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初代 仁右衛門の章
第1話 商いの道
しおりを挟む注:この物語は、西川産業(ふとんの西川)の創業者西川仁右衛門の事績を元に、筆者の想像を交えながら歴史の中の商人達の姿を描いていきたいと思います
一部フィクションを交えており、史実と完全に一致するものではありませんのでご理解ください
1559年(永禄2年) 秋 近江国蒲生郡常楽寺湊
常楽寺の湊から船が出ていく
山門(比叡山)へ送るのだろうか、米を満載した船が忙しく出ていく
船頭たちが大声で荷積みの指示を出している
少年はこの風景が好きだった
活気があるし、何より船に満載の荷は豊かさの象徴のように思えた
年の頃は三十がらみで、日に焼けた逞しい体つきの船頭が声をかけてくる
髭面で厳めしい顔つきだが、笑うと目尻にしわが寄りとても悪人には見えない男だ
「お、甚吉。また小遣い稼ぎか?」
「うん。柿はいらんかね?船の上じゃ小腹も空くだろう?」
「うまいとこついてくるねぇ~。いくらだい?」
「三個で五十文」
「んじゃもらおうか」
「まいど~」
少年は船頭に柿を渡し、銭を受け取った
この船頭は少年の顔見知りだった
堅田の海賊衆の一人で、少年と同い年の息子が居るらしい
そのせいもあって、少年を見かけるといつも話しかけてきてくれた
少年の名は西川甚吉
近江国蒲生郡南津田村に住んでいた
年は数えで十歳 まだあどけなさの残る少年だが、たれ目でやや下膨れの愛嬌のある顔立ちだった
甚吉の父は百姓仕事の傍ら、イグサ・麻を栽培していた
といっても南津田村では珍しいことではなく、周辺の百姓家もだいたいは同様であった
収穫したイグサや麻は畳表・麻織物に加工し、得珍保の保内商人に売却する
甚吉は背にかごを背負って、その加工品を保内へ運ぶのが父から言いつけられた仕事だった
甚吉はその仕事の傍ら、家の庭で実った柿や、畑で取れた瓜などを常楽寺の船頭に売って小遣い稼ぎをしていた
良く言えば目端の利く、悪く言えば小賢しい少年だった
1559年(永禄2年) 秋 近江国蒲生郡今堀日吉社
小遣い銭を得た甚吉は、市場の喧騒の中を本来の目的地に向かっていた
この先の野々川郷の伴伝次郎に背負った麻織物を届けるのが目的だった
今堀日吉社は、美濃へ続く中山道と伊勢へ出る八風街道が交わる交通の要衝で、昔からこの辺りでは毎月八のつく日に市を開催していた
そのことからこの辺りを
『八日市』
と呼んでいた
「なんだとこの野郎!」
突然市場中に響くような大声がして甚吉は振り返った
目を向けると一軒の露店の前で五~六人の男が一人の男を囲んでいる
「聞こえなかったのならもう一回言ってやる!そっちが美濃紙を扱うからこっちもやり返してるだけだと言ったんだ!」
「てめぇ!痛ぇ目みなけりゃわからねぇのか!」
「やれるもんならやってみろや!」
大勢を相手にしているのにずいぶん威勢がいいなと思った
多分手出しはしないと踏んでいるんだろう
この市では喧嘩沙汰はご法度だと保内商人の間で取り決めがある
「まぁまぁ、お互いに落ち着きましょう」
男達の中から頭領格の男が進み出た
保内の伝次郎だ
「先年の管領代様のご裁可で、我らが扱う美濃紙は石寺の楽市の中だけと決まりました。我ら保内衆は、それを商売掟として固く守ることで争いを避けようとしているのです。
そちらも引くべきところは引いていただきたい、と申しているのですよ」
伝次郎がにこやかに話しかける
伝次郎はまだ二十五歳と若く、細面で優男な風貌から一見舐められがちだが、こと商いの交渉事となると異様な迫力がある
今も顔はにこやかだが、目が笑っていない
露店の男が気圧されたようにちっと舌打ちをして、広げた荷を片付け始めた
一頻りの騒ぎを見届けた野次馬が散っていくと、伝次郎が甚吉に気付いてにこやかに声をかけてきた
「やあ、甚吉。荷を運んできてくれたんだね」
「はい… あの、今のは…」
「ああ、なに、枝村衆の跳ねっ返りだろうが、うちの縄張りに店を出してたんでね」
「そうですか」
この当時、枝村商人は紙座を運営している
長い間近江では、美濃の紙は枝村商人の専売だった
だが、1549年(天文18年)に近江守護の六角定頼の裁定により、石寺新市では枝村商人以外の美濃紙の売買を認めていた
この枝村惣中に宛てた裁定文書は、現在確認される中で初めて『楽市』という文言が入っている
後年、織田信長が岐阜加納及び近江安土で発布した有名な『楽市楽座令』の走りであった
人によってはこの裁定文書を持って、六角定頼が史上初めて楽市令を行ったとしているが、この見解には疑問が残る
裁定文書の中で定頼は、紙商売のことについて
石寺新市は『楽市である』から、新儀(新興勢力)の商人が石寺新市で紙を扱うことについては『是非に及ばず』つまり、致し方ない
としている
しかし、この裁定によって楽市令が発布されたのであれば、文書を受け取った枝村商人にしても
(楽市とは?)
