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初代 仁右衛門の章
第5話 新八
しおりを挟む1570年(元亀元年)秋 近江国蒲生郡武佐村
甚左衛門は伊勢からの行商の帰り、武佐のあたりを歩いていた
たわわに実った稲が風にそよぎ、自然と足も軽かった
大和の長兵衛は二年前の永禄十年から行方が知れなかった
信長の上洛によって大和の騒乱にも一応のケリがついたが、甚左衛門が訪ねてみると長兵衛の家は焼け地になっていた
(蚊帳どうこうよりも、生きていてくれればいいんだが…)
甚左衛門は心からそう思った
長兵衛は見ず知らずの甚左衛門を泊め、いろいろと親切にしてくれた人だった
元号が元亀と改まったこの年、織田信長は若狭の武藤を討つと言って京を出立し、矛を転じて越前の朝倉を攻めた
手筒山城や敦賀の諸城を順調に攻略し、金ヶ崎城を制圧したときに義弟の浅井長政の裏切りが発覚した
信長は朽木谷を越えて京へ戻り、そのまま岐阜へ戻るとすぐさま軍勢を立て直して近江に出陣、三田村で浅井・朝倉連合軍を破ると抑えの城に将兵を残し、帰還するもまたすぐに摂津にて三好三人衆と激突していた
この辺りでは野洲河原で六角親子が戦って敗れたが、それからは鳴りを潜めている
武士の世界は目まぐるしく動き回った半年間であったが、甚左衛門にとってはあらたな商材を探し求めて比較的平和な伊勢・尾張・美濃・三河などを巡り歩いていた
大助・小助とも会った
一緒にやらないかと誘われたが、近江を離れる気持ちはなかったので丁重に礼を言って出てきた
宗六が越後守というのも笑ったな
五井越後守様か なんだか本当に大身のお武家様のようだ
「おや?」
武佐村を過ぎて八幡山の麓にさしかかった頃、草むらから人の足が出ていた
戦火に巻き込まれたのだろうか。この辺りは人通りも少ない
甚左衛門は気になって足を引っ張った
まだ温かい…
死んでいるわけではなかった
「うう…」
『足』が呻いた
「もし、どうなされた」
「腹が…」
「腹が?」
「…減った」
ガフガフガフガフガフガフガフガフガフガフガフガフガフガフ
甚左衛門は呆れ返って見ていた
よほど腹が空いていたのだろう
父と兄の食事にと隣のおかみさんが鍋いっぱいに作ってくれていた稗粥を全て一人で平らげた
母は甚左衛門が八歳の時に亡くなっていた
男ばかりのやもめ暮らしは不便だろうと、隣のおかみさんが何かと気を使ってくれていた
今日の夜・明日の朝・明日の昼の三食分を二人で食うはずの量なんだが…
父と兄にはあとで詫びて代わりを作っておこう
自分も食った
久方ぶりの実家で落ち着いた
となりのおかみさんの稗粥は赤米と黍を少し入れる
赤米が彩り良く、黍は火が通るとかすかに甘くなって美味しかった
「本当にありがとうございます。この御恩は一生忘れません」
『足』の男は食べ終わって人心地付くと深々と頭を下げた
男は”新八”と名乗った
「一体どうなされたのかね?戦から逃げてきなさったか?」
「ええ、摂津から逃れてきました」
「それはまた遠いところを…」
「元々大和の騒乱から逃れて摂津に居たのですが、ここも危ないと思い岐阜の親戚を頼って行こうと…」
「それで?」
「上街道(中仙道)を行くとまた戦があるやもしれんと思い、下街道(後の朝鮮人街道)を歩いていましたら食いものが尽きて…」
「行き倒れたのかね」
「はい…」
甚左衛門は思わず笑った
笑いごとじゃないんだが、新八の言い様が妙に面白かった
甚左衛門は父と兄の分の食事を用意し、新八には自分の部屋に泊めてやった
部屋といっても衝立一枚で仕切られた場所だから、父も兄も同じ部屋のようなものだが…
父も兄も笑っていたな
どうもこの新八という男は愛嬌がある
目はクリっとしていてかわいらしいのだが、唇が分厚く上を向いている。まるでひょっとこだ
そのひょっとこが丸々とした顔で必死に話すから、妙におかしい
年は小助と同じ二十一歳
俺からすれば二歳下だ
一晩休めば疲れも取れるだろう
‐翌朝‐
一夜の睡眠で元気を取り戻した新八はせめてものお礼に麻を織ってくれると言った
麻糸は家の端に積んであったので、麻織りをしていることを見抜いたのだろう
