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初代 仁右衛門の章
第10話 師弟の絆
しおりを挟む1578年(天正6年) 夏 近江国蒲生郡南津田村
「では、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
「うん」
31歳になった甚左衛門は妻のふくと生まれたばかりの長男 市兵衛を見て眩しそうな顔をしていた
4年前の天正二年に南津田村の名主である藤木宗右衛門の娘のふくを嫁に迎えていた
「それなりの商いをしておるというのに、いつまでもやもめでは格好がつかんだろう」
そう言われて半ば押し付けられるように祝言をあげた
最初は夫婦仲もぎこちなかったが、徐々に商人の妻という身にも慣れてくれたのか夫の留守にもさほど動揺しなくなってきていた
今年の春に待望の長男市兵衛を授かったばかりだ
宗右衛門は三日にあけずに訪ねては市兵衛を可愛がってくれたし、新八とちえも居るから留守は大丈夫だろうと思えた
新八とちえにも昨年長男の新治郎が授かり、西川家では慶事が続いていた
「最近この辺りで行商の者が何者かに襲われる事件が増えていると聞きます。道中お気をつけて」
「わかっている。心配するな」
そう言うと、甚左衛門は笠をかぶって天秤棒を担ぎ上げた
1578年(天正6年) 夏 伊賀国阿拝郡 平太の家
甚左衛門は大和との通商は絶えていたが、平太の家へは毎年夏と秋の二回必ず訪れていた
「おお、良くいらした」
「毎度お世話になります」
「今回は何を持ってきてくれたのかな?」
「敦賀の干物とへしこという、鯖のぬか漬けを。どちらも良い物ですよ」
「それはそれは」
平太が顔を綻ばす
最初は野盗かと思って恐れおののいていた甚左衛門だったが、平太との付き合いはもう十年以上にもなっていた
「しばらくは、こちらへ足を運ばぬがよろしかろう」
平太の家を商人宿として近在のおかみさんたちに荷を捌いた後、平太に冷たい水をもらって喉を潤していた最中だった
唐突な平太の言葉に甚左衛門は驚いて顔をあげた
「何か騒ぎがありますので?」
「伊勢の三介殿が丸山城の普請をしておる。伊賀衆は完成までに戦を仕掛ける心づもりだ」
「また戦になりますか…」
最初は伊賀が忍びの里とは知らずに行商を行っていた甚左衛門だったが、後に宗兵衛にそのあたりのことを聞いていた
しかし、相手も人であれば自分たちの荷がなければ困るだろう と甚左衛門が態度を変えることはなかった
「貴方は我らの素性を知っても何一つ変わることなく接してくれた。そのことを心から感謝している。巻き込みたくないのだ」
「手前にとっては忍びの方といえどもお客様です。手前の荷を必要として下さるのなら、喜んで運んできます。当然のことですよ」
「ふっ当然か。世の中にはそれを当然と思う人間の方が少ない。武士の中には我らを人とも思っておられぬ方々も多い」
平太が遠くを見る目になった
「我らとて感情のある生き物だ。嫌な者もいれば好ましい者もいる。私は貴方に戦などで死んでもらいたくないのだ」
「お心遣い痛み入ります。ご忠告通りに致しましょう」
平太の気持ちが嬉しかった
心配ではあったが、意固地に通って戦に巻き込まれでもしたら平太がより苦しむだろうと思った
「落ち着かれたらまた参ります。ご贔屓にお願いしますよ」
「ああ、その時はぜひ栃餅をもってきてもらいたいな」
「心得ました」
二人で笑った
平太は高島郡で仕入れてくる栃餅をことのほか気に入っていた
「ああ、そうそう。ご忠告ついでにもう一つ。最近安土周辺で我らの手の者が討たれることが度々あってな。奇妙なことに行商に身をやつしている者だけが狙われる。僧形や武士のなりをしている者は狙われておらぬ」
「手前も行商の者がよく襲われると耳にします。近江はそんなに治安の悪い場所ではなくなっているはずですが…」
「調べたのだが、伴伝次郎という者が裏で動いているようだ。貴方の師だそうだが」
「!!」
「やはり御存じでなかったか」
平太は一つ息を吐いた
「まさか…」
甚左衛門は平太の言葉に耳を疑った
あの伝次郎さんがなぜ商人を襲うのか理解できなかった
「お身内故よもや貴方が狙われることはないとは思うが、ゆめ気を付けられよ」
「…ご忠告かたじけなく」
甚左衛門は丁重に礼を述べて伊賀を後にした
(伝次郎さんが行商人を襲わせるなど…何かの間違いだろう)
そう思いたかったが、平太が嘘をつくとも思えなかった
(戻ったら一度伝次郎さんを訪ねよう)
1578年(天正6年) 秋 近江国蒲生郡安土山下町
「ご無沙汰しております」
「甚左。久しぶりですね」
伊賀から戻った甚左衛門は伝次郎の屋敷を訪ねていた
安土城の普請は佳境に入っていて、この城下町へも普請場の活気が伝わってくる
伝次郎は以前と変わらぬ微笑みを湛えていた
(やはり何かの間違いではないか?)