と困惑しただろうし、定頼にしても楽市がどういうものかの説明をする必要があるということは理解できるはずだ
しかし、この文書や他の六角家・保内商人の資料などを調べても楽市について説明された形跡は見当たらない
つまり、この当時すでに商人を含む一般庶民の間で、『楽市』という概念が理解されていたことになる
もっと言えば、商人達の間で先に『楽市』という概念が出来上がり、武士たちにも『楽市』という考え方があると理解され始めたのがこのころであるとすれば、この文書に楽市の文言が出てきたことの辻褄が合う
六角定頼が、新儀商人が石寺新市で紙商売を行うことをやむを得ないとする理由を『楽市であるから』としたのは、その方が説明が省けて手っ取り早かったからと考える方が自然な気がする
1563年(永禄6年) 冬 近江国蒲生郡野々川郷
「やあ甚左、待ってたよ」
伝次郎が甚左衛門に笑いかけた
この年の春十六歳になった西川甚吉は、西川甚左衛門と名乗りを変えていた
「よろしくお願いします」
「うん。まあ、もう少し待っててよ。今年から甚左を含めて四人足子を増やしたから」
足子とは、保内商人が近郷から隊商を組むために募集する荷運び人足だった
商人見習いとして商売のやり方を教わることもできる
しばらくすると残り三人が到着した
伝次郎が紹介してくれた
五井宗六・外村大助・外村小助
宗六と大助は同じ十六歳、小助は大助の弟で二歳下の十四歳だった
お互いに名乗りあった
自己紹介が済んだらそれぞれ麻の呉服を天秤棒にかついで、八風街道を伊勢方面へ向かった
目的地は桑名だそうだ
枝村商人が紙座であるならば、保内商人は麻・綿の呉服座を運営していた
保内商人は他にも、『塩・陶器・牛馬の専売権』『八風・千草両街道の独占交易権』を六角氏から安堵されていた
他郷の商人が専売の荷を持って八風街道を通行しようとすれば、六角氏の兵によって荷を強奪された
この当時六角氏と保内商人の結び付きは癒着といっても差し支えないほど親密なものだった
桑名に着くと伝次郎は何軒かの商人宿に呉服の荷を次々と卸していった
この当時商売の方法は大きく分けて二つあった
商人宿と呼ばれる販売拠点の百姓・町家と契約して卸売りをする方法と、里売りと呼ばれる直接商人が家々を回って販売する方法だ
伝兵衛は自身で直接販売することはなく、各地の商人宿へ荷を卸すことを主としていた
現在で言うところの卸問屋や商社の生業といえばわかりやすいだろうか
「噂には聞いていたけど、桑名は毎日が市日のようににぎわってるな。十楽の津といわれるだけはあるな」
宗六が感嘆したような声をあげた
「日野はどうなんだ?蒲生のお殿様は物産を積極的に保内商人に売り込んでいると聞いたぞ?」
「椀作りを奨励されてはいるが、自分たちで売るということはされないようだ。保内の衆がいるからだろうがな」
「そうか…」
甚左衛門は少しもったいないような気がした
自分なら、作ったものを一つ二つ懐に忍ばせて、楽市で売るのになと思った
五井宗六は日野の蒲生家に仕える武士の子だった
武士と言ってもお城に侍るような大身のものではなく、普段は集落内で百姓たちの農事を監督し、戦の時には近郷の百姓を集めて、兵としてお城へ連れていくのが役目だった
宗六はその名の通り六男で、分け与えられる土地もないため、商人になるつもりで伝次郎の足子として応募したそうだ
「そういえば甚左は知っているか?今観音寺のお城が少し騒がしいらしい」
「そうなのか?」
「ああ、何でもご当主の右衛門督様が後藤但馬守様を城内で討たれたらしい。それに他のご重臣方は反発しておられるとか」
宗六は幾分得意気だ
さすがに宗六は武士の子だけあって、武士の世界の動向には甚左衛門よりもはるかに詳しかった
「そのせいで右衛門督様は観音寺城を出て日野城に逃げ込まれてきた
蒲生下野守様が間に立って双方を取りなしておられるそうだが、浅井の動きもあると聞く…危ういことだ」