半日掛けて織ったのは甚左衛門の見覚えのある織物だった
「こ…これは…蚊帳織りかね?」
「おや、ご存じでいらっしゃいましたか。大和に伝わる織物です。実は私は蚊帳織りの職人の弟子だったのですが、師匠と戦火の中ではぐれてしまいまして…
それで行く当てもないので岐阜へ行こうと思っていたのです」
「岐阜の親戚の方はそのこと知っておられるのか?」
「いいえ、ともかく命一つだけ持って参りましたので…今も岐阜に居るのかもわかりませんが」
「新八さん。実は私は行商をしていてね。今まで大和の蚊帳を商っていたんだが、手に入らなくて困ってたんだ
新八さんさえよければここに留まって蚊帳織りを続けてもらえはしないだろうか?」
「喜んで!どうせあすこの山で果てていた命でございます。お役に立てるのならばどんな苦労も厭いませぬ」
「良し決まった!」
(近郷の者たちにこの織り物の技を伝えてもらえれば、近江の蚊帳として良い産地になろう)
全くの偶然だったが、今までの主力商品だった蚊帳がよりにもよって生地の産業になるかもしれないとの思いは甚左衛門の心を強くした
父に事情を話して使っていない掘っ立て小屋を整理して新八の取り急ぎの工房とした
今年の収穫が終われば小屋に手を入れて、工房兼住居として整備していこう
主力商品の安定確保の目途が付いた甚左衛門は、少々危険だが越前方面へも行商の道を伸ばすことを考え始めていた
1570年(元亀元年)冬 伊賀国伊賀郡千賀地城
千賀地城内の庭地に音もなく入り、平太は膝を付いた
縁側にお頭が端座している
「お呼びで」
「平太か」
「はっ」
「近江から通うている例の商人。西川と言ったか。織田の情報が取れるか?」
「知己が東近江各地、それに岐阜で商いをしているそうにございます。なれど織田の動きは知らせがありませぬので?」
「本願寺がな…こちらに影働きを依頼してきよった」
本願寺十一世顕如はこの九月に全国の信徒に檄文を発し、対織田で浅井・朝倉・三好等と共闘の構えを見せていた
信長が摂津で本願寺・三好と戦っている間に近江の坂本で浅井・朝倉の連合軍によって宿老森可成を含む織田の将達が打ち取られていた
信長包囲網と呼ばれる試練の時を迎えていた
「織田の動きなら岐阜城下や軍の中に忍ばせた者たちから入りましょう」
「商人達の動きが知りたい。生粋の商人は利を見極めるに敏い。奴らがどう動こうとしているのかを探って参れ」
「はっ!」
入ってきた時と同様、音もなく平太が出ていく
(雑兵上がりの商人ではその辺が鈍い。生粋の商人の眼は時に我らをもしのぐ勘働きを見せるからな)
千賀地保長はどちらに付くのが旨味があるか考えていた
1571年(元亀2年) 春 近江国甲賀郡伴谷
「甲賀衆は織田家に付くこととなりましたか」
「ああ、お主も左様心得ておけ」
伴谷にある屋敷で伝次郎は兄の太郎左衛門尉と相対していた
伝次郎は甲賀流の一派の出だったが、十五の時に保内で商人となっていた叔父の養子となりそのまま保内衆の一員として商いに従事していた
商人として活動する傍ら、伊勢や京との通商を得て知りえた情報を実家の兄へ伝える役目を持っていた
「しかし兄上、弾正忠様は協力ではなく従属を求めておられましょう。甲賀衆の皆はそれを是とされたので?」
「うむ。苦渋の決断ではあった。しかし、六角が野洲河原で敗れたことでもはやこれまでとなった」
甲賀は『甲賀五十三家』と言われる小規模国人たちの合議制によって治められていた
六角家臣であった三雲成持は強硬に六角支持を訴えたが、織田からの圧力が強く甲賀衆は膝を屈する形で臣従を誓っていた
隣の伊賀衆はそれぞれ別の大名から依頼を受け、同じ伊賀の忍び同士でも敵として相対することもあり、時には伊賀同士での殺し合いもあったという
しかし、甲賀衆は敵味方に分かれることをせず、一郷を挙げて一人の大名に味方することが常であった
今までは六角氏に従っていたが、昨年の金ヶ崎の退き口の折り、六角親子が石部に進出して織田を牽制するも、姉川の戦いの前に野洲河原にて敗退していた
「しかし今織田は苦しい立場ではありませぬか?織田家に付いたとて、近江を逐われることになっては…」