甚左衛門はそう思わずにはいられなかった
「今日は何用で参ったのですか?」
「最近このあたりが物騒になっておりますので、手前も万一のことあらば妻子を頼まねばならぬと思いまして」
「あなたは大丈夫ですよ。大助と違い、真っ当な商いをしていますからね」
「!?」
思わず伝次郎の顔をまじまじと見た
先ほどまでとは打って変わって眼に冷たい光がある
甚左衛門は背中に冷たいものが走るのを感じた
「まさか…大助が誅されたのは…」
「私が手を下しました。武田の間者に篭絡され、始末を忘れて遊興にふけり、あまつさえ操られているとも知らずに間者の手先となっていました
師としては不肖の弟子を放置するわけにもいきませんからね」
伝次郎はさも当然の如く語った
「行商の者が襲われているのも…?」
「私の指図です。多くは商人に扮した間者どもですが、不埒な商いをする者も悉く誅しています」
「…」
伝次郎は冷たい眼で、しかし口元に微笑みを湛えながら語り出した
「上様はこの安土を第二の岐阜にしたいのでしょうが、市場の質を高めない限り京や堺に吸い尽くされるだけで終わります。粗悪な品の流通を見逃すわけにはいきません」
事実として、信長の肝煎りで発布された金森の楽市楽座は秀吉の時代にはすでに市場としての機能を縮小し、江戸幕府開府の頃になるとただの寂れた農村となっていた
市場に並ぶ品物の質が落ちれば客足も遠のく
客足が遠のけば訪れる商人もまばらになる
市場の品質を保つというのは、その市場を守ることに直結していた
「伝次郎さん…一体どうされたのです!あなたは何があっても力で押さえつけることを忌み嫌っておられた!武力をもって存念を果たすなど武士の真似事そのものではありませんか!」
「黙れ!」
伝次郎が豹変した
恐ろしかったが、甚左衛門は退くわけにはいかないと思った
「黙りません!皆が利で繋がり合って共存し共栄していく。各地に品々が行き渡り、皆が豊かになっていく。それが伝次郎さんの理想だったではありませんか。この安土の楽市ならば…」
「やかましい!」
伝次郎が吼えた
「安土の楽市だと!?こんなものが楽市だと本気で思っているのか!
物を知らぬ雑兵崩れが粗悪な品をさも当然の如くに並べて商いと称しておる
周辺の職方は良いものを作っても売れぬからと、三流の品を安い値で売って良い物を作ろうという気概を失っている
いや、粗悪であっても購って来るならまだマシよ!仕入れと称して他国へ押し入り、戦のどさくさで略奪をし、盗品とは知らなんだとぬけぬけと抜かして売り捌く屑どもも居る
こんなものは楽市ではない!我らが夢見た自由な商いなどでは断じてないわっ!」
「…」
伝次郎は肩で息をしていた
甚左衛門にも伝次郎の気持ちは痛いほどわかった
この時代攻め滅ぼされたり改易になった領主に仕えていた者たちが、浪人となっていた
大量に発生した浪人たちは、別な主君に仕えられるのはごく一部で、多くの者は残り少ない戦に陣を借りて立身出世を目指すか、田畑をもらって百姓となるか、商人となって行商を行うかといった生計の道を各々が歩んでいた
生きる先に夢も希望もなく、致仕した時に持っていた僅かばかりの金子も使い果たすかだまし取られ、手元にあるのは戦場で生き延びた体力と人殺しの技のみという物騒な連中だ
商人と言っても元手はかかるし、少ない元手であればあるほど有効に運用していかなければたちまち行き詰まる
伝次郎のような商売道を学んだ者からすれば、笑止としか思えないような事を大真面目で商いと呼んで行っていた者も大勢いた
「あんな素人どもを大量に集めて楽市などとは片腹痛いわっ!」
伝次郎は最後にもう一度吠えた
甚左衛門は思わず涙を零していた
「…彼らは…判らぬだけなのです。粗悪な品と良い品を見分ける目を持たぬのです。なればこそ、少ない元手だからこそ安いものを求めてしまう。その心根は腐っているのではなく、わからないからこそ値が安いという目に見える差を重視して求めてしまうのです」
伝次郎が少し困惑したような眼をした
「判らぬのなら教えてあげれば良い。かつて賢しらな童だった私に、相手の好意に付け込んで柿を三個で五十文などと暴利を貪っていた私に、物の価値を見極める目と商人の本分を教えて下さったように、彼ら素人達を一人前の商人として鍛えてゆけば、いつか我らが夢見た楽市が実現するのではありませんか?その努力を忘れてはならぬのではありませんか?」
滂沱の涙を流しながら、それでも視線をまっすぐ伝次郎に向け、甚左衛門は訥々と話した
伝次郎が視線を逸らした
「そんなものを、悠長に待てるほどに乱世は待ってはくれぬ。織田の戦は間もなく佳境を迎える。天下は十年も経たずに上様のもと統一されるだろう。それまでに堺や京に負けぬ質を確保せねばならんのだ…」
辛そうな声だと甚左衛門は感じた
伝次郎も心から望んでこのような手段に出たわけではないのだと悟った
京や堺の豪商たちは軍事物資を大量に扱う死の商人でもある
物が物だけにその資金力は伝次郎や甚左衛門から見れば途轍もない大きさに感じた
伝次郎の言う通り、手を拱いていては京や堺の商人に良い産物は買い占められ、受け取った僅かばかりの銭も彼らが運ぶ荷を買う為に使わされる事になるだろう
近江は、いや、周辺諸国は大都市を支えるための金づるとして生きてゆかざるを得なくなる
それでも…
「それでも…私はあきらめません。今はしがない行商ですが、いつか必ず京や堺に負けない商家をこの近江に実現してみせます」
伝次郎はふんっと鼻を鳴らした
それを合図にしたように、甚左衛門は深々と頭を下げて伝次郎の屋敷を辞した
その後甚左衛門は二度と伝次郎と会うことはなかった
伝次郎は甚左衛門が辞去した後もそのまま瞑目して思案に暮れていた
その事を伝え聞いた甚左衛門は、伝次郎が何を思っていたのかはついに知りえなかった
だが、しばらくして伝次郎が以前のように足子を雇い始めたということは風の噂で聞いた
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