いわゆる、観音寺騒動であった
宗六はため息をついたが、正直、甚左衛門にはどうでもよかった
(父や兄が巻き込まれなければ良いが…)
思うことはそれだけであった
甚左衛門の父は百姓だったが、この時代百姓も合戦の際には領主に従って兵として戦場に行く
先年の野良田の戦いでは長柄兵として浅井と戦ったが、結果は六角家が負け、父も手傷を負って家に逃げ帰ってきていた
甚左衛門にとっては領主が誰であるかはどうでもいい事だった
無理な年貢を課されなければそれでいい
呉服を商人宿に卸した後は、紙や塩、魚などを買い込んで野々川郷に戻る
行きは呉服で軽かったが、戻りは荷が重く、鈴鹿山脈の峠を越えるのは一苦労であった
「今日は桑名で泊まり、明日朝から出立しましょう」
伝次郎の言葉に甚左衛門はほっとした
未だ夕方には間があったが、今から出発すると夜は峠道で野宿となる
野宿はまだしも、野盗に襲われでもしたらひとたまりもない
宿は粗末な木賃宿だったが、甚左衛門に不満はない
宗六は少し辟易した顔をしていたが、それを見て大助がからかっていた
「お武家様は雑魚寝はお嫌いかい?」
「そういうわけではないんだが…どうも土間に直で寝るのはな…
せめて莚でもひければいいんだが…」
「野宿となればどこも変わらんのだ。むしろ屋根があるだけ有難いと思おうや」
「俺は銭を儲けて良い宿を取れるようになりたいな。畳の上とは言わないが、せめて板間に莚を引いて休みたい」
「それでは始末が悪かろう。いくら稼いでも始末ができなければ底が抜けた甕のようなもんだ」
大助と小助が笑った
宗六はいい奴なんだが、どうにも始末が出来にくい性質のようだ
この時代以降、近江の商人は日本全国へ商圏を広げていく
他国の商人に勝つ競争力があった
その大きな源泉は『始末して気張る』という理念であった
気張るは精一杯がんばるということだ
自分が汗をかくことを厭わないという気構えだ
始末は倹約することだが、ケチケチすることとは少しニュアンスが違う
近江商人たちのいう始末とは、商売につながらない無駄銭を出すことを嫌うということだ
現代風に言えば、投資は良いが浪費は嫌うという意味合いだ
商人が浪費をすればその分は商品の売値に転嫁される
買い手は高い商品を買い、売り手に残る利益も少ない。双方にとって良いことではなかった
また、公益のために出す銭も意義ある使い方として奨励された
保内商人に端を発するこの考え方は、後世『三方よし』という言葉で説明されることになる
甚左衛門は昔から伝次郎とよく話したがった
伝次郎は周囲からも一目置かれる優秀な商人で、その厳しさから恐れられもいたが、甚左衛門は伝次郎が好きだった
今も伝次郎の傍でいろいろと話しをしていた
「いいかい甚左。商人は利を得るのが仕事だ。利を得るにはその場所にない物を運んでくるのが一番だ。例えば今回仕入れた塩だ。
近江では塩が取れない。だから人は銭を出して求めようとする」
「でも、伝次郎さんは何故他の商人よりも塩や魚を安く売るんですか?高く売った方が大きく利が得られるでしょう?」
「ははは。確かにね。でも塩の値が上がれば人々の暮らしがその分苦しくなるだろう?」
「それは…でも、あまりに安いと今度は伝次郎さんが苦しくなりませんか?」
「人々の暮らしが豊かになれば、それだけ多くの産物を求めるようになる。多くの産物を求めるようになれば、今のように周辺の国だけでの商いでは産物が足りなくなる。そうなれば、伊勢への道を抑えている我らは有利に商いをすることができる」
「なぜ伊勢への道を抑えている方が有利なのですか?」
「遠国からの荷は船で来るからさ。伊勢は東海・関東や堺からの船が着く。それに、長良川を使えば信濃や美濃の産物も集まるからね」
「なるほど」