「お主の言いたいことはわかる。だが、これ以上六角に付いても無駄であろう」
伝次郎は唇を噛んだ
信長が協力ではなく従属を求めることは十分承知していた
しかし、織田の統治が伝次郎の理想とする『皆の暮らしが豊かになる世』に繋がるかは疑念があった
商人を統制下に置き、古い権威を否定することはいい
伝次郎自身も今の体制が良いとは思ってなかった
だが、信長にとっての統制とは自分に銭を運んでこさせることだ
言い換えれば、統治者の為の商いとなる
そこに商人の信義が省みられるかどうかということになんとも言えない不安があった
伝馬を整備することにためらいがあるのもそのせいだ
(むしろ積極的に協力することによって自らの意見を商業政策に取り入れてもらえるよう働きかけた方が良いかもしれぬが…しかし…)
最初は里の父や兄の為の商いであったが、保内商人として過ごした二十四年間は伝次郎の中に生粋の商人としての理想や矜持を持たせていた
商いをする者は物を売り買いするのではなく、信を売り買いするのだという信念があった
これは現代においてもなお変わらぬ商売の真理である
が、真理であるが故に実現に非常な困難を伴うことも事実であった
伝次郎は未だ心を決めかねていた
1571年(元亀2年) 夏 近江国蒲生郡南津田村
「父上、どうしても行かれるのですか」
「くどいぞ甚左」
「しかし、此度ばかりは生きて帰れるかわからぬのですよ」
父は一つ大きく息をついた
「やむを得ぬ事だ。講を裏切っては我らはこの地で生きていくことができん」
「ちえはどうなされます。今年の秋には日野城より宿下がりをして参りましょう」
「それ故、お主と新八は残れ。後を頼むと言うておる」
「…」
「そなたは商人じゃ。講のしがらみからも無縁の身。我らはそういうわけにいかぬのだ」
今度は甚左衛門が大きく息をついた
事情は甚左衛門にも痛いほど理解できた
昨年の九月に顕如より発せられた檄文に応じ、各地の一向寺院は織田に対して蜂起していた
まず伊勢長島の願証寺が蜂起し、尾張の古木江城を落として信長の弟の信興を自害に追い込んでいた
信長は五月に長島の鎮圧に向かうが失敗し、将兵に多数の犠牲者が出ていた
これを見て近江金森が六月に蜂起し、近郷の門徒に金森への参集を命じていた
甚左衛門が住む南津田村からも兵を纏めて金森へ送ることととなった
一向宗がこのように民衆に広まり、また民衆の力を糾合できたのは、教義として難しい学問を必要とせず南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽浄土へ行けるということが一つ
もう一つは『講』という組織が農民の生活に広く浸透していることがあった
講とは本来、比叡山の学僧が一緒になって学ぶ場であった。現在の『講座』はこれが語源になっている
そこから中世に入って浄土信仰が広まると、講は寺に集まって僧侶の説法を聞く会へと変わった
また講は座と同じく自治の話し合いをする場にもなり、横の連帯意識が強まった
米作りは重労働であり、コンバインやトラクターなどの近代農機具が普及する昭和期までは、一人や一家族で完結するものではなく村人総出で行うものであった
今日は誰々の田、明日は誰々の田という風に村全員で行っていく
その話し合いを行ったのも講であった
講は半ば強制的に参加であり、参加しなければ米作りを満足にすることはできない
令和となった現在においても、農村地域や昔稲作が盛んだった地域では念仏講や観音講といった講が根強く残っている
これらの講は米作りを通じた共同体という性格上、非常に排他的でよそ者を寄せ付けることがなく、その為に信長も講の組織を根絶やしにするには一郷丸ごとを殺戮するという手段を取らざるを得なかった
『進めば極楽、退けば地獄』という坊主の説を信じて戦った農民は少数派であり、甚左衛門の父のように講の連帯意識、裏切ったら生きていけなくなるという現実的な恐怖によって一揆に参加する者が少なくなかった
甚左衛門の父と兄は金森の寺内町へと向かって行った
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