集権化を進めていった
1683年(天和3年) 春 近江国八幡町 山形屋
山形屋三代目の利助は昨年の暮れから流行り病にかかり、床に伏せっていた
「旦那様。お加減はいかがですか?」
「長兵衛か…すまぬが倅を呼んでくれぬか…」
長兵衛は涙を拭いながら利助の長男治兵衛を呼びに行った
もう利助が長くはないことは長兵衛の目にも明らかだった
「父上。お呼びでしょうか」
「うむ。おそらく私はもう長くはない。しかし、山形屋の商いは今岐路に立っている。
私の遺言と思って聞いてくれ」
「父上… なんとお気の弱い」
治兵衛は目をしばたたいた
まだ二十一歳の多感な若者だった
「なに…気休めは無意味だ
自分の事は自分でわかる。それよりもよく聞け
これからの世の中はもう武士が使うカネを当てにしてはいけぬようになる。武士の懐にはもうカネが無くなっているのだ
これからは町人・百姓に向けた商いを心がけてゆかねばならぬ
民の暮らしに寄り添い、民の為に役立つ事を考えろ
民の役に立つ商人は民から支持され、生き残っていく
良いな。ご初代様より百年の歴史を誇る山形屋をそなたの代で途絶えさせてはならぬぞ」
治兵衛はただ涙に暮れながら頷くのみだった
父の言う事は今父がやろうとして果たせなかった改革なのだろう
その志を継ぐ決意をした
「父上のやり残した仕事は私が責任を持って果たしまする」
「ふふ… 嬉しいことを言ってくれるな…
長兵衛、治兵衛を頼んだぞ。まだ若造だ…一人前の商人として育ててやってくれ」
「必ずや… 一命を賭して相務めまする」
話疲れたのか利助はそのまま目を閉じて眠ってしまった
翌月、近郷の田で田起こしの声が上がる季節に三代利助はこの世を去った
享年六十二歳
彼の残した帳簿類は現存する日本最古の決算書類と言われている
父祖の残した家業を永続する企業へと押し上げたのは間違いなく三代利助の功績だった
長男の治兵衛は山形屋を継ぎ、父の名を襲って山形屋四代目利助を襲名した
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