「敦賀・小浜への九里半街道にも保内衆の商いが広がっている。それに、淡海の海を使えば南北の物産も集められる。結果として我ら保内衆にも多くの利が集まるというわけさ」
当時は琵琶湖のことを淡海の海と呼んだ
現在でも滋賀県の人は琵琶湖のことを湖と呼ぶことがある
「でも、楽市では他国の商人も商いをしていきます」
「構わないよ。全ての利を我らだけで独占しようとは思わない。他国の商人が持ってくる物産を融通しあえば、お互いに利を得ることができる。
武家は敵対しあう勢力とは戦をするが、我ら商人は利によって繋がることができるんだ」
「でも、塩や呉服は…」
「あれは、我らが独占することで値を大きく変えないようにしているだけだよ。あまり自由にやりすぎると他国からの荷が入ってくる時は安く、入ってこない時は高くなりすぎるからね。値が高すぎるのも安すぎるのも、皆にとっては良いことじゃない。高すぎれば日々の暮らしに困ることになるし、安すぎれば作っている職人たちが生活できなくなる」
甚左衛門はうなった
さすがに伝次郎だ。考えることの奥が深い
しかも、目的は皆の暮らしを豊かにすることだけで、自分たちだけが大きく利を得ようとはしていない
「武家の皆さまは我らの荷や利をどう戦に役立てるかしか考えておられないが、我らは皆が豊かになることに心を砕いているんだ。そのために、自分たちは精一杯始末して気張らないと」
1565年(永禄8年) 夏 近江国蒲生郡野々川郷
「大変だ!京で公方様が三好に討たれたらしい!
大和でも松永弾正が筒井と戦をしているし、京・河内・摂津・大和はずいぶんキナ臭い動きが続いてるな」
宗六が伝次郎の家で甚左衛門たちを相手に大騒ぎをしていた
公方様の弟君の一乗院覚慶様が守山を通って越前の朝倉を頼られたとか
甚左衛門はため息が出た
世が騒がしいことは商人にとっては良いことではない
堺や京の豪商たちは兵糧や武具を商っているから歓迎するかもしれないが、少なくとも自分たちのような行商人にとっては治安の悪化と物価の高騰を招く
物の作り手である百姓や職人たちが兵として出払えば、それだけ物が不足することになる
そして、戦による徴発で米や銭なども領主へ持っていかれる
何故仲良く手を取り合えないのか
武士とはそんなに人を殺したい生き物なのか
「ちょうどそのことで先日六角様より使者が参りました。兵糧を百石ほど都合せよと」
「伝次郎さん、それは…」
「ええ、今は米の値が高い。困ったことになりました」
伝次郎がため息をついた
「今回も荷は呉服ですが、牛を百頭連れていきます。私だけでなく保内衆全員が足子共々参加します。総勢は百人ほどにもなりましょうか」
「百人…最大規模の隊商になりますね」
大助が感嘆したような声を出した
「ええ、持ち下し荷も呉服だけでは足りないので、畳表や日野の椀なども大量に持っていきます」
「登せ荷は米ですね」
「米だけでなく、塩や干魚などの品も供出しなければ…六角様にはお世話になっているとはいえ、我らはより一層始末して商いに励まなければなりませんね」
宗六がげんなりとした顔をした
始末するのが世のため人のために大事だとわかってはいるが、宗六はやや自分を甘やかすきらいがある
「五井殿のために莚を持っていかなければならんな」
大助が大真面目な顔で言うと、全員が大笑いした
宗六は苦笑していた
保内商人に限らず、近江の商人は往還の両方で荷を運ぶ独特なものだった
他国の商人は目的地へ荷を運べば、代金を懐にしまい込んでそそくさと帰路に就くが、近江商人はその代金で新たな荷を買い付ける
近江から地方へ持っていく荷を持ち下し荷
地方から近江へ持って帰る荷を登せ荷と呼んだ
後年ノコギリ商法と呼ばれる往復商売は、近江商人の持つ合理性を象徴していた
百人の一大隊商は少し振り出した雨の中を蓑を着こみながら伊勢への道を歩き出した
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